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顔中に青や赤の痣を作った少女を真っ先に発見したのは、天然のブロンドの髪をさっぱりと短く刈り、銀縁の眼鏡を掛けたブラザー・アーベルだった。
今度行われるバザーの打ち合わせに出ていたアーベルだったが、教会の聖堂入口にある階段に力なく腰掛けて手すりに寄り掛かっている少女に気付き、荷物を放り出しながら駆け寄って少女の肩に手を置いて呼びかけた。
その声に反応した少女がぼんやりと目を開けたかと思うと、まるで幸福な夢の真っ直中にいるような笑みを浮かべ、心配に眉を寄せるアーベルに向かって微かに震える手を挙げて掠れた声を出した。
『・・・ホントにいるんだ・・・』
『何がいるというのですか?大丈夫ですか?』
『へへ・・・天使様がお迎えに来てくれたんだよね・・・うれし、い、なぁ・・・』
小さな頃からずっと夢に見ていた天使がついに迎えに来てくれたと掠れた声で囁いた少女は、アーベルが慌てて差し出した手に縋るように身体を傾げると、何よりも安心できる場所を見つけたように笑みを浮かべその腕の中で目を閉ざす。
『きみ、しっかりしなさい!』
アーベルの切羽詰まった声が教会や孤児院にまで響いたらしく、ドアが開いてシスター達が顔を出して何事かと尋ねてきた為、医者を呼んで欲しい事とマザー・カタリーナにも連絡を入れて欲しいと叫び、腕の中で気を失った少女を抱き上げて立ち上がったアーベルは、シスターらが開けてくれたドアを潜って自室へと連れて行き、ソファに少女をそっと下ろして不安げに見つめてくるシスターらに合図を送る。
『・・・どうしたというのです?』
ゾフィーが呼んできてくれたのか、マザー・カタリーナが慌てたように部屋に駆け込んでくるが、その後ろからは今日は休日だったのか、ポケットに手を突っ込んだリオンがのんびりとやってきていた。
『マザー、この子が教会の前で倒れていたのです』
『そうなのですか?お医者様は呼んだのですか?』
マザー・カタリーナの穏やかさよりも厳しさを感じさせる声に隣にいたシスターが頷き、ゾフィーがリオンに何事かを囁きかけて頷くと廊下に出て携帯で何処かに連絡を取り始める。
『けが人はどこだ?』
廊下で話すリオンに白衣を翻したドクターが慌てふためきながら声を掛け、リオンは携帯の通話口を手で覆って顎で開いているドアの中を指し示す。
『先生、こちらです』
『アーベルが見つけたのか?』
『そうです。私は外で待っていますので、マザー、後をお願いします』
『分かりました。リオンに詳しい話をして下さい』
少女とは言え女性の診察に医者や肉親以外の男が立ち会う訳にもいかず、自分は別室で待っていると頷いたアーベルにマザー・カタリーナも頷き、シスターらもゾフィーを残して皆が部屋を出て行く。
『リオン、あの子をこの近辺で見かけたことはあるかい?』
シスターらとは別にキッチンに向かった男二人はそれぞれの飲み物を用意して椅子に腰を下ろすが、アーベルが少女を見かけたことがあるかと問いかけ、リオンは無言で顔を左右に振る。
『見た事ねぇなぁ・・・アーベルも知らねぇのか?』
『ああ、見た事はないかな・・・それにしても・・・』
私が天使に見えるとは余程意識が朦朧としていたんだなと苦笑したアーベルの言葉にリオンが軽く目を瞠り、どういうことだと問いかけて真意を教えられると軽く口笛を吹く。
『リオン』
『いや、アーベルが天使かぁ・・・見えなくもないなぁって思っただけだって』
別にふざけているつもりもからかうつもりもないと顔の前で手を振ったリオンに、アーベルがコーヒーを一口飲んでやるせない吐息を零す。
『あんな少女が・・・一体何があったと言うんだ・・・?』
