テラーノベル
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みことは、家の中で迷うことが増えた。
洗濯機の使い方が分からなくなる。
電子レンジのボタンを押せずに立ち尽くす。
曜日の感覚が曖昧になる。
「……すち」
キッチンから、小さく呼ぶ声。
「これ、どうやって温めるんだっけ」
すちは、すぐに手を止めて駆け寄る。
「このボタン」
「あ、そうだった」
みことは笑うけれど、その笑顔はどこか引きつっていた。
(また、聞いちゃった)
(また、できなかった)
その“また”が、日に日に増えていく。
ある日、みことは一人で外に出ようとして、玄関で立ち尽くした。
靴の左右が分からない。
鍵の閉め方が曖昧になる。
頭が、真っ白になる。
(……俺、一人じゃ何もできない)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
すちがいなければ、生活が成り立たない。
すちに頼らなければ、何もできない。
その事実が、みことを静かに追い詰めていった。
みことは、夕飯のあと、珍しく真剣な顔でテーブルに座った。
「……すち」
「ん?」
すちは、コップを片付けながら振り返る。
みことは、膝の上で指を絡め、しばらく言葉を探してから、静かに口を開いた。
「俺と……」
一度、喉を鳴らす。
「別れたほうがいいと思う」
空気が、一瞬で凍りついた。
「……は?」
すちは、動きを止めたまま、みことを見つめる。
みことは、必死に笑顔を作った。
「だってさ、俺…もう一人で何もできないし」
「毎日、すちに迷惑かけてばっかで」
「この先、もっとひどくなるんでしょ…?」
言葉を選ぶたび、胸が痛む。
「……すちは、俺の人生まで背負う必要ない」
「もっと自由でいいし、もっと楽しい人生、あると思う」
それは、愛しているからこそ出た言葉だった。
「ふざけるな」
すちの声は、低く、はっきりしていた。
みことは、思わず息を呑む。
「迷惑とか、背負うとか、勝手に決めるな」
すちは、まっすぐみことを見る。
「俺は、お前と一緒に生きたいって決めた」
「病気でも、できないことが増えても、それは変わらない」
一歩、近づく。
「みことがどうなっても、離れるつもりはない」
迷いのない声だった。
「……でも」
みことの声が、かすれる。
「俺、どんどん壊れてくんだよ」
「忘れるんだよ」
「すちのことだって……」
そこまで言って、言葉が詰まった。
すちは、間髪入れずに言う。
「忘れてもいい」
「忘れても、俺がそばにいる」
「何度でも、お前に教える」
「何度でも、好きだって言う」
「だからずっと一緒にいるよ」
その言葉は、揺るぎなかった。
みことの目に、涙が滲んだ。
必死に瞬きをして、こぼれないように耐える。
「……なんで」
声が震える。
「なんで、そんなこと言えるの……」
「俺、怖いよ」
「自分が自分じゃなくなるのが」
「すちのこと、忘れるのが……」
涙が、一粒、頬を伝った。
止められない。
次の瞬間、みことの感情は、一気に溢れ出した。
「忘れたくない……!」
声が、震えながら大きくなる。
「すちのこと、ずっと覚えてたいよ……!」
「声も、笑い方も、手のあったかさも……!」
「全部、全部、忘れたくない……!」
とうとう、みことはすちの前で泣いた。
子どもみたいに、肩を震わせて、大きな声で泣いた。
「こわい……!」
「俺、こわいよ……!」
すちは、何も言わず、強くみことを抱きしめた。
逃げ場がないほど、ぎゅっと。
みことは、その胸に顔を押しつけて、嗚咽を漏らす。
「……すち……」
「……忘れたくない……」
すちは、みことの背中を、何度も撫でた。
「うん…」
低く、落ち着いた声で。
「忘れても、みことはみことだよ」
「俺が、代わりに全部覚えてる」
「みことの好きなものも、嫌いなものも、笑い方も」
「全部、俺が持ってるから」
みことは、しがみつくようにすちの服を掴む。
「……ほんとに、離れない?」
「離れない」
即答だった。
しばらく泣き続けたあと、みことの呼吸は少しずつ落ち着いていった。
目は真っ赤で、涙でぐしゃぐしゃだった。
それでも、すちの胸の中で、小さく呟く。
「……すち」
「ん?」
「……大好き」
泣き声混じりの、か細い声。
すちは、みことの額にそっと額を当てた。
「俺も愛してるよ」
コメント
3件
👑くんが忘れても👑くんは👑くんだという言葉がもう心に響きまして、、っ、これ、多分泣かずには読めませんよね、、、 一人で抱え込まずに🍵くんに相談できていて安心しました、!

読んでる最中に泣いてしまいました 代わりに全部覚えてるって言葉があったかくてでも切なくて… 胸がぎゅってなります
ほんまに翠っちーの呼び捨て好きやわぁ