小さくて粗末な机の上の安っぽい蝋燭の火影に照らされて、寝台の上にうつぶせに寝転がりながら、『闇夜の魔術と月夜の魔術』の読み取りにくい頁をベルニージュはじっと見つめていた。
教本程度の深さだがアルダニ全域の魔術が体系的に網羅されている。いい買い物をした。ユカリを説得した甲斐があるというものだ。ベルニージュは小口を撫でながらそのようなことを考えていた。
「そういえば、ベルニージュ。聞きたかったことがあったんだった。忘れてた。実り名って何?」
ユカリの声は昼日中に聞く溌剌とした声と違って、夢の中から抜け出てきたような淡い響きだった。
その言葉が自分に向けられているのだと気づいてベルニージュは顔をあげる。今は夢魔が目覚めて働きだすような深い夜だが、ベルニージュの紅の髪に覆われた頭は水底の見える清い小川のようにはっきりと冴えていた。
小さな宿の小さな部屋だが寝台は二つあり、夢魔も呆れるような侘びしい窓辺にはぐらつく小さな机もあった。すでに眠っていたと思っていたユカリの紫水晶のような二つの瞳が反対側の寝台からこちらを見ていることに気づく。
そのユカリの紫の瞳が、こちらとあちら、現世と夢の狭間にあることは一目で分かる。そのような状態にある強力な魔法使いと話をすることはあまり賢いとは言えなかったが、ユカリが自分に何かするなどという恐れはどこにもない。今は魔法少女でもない。
「実り名? 何でまた?」
ベルニージュは問いかけている間に本を閉じ、頭の中と外を繋ぐ知識の通路を閉じて、疲れていない半身を起こす。机の上に手を伸ばし、芯切りを手に取って蝋燭の芯を切り取って、眠たそうにしていた炎を強める。
蝋燭の向こうの窓には星明りさえ見えない。宿の周囲を囲む建物はどれもこれも伸びをする巨人のように背が高く、夜闇を覆う神秘を畏れるかのように星影を隠してしまっていた。
「えーとね。首席焚書官のサイスに対して護女のふりをした時、エイカって名乗ったの。そしたら実り名は言えないのかあ、侮辱だあ、みたいな反応をされたの。虚ろ名と何か関係あるのかなって」
「ああ、そういうこと」ベルニージュはユカリに説明するために頭の中で言うべきことを整える。そうして胡坐をかき、背を壁に預け、薄暗闇に横たわるユカリの瞳と向かい合う。「虚ろ名はただの偽名だけど、それを虚ろ名と呼んで名乗る意味は話したよね?」
「ええっと」と言って、しばらく夢の中をさまよったユカリはすぐに戻って来る。「本名が呪われるとか、そういう仕方ない事情があるんだよ、って暗に説明するためだよね?」
「そう。その通り。で、名前を呪うことが出来るわけなんだけど、何も名前に行使する魔術は害を与えるものだけじゃないんだよ。祝福とか、聖別とか、単に力を強めたり、媒介したり、やり方は色々あるんだけど。そういう本人にとって価値ある力が込められた名前を総称して実り名というわけ」
ユカリはあくびをかみ殺したらしい小さな唸り声をあげる。
「そんなの名前を聞いただけで分かるの?」
「普通は聞いただけでは分からないけど、状況によっては分かる場合もある」ベルニージュはユカリの瞳を見、揺れる蝋燭の明かりを見る。「護女がみな特別な名前を名乗っているのだとすれば、エイカはさして珍しくもない名前だから違和感があるね。仮に『エイカ』って名前だけに魔法をかけても、その力は世の全てのエイカさんに分散してしまって使い物にならないってわけ。救済機構が実り名をどのように運用しているかまでは知らないけどさ」
「もしかしてユカリ、呪われません?」とユカリは隙間風を浴びる蝋燭の炎のように震える声で言った。
幼子のような言い方にベルニージュは薄暗闇の中でくすくすと笑う。
「そんな心配いらないって。だいたい呪われたとしても魔法少女に変身するたびに解呪できるんだからさ。ああ、でも、救済機構の総力を挙げて大規模儀式でもしたら分からないかもね」
ユカリの長い沈黙に気づいてベルニージュは慌てて付け加える。
「いや、冗談だよ。魔法というのは得てして行使する者が未知であるほど、対象が既知であるほど効果が高まるんだから。ワタシたちの方が魔法的には有利な立場にあるからね」
今のところは。
しかしやはりユカリの返事はなく、ほどなく小さな寝息が聞こえてきた。よくよく目を凝らすと紫の瞳はもう瞼の向こうに隠れていた。ベルニージュは安心するような呆れるようなため息をついて、再び本を開いて知識の海に浸る。