『あれ、幼く見えるだけで十六か十八ぐらいはいってるんじゃねぇか?』
『そう思うかい?』
『何となく。ただ、もっとガキだったとしても・・・もう男を知ってるな』
自分の勘だから何とも言えないが、あの傷は恋人からの暴力による可能性が高いと刑事の顔で呟いて煙草に火をつけたリオンは、煙の行方を目で追いかけながらアーベルが眉間の皺に指先を押しつける様を見守る。
『お前がそう思うのならばその可能性は高いだろうな』
『ま、どっちにしても診察が終わってからだな』
煙草を吹かしながらのんびりと呟くリオンにアーベルも苦笑して眼鏡を押し上げると、ばたばたと足音高くゾフィーがキッチンに飛び込んでくる。
『どうした?』
『傷の手当てよりも大変だわ』
ゾフィーの切羽詰まった声に二人が顔を見合わせてどうしたと問いかけるが、なかなか彼女の口から言葉は流れ出してこなかった。
告げる事を躊躇っているような気配にリオンが青い目を瞠り、まさかと思うが妊娠しているのかと問いかけると、まるで雷に打たれたかのようにゾフィーの身体がびくんと跳ねて小刻みに震え出し、彼女が手当よりも大変だといった真意を悟って溜息を零す。
『どうすんだ?まーた別の教会が騒ぎ出すんじゃねぇのか?』
ここの教会はカトリック系の為に中絶は許されない事だが、以前から中絶を望む女性の事情を聞き出しては中絶の手術費用も負担していたマザー・カタリーナだった為、他の教会からは破門だ何だと糾弾され続けてきていたのだ。
またその糾弾の声を聞かなければならない事を思えばげっそりしてしまうと腕を組んで天井を見上げたリオンにゾフィーがか細い声で止めてと懇願し、アーベルも今はその話は止めておきましょうと溜息混じりに呟いて眼鏡を外すと重苦しい空気が室内を支配するが、それを破ったのはマザー・カタリーナとドクターが話す声だった。
キッチンに入ってきた二人にゾフィーがコーヒーの用意をし、テーブルを囲んで重苦しい溜息をつきあった時、廊下から制止の声と調子の外れた甲高い声が響き、条件反射でリオンが腰に手を宛がってしまうが、今日は非番だった為に愛用の拳銃は置いてきた事を思い出して舌打ちをし、室内にいた面々に合図を送って部屋の隅へと避難させるが、調子の外れた声を発しているのが負傷してソファで治療を受けていた筈の少女だと知り、舌打ちをしながら廊下に飛び出して少女の身体を羽交い締めにする。
『手荒なことは止めて、リオン!その子のお腹には・・・っ!!』
ゾフィーの蒼白な声にリオンが一瞬だけ力を抜くと、その隙を見計らって腕の中から逃れた少女が廊下を這うようにしてキッチンへと入ってくる。
『あ・・・天使、様、・・・いた・・・っ!』
あたしの天使様はやっぱりいたと驚きに目を瞠るアーベルを見上げた少女は、己が天使だと信じる彼に向けて震える手を伸ばした為に彼も駆け寄ってその手を摘むと、目当てのものを発見した人間特有の笑みを浮かべてその場に力尽きたように伏してしまう。
『おい!』
『ゾフィー、救急車を呼んで下さい』
『!?』
マザー・カタリーナの言葉に室内にいた皆が彼女を見るが、彼女が見つめていたのは床に倒れ込んだ少女のスカートから覗く細くて白い足だった。
足の内側に褐色の筋が伝っているのを発見し、それが何であるのかを察してもいつもと変わらない落ち着いたマザー・カタリーナの声にゾフィーらも落ち着きを取り戻し、救急車の要請をする一方、アーベルは失神しても己の手を離さない少女の痣だらけの顔を心配そうに撫で続けるのだった。
救急車で搬送された病院から少女が退院したのはそれから数日後だった。
担当した医師から妊娠と流産の事実を告げられた少女だが、周囲が予想していたような反応は示さず、ただ一言無表情に気持ち悪いと呟いたきり口を閉ざしてしまっていた。
