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朝、起きた瞬間、いやな予感がした。喉が痛い。
三十七年生きているから分かっている。これは――風邪だ。
念のため熱を測る。36.6度。憎たらしいくらいに平熱だ。そしてこの程度の症状では会社は休めない。キッチン内でマスクをするわたしを見て、夫が言った。「あり。篤子《あつこ》、風邪?」
「引き始めだとは思うけど念のため」
「そっか。お大事に」
それだけ言って夫は部屋を出て行く。……元々、はなから看病なんか期待しちゃいない。産後のダメージは深刻で、出産から一年間くらい、やたら風邪を引きやすくてしかも治りにくかった。わたし、確か40度の熱があったのに、普通に円のお世話もして、洗濯物を干していたもの。……わたしが熱を出しても自宅で休むという選択肢はない。まだまだ円は手がかかるし、送り迎えが必要だし……。
因みに、わたしが育休中に高熱を出したとき、夫は一度、義母――彼からすれば実の母をヘルプでよこした。とはいえ、義理の母が来るとなると掃除をせざるを得ない。高熱でふらふらになりながらも家事全般を済ませ、一方、呼ばれた義母はすることがなく当惑顔だった。夫のわたしに対する扱いなんか所詮そんなものなんだ。苦い現実を噛み締めつつも、わたしは普段通り出社した。
* * *
風邪は、日に日に悪化する一方だった。薬は飲んでいるが、治りが遅い。年のせいか。高校生の頃まで、わたしはよく熱を出して早退したが、一晩寝ればけろりだったのに。三十代後半ともなると、やはり、十代二十代のようにはいかない。なんとか仕事を終え、金曜日の仕事帰り。激しく咳き込み、ママだいじょうぶ? と言われながら玄関のドアを開くと――見たことのないハイヒールの靴が目に入る。
「あっお邪魔してまーす」
若い、女の、声。わたしは凍り付いた。一方、女のほうは部屋のなかにいるのか、足音が迫り、やがて姿を現す。「……篤子さんですね。初めまして。新谷《しんたに》美冬といいます。勝手にお邪魔させて頂いてすみません。紘一《こういち》さんには、本当お世話になってまして……あ。紘一さんはまだ仕事で……」
――例えば、この女にビンタを食らわせたら、この女はどんな顔をするのだろう。
年齢よりも若くは見えるが落ち着いた印象を与える女だった。髪が肩をすこし超える長さでパーマのかかった、清楚なワンピースがお似合いの、ぴっちぴちのぷるんぷるん! 紘一でなくともむしゃぶりつきたいくらいに可愛らしい――嫌味なくらいに可愛い女だった。挙句、おっぱいが大きい。エプロン姿はまさに新妻といった感じだ。仕事柄色んな人間を見ているがこの女はまさに善意の塊! といった印象だった。イカれている感じもない。
「初めまして」と頭を下げる。「わたしが……乙女篤子で、こちらは娘の円です。円。ご挨拶なさい」
「はじめまして!」事情を知らない円が瞳をきらきらとさせて挨拶する。「おとめまどかです! ななさいです!」
「まあ……お利口さんね」と美冬は目を細める。「あの……立ち話もなんですから。いま、料理を作っていますので、お話は食べながらにしましょう……。あ、お洗濯物はわたしがやりますので……」
「――いえ」毅然と告げたかったのだが、咳き込み、会話がままならない。心配そうに円がわたしを見上げている。「そんなことをして貰うわけには……」
「させてください」美冬は、見た目にそぐわぬ強い口調で言う。そっとわたしの背に手を回し、「……わたし。篤子さんのお手伝いをするために、今日は来たんです。お願いです。篤子さん。とにかくいまは……休んでください。あ、お風呂を沸かしてありますので、すぐ入れますよ」
――この声が、この手が、夫を誘惑したのか。腹の底が煮えたぎる感覚を覚える。……が、体調が悪すぎて、抵抗する労力が根こそぎもぎ取られたかのようだった。正直、なにもせずにすぐに……寝たい。
