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どんな辛いことがあろうとも朝は平等に訪れる。誰の元にも。着実に。誠実に。
朝は七時過ぎに起きる。娘と一緒にうにゃうにゃ言いながら布団のぬくもりを味わう。……ああ、冬の布団ってどうしてこんなにも離れがたい。娘もわたしも寝起きは悪い。夜型なのがわたしそっくりだ。
「じゃあ、おれ、行くから。円ちゃん。あーちゃん。行ってきます」
夫はとっくにシャワー諸々を済ませ、出かける体だ。年を取って朝が早くなった。
「……行ってらっしゃい」浮気する前までは円にしか挨拶しなかったのに。分かりやすい男。勿論返事なんかしてたまるか、いやするけど。
「パパー。行ってらっしゃい」
手を振り、夫は笑顔で消えていく。……あんなやつでもこの子の父親なのだ。さて。わたしはこの持て余す感情をどう処理したらよいものか。いや、いまはそれどころではない。とにかく、朝の支度をしなくては。
起きて真っ先にすることは、トイレに行くこと。それから顔を洗い、肌のお手入れをする。ちゃんと乳液化粧水が肌に入り込んでいないと、メイクが乗らない。なので、メイクを始める前に一定時間を置いている。
一方、娘の円のほうは、コーンフレークを手で摘まみながら、パパのタブレットで動画を見ている。お行儀が悪いとは思うが、学校と学童で大変なのだもの、ある程度の息抜きは必要かなと……容認している。
わたしは青汁を飲み、ぱぱっとパンをかじり、それから化粧をする前に娘に、歯磨きジェルをつけた歯磨き粉を手渡しておく。「……円ちゃん、落ち着いたら歯磨きお願いね」
「はーい」と円は画面から視線を譲らない。小学校に入ってからこの子は変わったな……と思う。元々自分の世界を持っている子だったが、のめり込みようが更に深くなった。
さて、息つく間もなくメイクアップ開始。カーキ色のパーカーにするから、グリーン系のシャドウにしよう。メイク時間はおおよそ五分。丁寧迅速をモットーとしている。
終わった頃に、娘も歯磨きを終えているので、娘に声をかけ、朝のお支度をさせる。……残念ながら、朝、顔を洗わせる習慣はまだない。させたいけれど、そこまで手が回らない。もうすこし本人の自意識が育つまで待とうと思う。
互いに着替えをし、わたしはピアス、ネックレス、腕時計、ブレスレットを順につける。わたしと違って娘は着る服をその日の朝決める主義だ。わたしは前日の夜に決めておくタイプだ。なにを着るかでメイクは変わるから。
さて。娘は自分で自分の長い髪を結べるのだが、衣装決めなど諸々で時間がかかるので、大概わたしが五分程度待つかたちとなる。じれじれする。上着を羽織り、娘が準備を終えるのを待つ。
「円ちゃん。三分遅れてる。行くよー」
「はーい」
娘の円には、まだ鍵は持たせていない。まだ自分で自分の持ち物の管理が、出来ない年頃だからだ。なので、行きはわたしが途中まで送り、帰りはわたしがお迎えに行く。……平日はいわゆるワンオペ育児をしている。時間帯の都合で――彼は朝早く出社しているので――育児の大部分をわたしが担うのは仕方ないと理解しつつも、理不尽さを感じるのが本音ではある。ましてや彼は――浮気をしている。
確証があったわけではない。なにか――会社で賞を獲るとか、いいことがあったのかな? ――そんな程度の認識だった。いま思えば、わたしの認識は甘かった。
いつも通り玄関を出て鍵をかけ、娘と途中で別れてから仕事に向かう。うちの地域は子どもだけで登校する子たちがほとんどだ。比較的小学校は近く、徒歩八分程度のところにあるのがありがたい。といっても校門まで見送ると駅から離れてしまうので、道途中で娘と別れるようにしている。通学路は蟻さんのごとく、ランドセルを背負った小学生でいっぱいだ。――さて。
気持ちを切り替えよう。
とするも、わたしのこころは堂々巡りを開始する。――夫。彼女。浮気。不倫。慰謝料。許容。謝罪……。
ふ、とひとり小さく笑った。夫が著名人だったらわたしは謝罪する立場なのだ。思えばわたしの小さい頃は、不倫は文化――とまでは言わないが、男の勲章扱いされていたというのに。とある女性芸能人の不倫騒動から、風向きが変わったように思える。会見をすれば叩かれ、しないでも叩かれる。――まったく夫よ。芸能人じゃなくてよかったな。
勤務地は二駅先で、本を読んでいるとあっという間に到着する。電車を降りるとぞろぞろ歩く大群の流れに従い、目的地へと向かう。
「おはようございます」