少女を連れて孤児院に戻ったマザー・カタリーナは、無表情のまま廊下を進む少女の肩を抱いて皆が集まっているリビングに入ると、真っ先に駆け寄ってきたのは眼鏡の下の蒼い瞳に心配と不安の色を滲ませたアーベルだった。
『大丈夫ですか?』
アーベルの声に少女の顔に表情が戻ったかと思うと、ふらりと吸い寄せられるように前のめりになって背の高いアーベルにもたれ掛かる。
『・・・天使様がいるから・・・平気』
『私は天使ではありませんよ』
天使ならばもっとたくさんの人を救うことが出来る筈で、人以外になれない自分は自分自身すら救えない弱い存在だと自嘲する彼に少女が顔を押しつけたまま頭を振り、彼の言葉を否定する。
『・・・こちらに座って下さい、エレオノーラ』
マザー・カタリーナが微苦笑しつつ少女の名前を呼んでソファに手招きするが、アーベルに抱きついたまま顔だけを振り向けていつ自分の身元を調べたのかと目を吊り上げるが、マザー・カタリーナの前に立ち上がったゾフィーが腰に手を宛がってそんな少女を睨むように見下ろす。
『病院で手術を受けたのよ。当然あなたがどこの誰だか調べる必要があるわ』
『・・・・・・せっかく天使様と出会えたけど・・・バイバイ』
ゾフィーの言葉に少女が寂しそうな顔で小さく笑い、驚くアーベルに小さく手を振ってリビングから出て行こうとするが、それよりも先にドアが開き、危うく衝突しそうになって一歩後退ると、そこではリオンが腕を組んで壁にもたれ掛かり、入口を封じるように足を上げてついでに顎も上げて少女を見下ろしていた。
『世話になったのに礼も言わずに出て行くつもりか?』
何の縁故もないお前をここの人達は親切に医者に診せ、その上手術の世話までしてくれたというのにダンケの一言も言えないのかと、例え相手が未成年であろうが容赦はしない雰囲気でリオンが冷たく言い放ち、さすがに少女が絶句して拳を握ったのを見ると更に冷たい声でそんな少女を笑い飛ばす。
『マザー、こんな奴助け無くても良かったんじゃねぇの?』
『・・・リオン』
『話を聞き出そうとしただけでバイバイだぜ?後ろ足で砂を掛けるようなヤツに手を差し伸べる必要はねぇよ』
『・・・!!』
心底呆れた様な口調で呟き取り出した煙草に火をつけたリオンを無言で見守っていたマザー・カタリーナとアーベルだったが、リオンが何を求めているのかが分かっている為に喉元まででかかった言葉を飲み込んで少女の反応を待つが、ゾフィーが溜息をついてマザー・カタリーナの横に腰を下ろし、こちらにいらっしゃいと先程よりは優しい声で少女を呼ぶ。
『・・・そこ、どいてよ。帰るんだから』
少女が力なく呟く言葉にリオンが髪を掻きむしり、あぁもう仕方がねぇと一声吼えたかと思うと、驚く少女の腕を掴んでマザー・カタリーナの前に引きずっていく。
『や、離してよ・・・っ!』
『うるせぇな。一人で何も出来ないガキが逆らうな』
『・・・大人なんて・・・みんな同じだ・・・っ!離せって!!』
少女が藻掻くのも構わずにソファに無理矢理座らせたリオンは、勢いよく立ち上がろうとする少女の身体を背後から押さえ込んでさっきとはまた違う冷たい声で動くなと命じ、さすがにその声に恐怖を感じた少女がびくんと身を竦めてソファに座り込む。
『良いか、これだけは言っておくからな。お前が今まで見てきた大人とここにいる大人を一緒にするな』
ここにいる面々は本当に苦しんでいる人に対して差し伸べた手を戻すことは絶対にしない、人の痛みを己のものに出来る人達ばかりだとひっそりと呟き、だから大人なんて皆同じだなどと十把一絡げにするなと諭すと、煙草を灰皿に押しつける。