「でも……円はいつもママとお風呂入りたがるし……」
どうしてこんな弱音が口から出たのかよく分からない。頼れる相手が欲しかったのかもしれない。すると美冬は、しゃがむと円に目の高さを合わせ、
「円ちゃん。……ママ、いま、とっても具合が悪いんだって。悪い悪い菌がからだのなかでわーるいことをしているの。
だから、お風呂はね。あとで、おねえちゃんが入れてあげる。とにかく今日は、ママを休ませてあげようか? 出来る?」
いつもママママなはずの円がこっくり頷いた。――驚いた。お風呂なんて絶対ママとしか入らない――寝るときもママと一緒。家だとママママばかり言っているのに。
美冬は腰をあげるとわたしに片目を瞑って見せた。「……いいお子さんですね」
* * *
「――ああ。気持ちいい……」
極楽極楽。風邪で最悪のコンディションだというのを除けば。――ひとりでお風呂に入るのなんて何年ぶりだろう? 最後にひとりで入ったのなんて、思い返せないくらいに昔だ。湯船にゆったりと漬かり――日頃の疲れを癒そうとする。
いやいや、ないない。
これは、夫の浮気相手が沸かしたお風呂だ。なにやら台所からいい匂いがしたことからすると、夫の言った通り、美冬という女は、料理をしてくれているらしい。――料理!
キッチンは女の聖域だ。女の聖域を荒らそうなんざ――許すまじ!
……と、言いたいところではあるが、疲れた。風邪薬は効いているらしく、仕事中眠たくなったり、かつ、あと、飲み始めて二日も経つと胃の調子が悪くなるのだ。胃薬が欲しいってくらいに。風邪薬と胃薬を同時に飲んだことはないが、同時飲みはからだに悪そうで、なんとなしに控えている。
風呂からあがり、全身の手入れをし、ドライヤーで髪を乾かしてから出ると、図ったかのようなタイミングで美冬の声がした。「篤子さん。食べられますか?」
美冬がするというので、わたしが買ってきた野菜類は既に冷蔵庫に仕舞われている。美冬曰く、食費は紘一から貰っているとのこと。しっかりしている。――というか、余計な借りなんか作らせないで欲しい。
ともあれ、わたしは答えた。「はい。食べられます」
廊下からリビングに入れば、ふわっと、卵のいい匂いがした。「……お雑炊ですか」
「はい」とエプロン姿の美冬は微笑む。「円ちゃんは、鶏肉がお好きだというので、ナゲットにしました」
ナゲット。そんなもん、作ったことがない……。
見れば、コンロ回りがまっ茶色のはずが、ぴっかぴかになっていた。見れば、レンジ回りのフィルターまで新品に交換されている。――いつの間に、掃除したのか。
念のためリビングを見やれば、掃除機をかけた……いや、床なんて拭き掃除をした痕跡が見られた。つやつやと二十代の女の肌みたく光っている。
「え、と……」わたしは当惑しながら美冬に尋ねる。「これ、……全部、あなたがやったの? いくら支払えばいいのかしら?」
「無償で!」と美冬が大きな声を出した。ダイニングでタブレットを見ていた円が顔を起こす。「あ……いえ。普段は仕事としてこれを行っているのですが、篤子さんはわたしの特別な方ですので……篤子さんの風邪が治るまで、無償でさせて頂ければと……」
わたしは鼻を鳴らして笑った。「――だから、紘一をあなたにくれと?」
「あ……いえ、篤子さんが納得されないのもごもっともだと思います……」殊勝に頭を下げるさまがなんとも憎らしい。いじらしくもある。「込み入った話になりますのでその話はいずれ……日を改めてさせて頂ければと……」
いずれにせよ、憎むべき相手にわたしが世話になるのがこの現実。ああ……世知辛い。
この女がわたしに親切にすればするほど、わたしは――痛めつけられる。紘一との関係が修復不可能だということを、思い知らされるのだ。まったく。
ともあれ、わたしはダイニングに座り、美冬の――夫の浮気相手の作った料理を味わった。悔しいくらいに、美味しかった。
*