他のメンバーたちに挨拶をし、ロッカーに荷物を入れ、着替えてから、自席へと向かう。――わたしは、信用金庫に勤務している。後方事務業務を担当しているが、お客様の目に入ることもあるので、髪型は地味に――前髪は短めに、さっぱりとした印象を与えるようにしている。事務員は制服があるのでその反動でか、割とわたしのファッションはカジュアルだ。二十代みたいな服を着ている。
テラーから回ってくる伝票のオペレーションや渉外係が預かってくる伝票のオペレーション、各種届出の処理をしているうちに、瞬く間に定時を迎える。定時が17時半なのは助かる。17時50分には花見町に着けるから。花見町に到着後改札前のスーパーで急いで買い物を済ませる。
娘は学校での授業の後は学童保育に預けている。ありがたいことに、無料だ。何人もスタッフさんがいて、子どもたちの面倒を見てくれる。学校の敷地内にあるので、放課後は先生の引率で移動。勉強をやらせたり、校庭で遊ばせたりしてくれる。それでも円的には不満らしく、学童がいやだとかぶちぶち言っている。
「一年三組乙女円の母です。ありがとうございました」
学童のインターホンの前で呼びかけ、娘を連れてきて貰う。……地味にこの時間が長い。学童のスタッフさんはわたしの姿を確認し、確認してから娘を呼び出して、片づけをさせて、ランドセルを背負わせて、靴を履かせてカードを持たせて……。五分程度かかるだろうか。待たされる側としては随分と、長く感じられる。
「ママー」
ランドセルを背負って出てきた娘の顔を見ると顔がほころぶ。いやなことのなにもかもが忘れられる瞬間だ。学童のスタッフさんに、ありがとうございました、と礼を言い、その場を後にする。
帰り道も貴重なスキンシップタイムだ。とはいえ、この間、わたしはなるべく娘に話しかけないようにしている。学童から家へと、この子は気持ちを切り替えているのだ。思えば義理両親の実家から家に帰るときも、この子は物静かになる。――環境の変化に適応する時間が必要なのだ。
さて六時過ぎには帰宅するのだが。娘が手洗いをするのを見届け、自分も手洗いをし、スカートにつけていたポケットとそのなかに入れていたハンカチを受け取り、洗濯物の開始。それから風呂洗い。連絡帳のチェック。……連絡帳は毎日チェックしないと、平日に〇〇が必要とか書かれて慌てふためくことがある。学校側は早めに通知をしてはくれるが、なんせプリントの量が膨大で。例えば何ヶ月も先に〇〇が必要……とか書いてくれるのはありがたいけれど、捨てられないプリントがかさんで困っている。保育園だと行事のお知らせがあり、終わればその紙を捨てる、というサイクルで動いていたので。小学校だといろんなものが必要でお知らせの数も多く、なかなか辛いところではある。
さてざっと連絡帳に目を通したところで、風呂洗い、洗濯物の処理を済ませ、調理開始。今日は、チキン南蛮にしよう。だが、娘はもやしを食べたがるのでそちらの調理から先ず開始。冷凍したご飯、続いてシリコンスチーマーに入れたもやしを電子レンジであたためる。その間に買い物袋から出した野菜類を整理し、鍋に湯を沸かす。毎日味噌汁は食べる主義だ。特に風が冷たくなってきたこの頃であればなおのこと。
もやしのあたためが終われば、器に入れ、鶏がらスープの素、白ごま、ごま油をぶっかけてスプーンでかき混ぜ、ご飯とともに娘に差し出す。「円ちゃん。ご飯出来たよー」
こちらに背を向けて、タブレットに見入っていた娘が反応し、食べ始める。……ご飯中の動画は、止めさせようとして、会話を振ってもうまくいかなかった。あの子にとって動画は癒しであり救いなのだと思う。娘にとって、学童は『つまらない』。本人がそう言っていた。スタッフさん監視の下校庭で遊んだりは出来るが、基本的には座ってお勉強をするだけであり、退屈なのだろう。休日お友達が遊びに来た時に見せる顔と、学童帰りの顔が、随分と違うなあと、親の目から見ても分かる。だから、帰宅後すぐに動画に没頭することでストレスを解消しているのだろう。
わたしのほうは、40分程度で、チキン南蛮、人参とお揚げの味噌汁、きゅうりの浅漬けを作り終えた。白飯は、朝炊飯器のタイマーで予約をして夕方に炊き上がった日を除けば食べない主義だ。……太るので。
娘の隣に座り、食事を開始する。わたしはわたしで癒しが欲しいのでニュースをつける。ワイドショーのお店の料理紹介などわたしは大好きだ。娘がいるとなかなか好きな店にも行けないので、ここでストレスを発散している。――焼肉。美味しそう……。
それにしても今日のチキン南蛮はバリ旨だな。我ながらあっぱれ。
わたしは十五分ほどで食べ終える。悩ましいのは娘の食事に時間がかかるということ。娘が早く食べれるようこちらは段取りしているのに、わたしが終わったタイミングで娘が食べ終えたことは一度足りともない。