『・・・エレオノーラ』
『それ・・・止めて。あたしはノーラだから』
おそらくは本名だろうが、それを拒む少女の言葉を受け入れるように頷いたマザー・カタリーナは、ならばノーラはどこから来たのですかとやんわりと問いかけて少女-ノーラのすみれ色の目を見つめて返事を待つが、ノーラの口から出てきたのは知らないという一言だった。
『ここがどこだか分からないのですか?』
『・・・・・・知らない。逃げてきたから』
ノーラの言葉にマザー・カタリーナとアーベルが顔を見合わせ、ゾフィーが何事かを問いた気にリオンを見つめ、その視線を受けたリオンが顎に手を当てて考え込む。
少女がこの場所を知らないのが逃げてきたからだとしても、一体どこから逃げてきたのか、それに何故逃げなければならなかったのかを思案していると、マザー・カタリーナの声が静かに流れ込む。
『あたしが生まれたのは・・・もっと田舎の森と畑しか無いような町。この街には少し前に引っ越してきた』
だからここがどこなのかがまだ分からないと肩を竦め、言いたくない訳じゃないと僅かに力を込めてアーベルを見つめ、己の気持ちを察してくれたらしい彼に安堵の笑みを浮かべる。
『ノーラ、あなたは妊娠していた事を病院で教えて貰うまで知らなかったのですか?』
『・・・気付かなかった。妊娠してるって分かってたら・・・・・・』
そのまま路面電車にでも飛び込んで自殺していたと、この部屋にいる誰よりも暗い瞳で嗤ったノーラは、あんな男の子どもなんて気持ち悪いだけだと吐き捨てるように呟き、マザー・カタリーナとゾフィーの眉をきつく寄せさせる。
『・・・嫌な質問をしますが許して下さいね、ノーラ。その男性とはどこで知り合ったのですか?まさか、その年で客を取っている訳じゃありませんね?』
マザー・カタリーナの不安が滲んだ声にゾフィーが口元を押さえて顔を背け、アーベルが聞きたくはないが耳を塞ぐことなど出来ない事を教えるような表情で視線を逸らすが、ノーラを背後からソファに押さえつけていたリオンだけが少女の内心の動揺をつぶさに感じ取っていた為、マザー・カタリーナに目配せをする。
『・・・言いたく、ない・・・』
『・・・ノーラ』
マザー・カタリーナが先を促そうとしたその時、廊下が急に騒がしくなったかと思うと、ノーラの名を呼びながら足音高く男が入ってきて、驚いたシスター達が制止しようとしていたが、血相を変えた男の剣幕に押されてしまって何も出来ず、男がリビングのドアを蹴り破る勢いで入って来る。
『部屋に入るときはノックぐらいしたらどうだ?』
『なんだお前は』
『人に名前を聞く前に自分から名乗れよ』
目を吊り上げ肩を怒らせる男に全く怯むこともなく振り返って腕を組んだリオンは、男が目をぎらりと光らせてジーンズの後ろポケットから伸縮式の警棒を取り出したことに気付くと、ヒップホルダーから手に馴染んでいるH&KP30を取り出して男の眉間に照準を合わせて口笛を吹く。
『リオン、止めなさい!』
『俺じゃなくてこの男に言えよ、ゾフィー』
俺は先制攻撃をするつもりはないと軽口を叩いたリオンだが、その言葉に男が動いてくれれば儲けものとすら考えていた。
『・・・娘を連れ戻しに来ただけだ』
『ふぅん。親子揃って礼儀知らずも甚だしいなぁ』
親が親なら子どもも子どもと言う訳だと心底侮蔑するような笑みを口元に湛えて肩を揺らしたリオンは、己の背後で脅えたような気配を感じ取るとノーラの怪我と口を閉ざした訳に気付き、職務遂行中に犯人に狙いを定めるときと同じ貌で冷や汗を流す男を睨み付けて拳銃を構え直す。
『・・・エレオノーラ、帰るぞっ!』
『イヤだ!あたしはここから帰らない!!』
