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ユカリは寝ぼけ眼をゆっくりと瞬きながら床へと足を伸ばし、そこにあるはずの靴を手探り、もとい足探りで探す。夜の間に冷たくなった靴を履くと体と寝台を軋ませながら何とか起き上がる。薄暗闇に目を凝らし、向かいの寝台にベルニージュの姿がないことを確認する。
手探りで窓辺に近づき、両開きの窓蓋を押し開けるが、部屋の暗さにさして変化はなかった。星は消えたばかりのようだが朝はまだやって来ておらず、秋の冷たい空気がここぞとばかりに忍び込んでくる。それと同時にグリュエーがユカリの顔に吹きつけて黒々とした髪を、海を行く船の旗のように靡かせる。
ユカリは目を細めて顔をこわばらせ、呟く。「私は寒さに強い方だけど、真冬にそれをされたら凍死してしまうかもしれないよ」
「死んじゃ駄目。死にそうになったら言って。すぐやめるから」
三階の高さの窓から寂しい地上を見下ろし、誰かを探す。街にはまだ誰もいない。野良猫か野犬か妖精か分からないが、家々の壁をなぞるように小さな影が走っていくのが見えた。それがベルニージュでないことは確かだ。
もう一度、いないことは分かっているが、ユカリは小さな部屋を見渡す。もちろん背嚢もない。
「ベルニージュ、知らない?」とユカリはグリュエーに尋ねる。
「知ってる。ユカリの友人で旅の仲間だよね。赤毛に赤い瞳。少し不健康そうな青白い肌」
ユカリは机にもたれかかり自嘲気味に微笑む。くすんだ燭台は無くなっている。宿で賃貸ししていたものだ。もう返却してしまったのだろう。
「よく知ってるね。それじゃあ、ベルニージュがどこに行ったかは知ってる?」
「少し前に出て行ったよ。昨日決めてたんでしょ? 手分けして情報収集するって」
「そうだけど、まさか朝食を食べる前に出かけてしまうなんて思わないじゃない?」
「お腹が空かないのに朝食を食べるの?」
「まったく入らないわけじゃないし、少しくらい食べたらいいのに。ってずっと言ってるんだけどね。まるで興味がないみたいだよ。食べる暇にできることがあるってね」
「ベルニージュは働き者なんだね」
ユカリは薄暗い虚空を睨みつける。
「私が怠け者だって言いたいの?」
「すごい。何で分かったの?」
ユカリは護女の僧服を取り出して身につけ、少し軽くなった合切袋を肩にかけ、忘れ物がないことを確認する。一泊分の料金しか払っていないのでここに戻ってくることはない。ベルニージュとの待ち合わせ場所はこの宿の前にしたが、もっと良い宿を探すことに話し合って決めたのだった。
閂の外れた古びた扉の前で立ち止まるとユカリは一人呟く。「えっと、五回だったよね」
ユカリが扉の取っ手を人差し指で五回叩くと、敷居から縦枠、鴨居の方へと火花が走った。分かってはいたが驚いて何歩か退く。静まり返った扉にゆっくりと近づくとおそるおそる手を伸ばす。もう何も起こさない取っ手を握ってユカリは扉を開き、部屋の外へ出る。一階まで降りるが従業員も宿泊客も幽霊も怪物も、ユカリの他には誰もいない。
誰もに忘れられた深い森のように薄暗い宿の外へ出ると、ユカリを歓迎するようにより冷たい空気に包まれる。ユカリはまだ平気だったが、最近のベルニージュは事あるごとに寒くなってきたと愚痴っていた。
「ユカリ! ユカリ!」とグリュエーが吹き荒ぶ。「まただ! まただよ! グリュエーに似た何かが近くにいる! どこかにいる!」
ようやく眠気が追い出されてしまい、ユカリは最後のあくびを一つする。
「前にも言ってたね、それ。具体的にどういうこと? グリュエーみたいに使命を持った風がいるってこと?」
「そういうのは分からないけど、グリュエーがいるって感じがする」
うーん、と唸ってユカリは通りの左右に目を通す。誰もいない。少なくともユカリの目に見える存在は存在しない。
「どっちにいるのかは分かる?」
「こっちな気がする!」
グリュエーはそう言うとユカリの体を押しやる。冷たい風に包まれて、ユカリは僧服を引き寄せる。
「分かった。分かったから押さないで。方向だけ教えてくれればいいから」
グリュエーに言われるがまま河のそばの湿った街を放浪する。まだ寝静まっている薄暗い街をふらふらと歩き回っている姿を端から見れば魔性の類と思われるのではないだろうか、とユカリは不安になった。もしも幼い頃の自分が真夜中に村の中でそんな姿を見かけたら、どうやって討伐するかと頭を悩ませたことだろう。
まだ外に人の姿はほとんどないが、ちらほら建物の中に営みの気配が現れ始めた。情報収集するにはまだ早い。もう少し寝台の中にいれば良かったな、と後悔する。
グリュエーに細い路地へ招き入れられたと思えば、今度は建物の上へ行けという。ユカリは辺りに人がいないことを確認すると、グリュエーの助けを借りて壁を駆け上がる。何の建物かも分からないが、濃紺に塗られた屋根まで上る。
「ここにいるの?」とユカリは【言った】。
「何? 何だ? 何か来た! 逃げろ!」と眠りを妨げられた鳩が叫びながら飛んで行く。