翌日、ベルニージュは大きな街路を人ごみを縫うようにして進んでいた。雑踏というほどではないが、沢山の人々が、様々な生業の者や異国の人間が、行き交っている。馬方に魚売り、ナタノク人に穴掘りの民。それぞれの歩幅でそれぞれの速度で、研磨したように美しい石畳を闊歩している。
まだ日が昇り始めたばかりの早朝である。陽光は屋根を照らすだけで、人の歩くところまでは降りてきていない。にも関わらず、威勢の良い呼び声が飛び交い、生き生きとした表情で、この街は営みを始めていた。境の向こうに息づく夜闇に潜む者たちが通りの端の建物の影へと身を潜め、黄色い瞳を細めに細め、人間に届くことのない小さな呪いを投げつけている。
ベルニージュの目は行き交う人々の衣服の飾りや模様に込められた力をさりげなく読み取り、耳は聞こえてくる言語、商売人の符牒を聞き取る。その響きや抑揚に不思議な力がありはしないか、あるとすればどのように人々に影響を及ぼすのか。
新しくやってきた場所でこうして観察することで、大陸における魔法的な立ち位置を知ることが出来る。グリシアン大陸のアルダニ地方、大河ビトラ北岸の都市国家で利用されている魔法は、それ相応の歴史的流れと土地に求められるあり方を示しているはずだ。
建物の様式は、それが神々に捧げられた塔にしても、人々を裁く裁判所にしても、アルダニでよく見られる川船のような造りの流れを汲んでいる。刻み込まれた魔術や装飾化したおまじないは大河の畔に住む者たちなら誰もが知っているような水難避けの加護ばかりだ。少し珍しいものといえば、屋根や壁が濃紺や焦げ茶色に塗られていることだろう。それはベルニージュに落ち着いた印象を与えたが、しかしその色が選ばれている理由までは分からなかった。
都市国家エベット・シルマニータは大河ビトラの大いなる流れに寄り添う黒真珠の如く美しき街だ。アルダニではさして珍しくもない大河の港に端を発する街であったが、今では北へとその領域を伸ばしている。南のアルダニ地方と北のサンヴィア地方を南北に分かつ大いなる山脈壁、その切れ間に横たわっている灰色の荒れ地の端にまで都市国家の領域が届いていた。
今、ベルニージュがいる場所はこの街の南端であり、まだ大河の香りが川風に乗って、陽気な竪琴の音とともに漂ってくる。聖なる朝の訪れを喜ぶ音色を、人々の忙しそうな足音が拍をとり、エベット・シルマニータの街は一つまた一つと窓を開き、目覚めていく。日々の悲しみは常に大いなる都市に寄り添っているが、かの都市が寝込むほどの悲劇は起きていない。
サクリフは、少なくともこの街で騒ぎを起こしてはいないようだ。この街の方向へ飛んで行ったという噂を聞いてユカリとベルニージュは遥々やってきたので、目撃情報がないか調べることにした。二人は手分けして、ユカリは港付近を、ベルニージュは街の北の方へ足を伸ばして聞き込みをすることにした。
その人の多さや建築物の巨大さから経済的に成功している街であることは見て取れた。救貧園に医療園、孤独院、施薬院のような分かりやすい社会保障的施設もある。テネロード王国のような巨大な国でもないのに、これほど福祉の充実した国家は珍しい。昨日も今日も一人として乞食や娼婦、やくざ者を見かけない。単純に治安も申し分ないようだ。
ベルニージュがそう思った矢先、野太い悲鳴が聞こえた。周囲の人々が悲鳴の聞こえた方向、裏通りへと伸びる路地を注視する。しばらくして暗がりの向こうから男たちが飛び出してきて、汚い言葉で罵りながら逃げるように走り去った。
同時に強力な魔法の雰囲気が足の多い虫のように這いずって路地から溢れては消えていくのを、ベルニージュはその肌で感じ取った。それは爆ぜる炎の唸りのようであり、灰と炭のような鼻に纏わりつく臭いのようでもあった。
他に誰も現れないことを確認すると、ベルニージュはその路地へ踏み込むことを決意する。高い建物に挟まれたその路地にはまだ《昨夜》が息を潜めていた。しかし星々に洗われた清らかな夜ではなく、悪しきを企む盗人や悪戯妖精の好む澱みのような夜だ。
手の甲に炎を灯すと、ベルニージュは路地に踏み込んだ。思いとどまるようにとベルニージュの背中に見知らぬ人々が声をかけるが、その魔法使いの少女を踏みとどまらせるような力ある言葉はなかった。いくつかの呪術を練り上げた手の甲の炎は小さな硝子瓶に閉じ込められた魚のようにぐるぐると踊り狂っている。照らし出される明かりは奇妙に揺らめき、路地に残された小さな夜の領域を押しのけていく。