あんたの所になんか絶対に帰らないと、ソファの背もたれをぎゅっと握りしめて蒼白な顔で父親の言葉を拒否したノーラを守るように抱き寄せ、あなたは心配しなくて良いのですと安心させるように頷いたマザー・カタリーナは、ゾフィーに彼女の身体を預けると静かに立ち上がり、リオンの横に立って銃口を足下の床に向けさせる。
『マザー!危ねぇから下がってろって!』
『リオン、銃を下ろしなさい。あなたもそんなものは納めて話し合いをしましょう』
『何だと!?』
『こいつがノーラを殴ったんだぜ?話し合いなんて出来る訳ねぇだろ?』
マザー・カタリーナの言葉に二人の口からほぼ同時に否定的な声が流れ出すが、話し合うのですと穏やかに告げられてはそれ以上何も言えずにリオンが警戒を解かないまま銃口を更に足下に向けるが、その隙を突いて男が警棒を振りかざした為、マザー・カタリーナの前で男の額に銃口をびたりと押しつける。
『どうした?やれよ、やってみればどうだ?マザーに指一本触れてみろ。お前の脳味噌をここにぶちまけてやるよ』
『ひ・・・っ!?』
『ここでお前の頭が吹っ飛んでも不慮の事故だって診断をしてくれる医者がいるから安心して死ねよ』
リオンが男を脅迫する声はいつも皆が聞いている陽気な声で表情はいつもと同じ笑顔だったが、ロイヤルブルーの双眸だけは深く暗く怒りの色に沈んでいて、ゾフィーがノーラの身体をきつく抱きしめながら蒼白な顔でリオンの名を呼ぶ。
『やめ、なさい、リオン・・・っ!もう良いから・・・っ!!』
いつも陽気なリオンが怒り心頭に発したときの様子を幼い頃から見続けているゾフィーとアーベルが呆然とリオンを呼ぶが、ほら、早くやれよ、どうしたんだよとさも楽しげに告げながら銃口を押しつけると男が一歩後退る。
『リオン、もう良いです』
『俺の子どもを誘拐したって警察に訴えてやる!』
さすがに銃口を額に押しつけられては凄んでなどいられないが離れてしまえばまた強気な態度になれるのか、男が微かに声を震わせながら唾を吐くが、警察ならここにいるぜとリオンが笑みを浮かべて男を見下ろすと目と口を丸くしてしまう。
『警察に連絡するのならしてやろうか?』
『・・・くそっ!エレオノーラ、帰るぞ!』
『イヤ!!』
自分がどうにも不利な立場である事を悟った男が娘の名を呼んでこちらに来いと睨むが、ノーラもまた父親を睨み返して早く帰れと震えながら叫ぶ。
『誘拐したと警察に訴えるのならば、ノーラの怪我の治療代金を請求いたしますよ』
あなたが怪我をさせたのだから治療費を支払うだけではなく、児童虐待で通報しますとマザー・カタリーナが穏やかに、だが強さを秘めた声で告げると男の顔がみるみる内に歪み、また迎えに来ると吐き捨ててリビングから出て行くが、孤児院の敷地から出ていくまで一定の距離を保ってその背中をリオンが楽しげに追いかけていく。
『覚えてろ!』
『お前も銃口の冷たさを覚えてろよー。それが熱くなったら終わりだぜ』
振り返りながら吐き捨てる男に冷たく暗い太陽の顔で笑ったリオンは、完全にその背中が見えなくなったのを確認して中に入り、リビングのドアを後ろ手で閉めながらマザー・カタリーナにあんな事をもうするなと懇願する。
『頼むよ、マザー。あんな奴に向かって話し合おうなんて言わないでくれよ』
心臓がいくつあっても足りないとしゃがみ込んで足の間に頭を垂れたリオンに彼女が苦笑し、それでも話し合わなければならないときっぱりと告げると、ゾフィーに守られるように大人しくしているノーラの前に膝をついて蒼白な顔を覗き込む。
『大丈夫ですか?』
『・・・うん・・・ごめん、あたしのせいで・・・』
『あなたは何も悪くありませんよ、ノーラ』