ユカリは樋嘴に掴まってエベット・シルマニータの街を見渡す。東の空が白ずんでいることに気づく。太陽のお出ましだ。天の運行は滞りなく、朝がのそりと身を起こし、黄金色に身を染めた雲が地上に目もかけず流れ去る。人間よりも空を気に掛ける鳥たちは新たな主を出迎えるように飛び立った。
「あっちだ!」とグリュエーが叫び、ユカリの体を軽々と吹き飛ばす。
ユカリもさすがに慣れたもので身を翻すと、外出前に外套でも引っ掛けるようにして力強い風を身に纏い、勾配を駆け降りる勢いを加えて踏み切り、屋根から屋根へと跳躍する。装束が風に暴れてうるさいが、ユカリは翻弄されることなく新たな屋根に着地する。
「お願いだから寝惚けて地面に落っことさないでね、グリュエー」
「風は寝ぼけない」
ユカリは次から次へ縦横無尽に、見えない何かを追って街の上空を駆け回る。あるいはグリュエーの駆けっこに付き合う。
朝日に照らし出されたのは、濃紺や焦げ茶色の屋根。人の省みない荒野のようであったが、走り回り飛び回るうちにユカリは幼き頃の、狐や兎と自他の区別がついていなかった獣のようなあの頃の気持ちが蘇ってきた。跳んで走ってまた跳んで、どこにいくでもないのに、そうすることに喜びを感じた無垢なあの時間が、体の奥底から湧いてくるようだった。
「あれ? いなくなった」
ユカリがある大通りを飛び越えようというところでグリュエーはそう言って、そして静まった。宙を行くユカリの体が勢いを失う。
「嘘でしょグリュエー!?」とユカリは我に返り、我もなく叫び、天の他の全てを懐に抱こうとする大地の望みに従って真っ逆さまに落ちる。
「ごめんごめん」
グリュエーは悪びれもせずに何とかユカリの勢いを殺したが、落下した先に人がいた。
「わあ! 何!? 何事!?」と女が叫ぶ。
女の頭の上に、鳥の羽根のようにそっと落ちてきたユカリは払い除けられ、揺るぎない地面に転がる。少し膝を擦りむいた。
なおも女は混乱のままに喋り続ける。「何? 人? 何で? どこから落ちてきたの? 君、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」ユカリは身を起こしつつも、恥ずかしくてたまらず、赤くなっているだろう熱い顔を女から背ける。
「どうしたんだい? 先を行く者。どうかしたのかい? 何を騒いでいるんだい?」と別の女のしわがれた声が聞こえる。
ユカリは二人の女の姿を恥ずかしそうにちらと見る。若い女は困った顔でユカリを見下ろし、老いた女は通りの向かいに顔を向けたままだ。
どうやら老女は盲目らしいことをユカリは察した。としふる髪は銀に染まっているが、その歳にしては背筋が伸びている。杖を持ってはいるが、支えではないようだ。白い清潔そうな前掛けは他の誰に似合うこともないだろう。使い古されてはいないが、使い込まれていることはよく分かる。
「いや、何というか空? から女の子が落ちてきたんだよ。びっくりした。君、どうしたの? どこから落ちてきたの?」
「いえ、あの、すみません。お怪我はないですか?」
何と説明すればいいか分からず、とりあえずユカリはそう言った。
「怪我はないよ。何だかとっても軽かったからね」そう言ってキーチェカはまだ薄暗い空を見上げる。「それよりどこから落ちてきたのさ。どの建物? 何階? 屋根?」
「そんなことはどうでもいいんだよ、キーチェカ」と老女が口を挟む。「その子に怪我はないのかい?」
「ちょっと気になっただけだよ」とキーチェカは空から視線を剥がすようにしてユカリの方へ目を向ける。「ああ、うん。その子にも……あ、膝を擦りむいてるね。ふふ、隠したって無駄。私、夜目が利くんだ。もう夜明け前だけど」
「じゃあ、手当してあげるんだよ。入んなさい」老女はそう言って近くの建物に入っていった。
「分かってるよ」とキーチェカは言い張る。「私だって今そうしようとしたんだ」
ユカリは老女の入っていった建物を見上げる。周りと比べて狭く、背の低い建物だ。比較すると他の建物が威圧的に見えてくる。
開いた扉から温かな光が漏れ、そしてとても濃厚な、目が冴えるような、頭の奥をかき乱すような、空気まで味わい深そうな香りが漂ってきた。どうやら食堂らしい。『微睡み亭』という屋号が少し傾いた看板に書かれている。描かれた料理の絵までとても美味しそうだ。
「どう? 立てる? 手を貸そうか?」キーチェカはユカリを覗き込んで言う。
「いえ、あの大丈夫です。掠り傷なので。大した怪我じゃないので、問題ないです。すみません。落っこちてきちゃって。キーチェカさん? こそ大丈夫ですか? 頭に落ちちゃったと思うんですけど」
「ああ、気にしないで、こっちは何も問題なし。頭をぶつけるのは慣れてるからね。それより、いま思い返すととんでもない風が吹いてたね。それも上向きの風だった」
キーチェカが今度は地面を眺める。しかし綺麗に並んだ石畳の他には特に何も見つけることは出来ない。
「そう言われると吹いてたような。どうせならもっと強く、あと早めに、贅沢言うなら優しく、吹いてくれればよかったんですけどね」
グリュエーは何も言い返さなかった。
地面に何も見つけられなかったキーチェカは微笑んでみせる。「まあ、とにかく店に入んなよ。悪いようにはしないからさ」