小さな空き地があった。数本の糸が集まって絡まった団子のように、数本の細い路地が結集し、その小さな空間を形作っていた。その区画の暗闇は、まるで朝の訪れとともに世界の果てに追いやられた夜の一部がそこに忘れ去られてしまったかのようだ。誰にも崇められることのないだろう五つの顔の小さな偶像が路地の角に鎮座している以外は他に何もない。
その闇の真ん中で、何者かが男の襟首を掴んで持ち上げていた。
「そこで何をしているの?」そう言ってベルニージュは手の甲をかざし、灯した炎の輝きを強める。路地の一角に寄り集まっていた闇は慌ててそれぞれの路地のさらに奥へと逃げて行った。
そこにいたのは淡黄蘗の髪に、満月のようなふくよかな体を瑞々しい天鵞絨の長衣で覆った魔法使い、ベルニージュの母だという人物だった。少なくともベルニージュにそのような記憶はない。
ベルニージュの母を名乗る人物は娘の姿を認めると男を解放した。小太りの男は少しの声を漏らすこともなく、路地から逃げようと這って行く。
「お久しぶりですね、ベルニージュさん。こんな所で何をしているのですか?」
その声は魔的な響きを伴っている。言い聞かせる力、魅了する力、納得させる力。
「それはこちらの台詞だよ、母上。あの男に何をしていたの?」
ベルニージュはさっきの男など何の関心もないとでもいうように、不思議そうに笑みを浮かべる。
「少し話を聞いていただけですよ。お陰で少しばかり知りたかったことが分かりました」
ベルニージュは他には誰もいないことをもう一度確認する。ベルニージュの母が眩しそうに眼を細めているので、炎の明かりを弱めた。
ベルニージュは母に尋ねる。「デノクの港町を焼き尽くしたらしいね。一体何のつもり?」
ベルニージュの母はうんざりしたようにため息をつき、優雅な所作で腕を組む。
「この話は何度目でしょうね? 何度も何度も繰り返し繰り返し言って聞かせてきました。全ては貴女のためですよ。ベルニージュさん。貴女の母上のやることは全て、全て貴女のため」
「うん、知ってるよ。その度に何度も言ったよね」ベルニージュも負けじと言い返す。「ワタシの記憶を取り戻すために何をしているの? ワタシは母上よりも知っていることが少ないのだから、順を追って話してくれないと分からない。どうしたらデノクの港街を焼き尽くすことが、ワタシの記憶の回復に繋がるのか話して」
「そうですね。別に秘密にしなければいけないわけではありません。ベルニージュさんは魔女シーベラをご存知?」
「もちろん。アルダニで知らない者はいないよ」
「貴女の記憶喪失にそれが関わっている可能性があります。ハウシグ王国の図書館で母上はそのことに気づいたのです」
「古代の魔女がワタシの記憶喪失に? それでサクリフを追って来たってわけ?」
「羽ばたき?」
「うん。あの蛾の怪物の元になった人物の名前だよ」
ベルニージュの母は豊かな睫毛で頷くように、厳かに瞬く。
「そう。あれを調べようと思ったのです。でも驚きました。とんでもなく強力な存在のようです。まるで歯が立ちませんでした」
当然だ。魔導書を宿した怪物であり、あらゆる殺意や敵意を退ける。力づくでどうにかなるような存在ではない。
「それでサクリフはここに、この都市に来たの?」
「恐らくその通りです。ですがベルニージュさん。ここにも魔女の爪痕の一つとされる地下神殿があるそうです。母上はそれを調べようとも思っていました。何か手がかりがあるかもしれません。この地の伝説はご存知?」
何も知らない。
「全く知らないわけではない。母上は知っているの?」
「ええ、知っていますよ。遥か昔から存在していた地下神殿を魔女シーベラが牢に改築し、己の子供を閉じ込めた、という話です」
ハウシグ王国の図書館といい、魔女の牢獄といい、地下神殿といい、魔女シーベラは誰かを閉じ込めてばかりだ。しかしありえない話でもない。近年においても人体実験を行ったかどで処刑された魔法使いは少なくない。知的好奇心は時に道徳心を打ち倒してしまうことがあるようだ。古代であれば、なおさらそのような事例は多かったのかもしれない。
「そういえば」と言ってベルニージュは事前に調べていたこの都市エベット・シルマニータについて思い出す。「数十年前に古い遺跡が発見されて、今なお多くの財宝が発見されているって話だったね」
「ええ、その通り。それがこの都市の主要な財源であり、今の繁栄をもたらしたとか」
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