悪いのはあなたの周りにいる大人達なので謝る必要はないと、ノーラが驚きに目を瞠る前でもう一度あなたは何も悪くないと告げ、俯いてしまった少女の髪を優しく撫でる。
『リオン』
『んー?』
『ノーラの父親について調べられますか?』
『・・・ん、ちょっとだけ時間が欲しい』
刑事のあなたならば色々な情報を入手できるでしょうがやれる範囲でお願いしますと告げたマザー・カタリーナはノーラの手をしっかりと握り、あなたさえ良ければひとまずここで暮らし、ある程度時期を見て仕事に就けるように訓練をしましょうと今後の提案をすると、ゾフィーもそうしなさいと励ますように彼女の肩を抱き直す。
『・・・良い、のかな、あたし、ここにいても・・・』
『マザーが良いって言ってんだ、気にするな』
さすがに育ての母の毅然とした態度には逆らえないのか、立ち上がったリオンが深く溜息を零すが、彼女達が受け入れると決めたのならば自分も潔く受け入れようと苦笑し、驚くノーラの頭に手を乗せて髪をぐしゃぐしゃにする。
『アーベル、世話をお願いしても良いですか?』
『もちろんです、マザー』
女性でないとフォローできない所はするが、それ以外のここでの暮らしで覚えなければならないことを教えて欲しいとマザー・カタリーナに頼まれたアーベルは、自分の出来る範囲でやりますと告げて穏やかな顔で頷かれる。
『天使様と一緒にいられるんだ?』
『だから、私は天使じゃないと言っているでしょう?』
『何でも良いよ。私には天使様だからさ』
ゾフィーやマザー・カタリーナが驚く前でアーベルの横に座り直したノーラは、その腕にぎゅっと捕まって笑みを浮かべ、ここで一緒に暮らせるんだとこの時初めて幸せを感じているような笑みを浮かべた為、リオンが口笛を吹き、マザー・カタリーナもゾフィーもひとまずは落ち着いたようで良かったと安堵の吐息を零すのだった。
「・・・・・・ノーラ、エレオノーラ!出てこい!!」
ドアを殴りつける音に眠りを破られたノーラが気怠げに起き上がり、しつこく繰り返されるノックに眠気の残滓が脳味噌を覆ったままドアを開け、突然の強い力に肩を押されて床に尻餅をついてしまう。
「アウッ!!」
「今日の稼ぎはどうした?さっさと出せ!!」
己の肩を押して床に押し倒した父の口から吐き出される言葉と酒の臭いに吐き気を覚えたノーラだったが、ここで吐きそうなどと言えば何をされるか分かったものではない為、無言で立ち上がろうとしたと同時に前髪を鷲掴みにされて引きずり起こされ、苦痛に顔を歪める。
「早く出せ!」
「・・・・・・分かってるから・・・待って・・・よ・・・!」
出すから手を離してと途切れ途切れに伝えて何とか手を離させた彼女は、テーブルの引き出しから数枚の紙幣を取り出して父に突き出すと、その紙幣を引ったくるように奪い取った父が枚数を確認し、たったこれだけかと吐き捨てる。
その紙幣は彼女が文字通り痛みを堪えて稼いだものなのだが、彼女を一人の人間として娘としても見ていない男にとっては紙幣の枚数だけが重要な事だった。
「まったく・・・寝ている暇があったらもっと稼いでこいよ!」
「・・・ッ・・・!」
男の怒声と頬を叩く音が室内に響いて床に彼女が再び倒れ込んでしまい、開いているドアから濃い化粧を施した女が顔を出して様子を窺うが、いつもの事だと鼻先で笑って顔を引っ込める。
「明日はもっと稼いでくるんだ。良いな?」
「・・・・・・・・・」
彼女の髪をもう一度鷲掴みにして睨み付けた男は、無言で力なく頷く彼女を突き飛ばすように手を離すと、先程顔を出してすぐに引っ込めた女の名を呼んでこれで美味い酒を飲みに行こうと陽気に笑い、女もその意見に賛成だと下卑た笑いをあげて彼女の部屋の前を通っていく。