「円ちゃん。ママ、洗い物してパソコンするね」
「はーい」
声をかけて、洗い物を済ませ、それから宣言通りパソコンの前に座る。リビングには開き戸を開いたままにした小さな部屋が隣接しており、その部屋のなかの、メインのダイニングからも見えるソファーの前にででんと置かれたテレビの反対方向の壁際に、わたし用のテレビが置かれている。つまり、夫がテレビを見るのと背中合わせでわたしはパソコンをしたりテレビを見るかたちだ。さて――と。わたしは平常通り、パソコンに打ち込んでいく。
わたしはブログで、書評を書くのを趣味としている。かれこれ十年来続けている趣味だ。これがなかなかの人気で一日に百アクセスあったりなんかもする。この何年ものあいだ、週に一回更新している。流石に娘を産んだ直後は更新が途絶えたが。
本を読むのは電車内、それから家庭での隙間時間を利用して。21時には風呂に入るのでそれまでの小一時間が勝負となる。気になったところは本で確かめ、八割がた文章は完成した。――よし。
残りは明日やろう。そうこうしているうちに、娘が隣に来て引き続きタブレットで動画を見ている。声をかけ、今度は洗濯物の処理を開始する。干していた洗濯物を畳み、それから洗いあがった洗濯物を干すのだ。家事が大変なあまり、実は娘がかなり小さい頃からやらせている。休日はパパに担当させているが。――彼女。女が出来ても、洗濯物の処理をするのかな……あの男は。
ああ、いやだなあ。こうして些末な日常を送っていると、思考にするりと、女の影が入り込んでくる。夫に――彼女が出来たという事実が。
確かに、夫は、イケメンというほどではないが、ほどほどにさっぱりとした風貌で、女性人気は高い。外面はいいから。それで――彼女さんとやらも、絆されたのだろう。
さて続いては風呂に入り――娘の頭はわたしが洗っている――わたしは別室でかるく運動、娘は動画に没頭していると玄関からどすんと物音が――いつからわたしは夫の帰宅を喜べなくなったのだろう。ワンオペ育児に追われるわたしにしては、夫の帰宅は迷惑だったりする。眠りについたときにこっそり帰ってきて欲しいのが本音だ。ましてや夫は――外で他の女を抱いている。
リビングでなにやら夫と娘が会話をしているのが聞こえるが、わたしは無視を貫く。会社ではデスクワーク、家庭では育児と家事に追われるわたしにとってからだは資本だ。元気でなければなんにも出来ない。だから、一日最低十分は運動をしている。最近はその手の動画がたくさんアップされているから大助かりだ。
夫は――風呂に入ったようだ。足音が聞こえ、それが大きくなるのをちゃんとわたしの聴覚は拾っていた。それから――わたしに話しかけない事実に、安堵する。――彼女。浮気。あの話が嘘であって欲しいと――願う、原始的な自分を発見してしまう。愚かなわたしよ。まだ――信じてるなんて。
それから娘に声をかけ、歯磨きをし、明日の教科書や持ち物の準備をさせ、トランプで遊んだあとに寝かしつける。これを開始するのが22時くらいで、だいたい22時半――遅くとも23時には就寝する。つまり、寝かしつけにざっくり一時間かけるかたちだ。別室での運動タイムを除けば、わたしが自由なのは19時半頃~洗濯物の処理を開始する21時まで。せいぜい一時間半ほどの自由時間でなんとか、綱渡りの日々を続けている。
一方の夫は、早く帰ってきても育児にはノータッチで。大きい方のテレビでゲームをしている。その姿に、殺意が湧かないでもない。ましてやこのひとは――
「そういやさ」わたしが娘の寝室から出てくると、夫は画面から視線を譲らないままに言葉を発した。「おまえ――色々大変じゃん? 美冬《みふゆ》がさ。料理得意だから、もしよければ、お手伝いしますと……そう言っていたぞ」
敢えてわたしは尋ねた。「……誰。美冬って」
夫はこちらへと顔を向け、「おれの彼女」
わたしはその辺にあったクッションを夫の顔めがけて投げつけた。わ、なにすんだよ、と言われようが――知ったことか。――ひとを侮辱するのも大概にしなさい! 誰が……夫の不倫相手になんか!
「お断りです!」わたしは娘を起こさない程度の声量で叫んだ。「そんな話……二度と、わたしの前でなんかしないで! 次言ったら蹴飛ばすから!」
わたしの剣幕に押されてか、夫はおおう……とか変な言葉を発している。知るか。馬鹿。怒りに足を踏み鳴らしながら、洗面所へと、歯を磨くために向かう。――ところがこの数日後にまさか、美冬という女の力を借りることになるとは――このときのわたしは思いもしなかったのである。
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