ドアが閉まる音が響き静まりかえった室内に堪えようとしても堪えきれないような嗚咽が微かに流れ、程なくして床を殴りつける音も響き出すが、隣の部屋の住人が壁を殴った為に彼女は手を止め、のろのろと立ち上がってドアを閉めて鍵も掛けると力なくベッドに座り込んで染みが浮き出る天井を見上げる。
滲んだ視界に浮かび上がるのは自分のことを本気で案じてくれているリオンの顔と、その顔から連想される優しくて暖かな存在であるマザー・カタリーナやゾフィー達の顔だった。
あの時、結局孤児院に居着いてしまった自分を見守り励まし、何とか独り立ち出来る様にと職業訓練までしてくれた心優しい人達だったが、彼女達がいない時を狙ってやってきた父に無理矢理連れ戻されてしまい、それに気付いたマザー・カタリーナが孤児院の面倒を見てくれている弁護士を立ててくれたお陰でその時は何とか暖かな陽の当たる場所に戻ることが出来たのだ。
だがその陽だまりの暮らしは長くは続かず、しぶとくやってきては無理矢理ノーラを連れ帰ろうとした父がある日携えてきた文書を見たマザー・カタリーナの顔色が変わり、彼女は父とともに帰らなければならなくなってしまうのたが、この文面を受け入れるのと引き替えに、あなたから独立した場所での暮らしを約束するのならばノーラを返しますと、誰もが逆らえない強い口調でマザー・カタリーナやアーベルが彼女を最後の最後まで守ろうと力を尽くしてくれたおかげで、たった二年間とはいえ彼女は父と離れた場所で一人慎ましやかに暮らせていたのだった。
「・・・・・・ごめん、なさい、マザー」
せっかくあなたが守ろうとしてくれたのに、痛みに弱い私は我慢できずに前の暮らしに戻ってしまったと呟くと同時に頬に熱いものが流れ落ち、彼女は無意識にシーツを握りしめて唇を噛み締める。
自分たちを信じて良い大人だと教えてくれた優しい人々をこんな形で裏切っていたのに、一仕事を終えて出てきたFKKの前でばったりと再会してしまうなんて本当に最低だと自嘲し、肩が揺れた反動でベッドに倒れ込んでしまうがそのまま肩を揺らし続けた為、頬を伝っていた涙が鼻筋を通って唇に辿り着く。
まだ自分にこんな感情が残っていた事が新鮮で、更に笑うと止めどなく涙が流れ落ち、きつく堪えるように唇を噛み締めて手探りで枕を引き寄せるとシーツと枕の下に顔を押しつける。
父とあの女が戻ってきたときに泣いている事がばれれば何を言われるか分かったものではないので涙などさっさと止まってしまえと己に命じてみても、リオンと再会しその顔から陽だまりの温かさを思い出してしまえば、今己の置かれている境遇がどれほど冷たく暗いものなのかをより一層認識してしまい、堪えようとしている筈の嗚咽がより強くなってしまう。
今、こうして泣く暇があるのならば父には内緒で貯め込んでいる金が早く纏まった額になる様に稼ぎ、完全に父の手から独立できた時に思う存分泣けばいいのだ。
いつまでも嗚咽を零す己を叱咤するように脳味噌が呟き、ようやく落ち着いたノーラだったが、枕に頭を乗せて天井を再度見上げたときに浮かんだ顔は優しい言葉と温もりをくれた彼の顔だった。
「・・・天使様に・・・会いたい、な」
あの教会に辿り着くまでの辛く苦しい時、いつか必ず助けに来てくれる迎えに来てくれる天使を思い描いていたが、その時に脳裏で穏やかに笑って手を差し伸べてくれる天使と同じ空気を身に纏ったブラザーと出会い、一目で己を迎えに来てくれた天使だと気付いたのだ。
その天使-ブラザー・アーベルに会いたいともう一度呟いたノーラは、そこにアーベルがいるかのように笑みを浮かべ、明日も稼がなければならない事をしっかりと己に言い聞かせて横臥し、そのまま再度眠りに落ちていくのだった。
先程父から受けた暴力の痛みは夢の中まで襲ってくることはないのだった。