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リオンがノーラと再会した数日後、マザー・カタリーナから連絡を受けたリオンが仕事の合間を縫って警察署に近いカフェで彼女と落ち合い、後からやってきたブラザー・アーベルと何度か見かけたことのある青年弁護士とで、バカンスシーズンの為に人の少ないカフェで外の空気とは裏腹に重苦しい話題を中心に据えては溜息を零していた。
数日前に孤児院でマザー・カタリーナとアーベルにノーラと再会したことを伝えたリオンは、その時に父親を調べる事を約束し、その約束の結果を片手に今日集まったのだが、マザー・カタリーナとアーベルもじっとしていたわけではなく、昔世話になった弁護士やノーラの怪我の治療をした病院に掛け合って事情を説明してはその後彼女がここや他の医療機関に掛かっているかどうかを手分けして調べたりもしていた。
その結果ある程度の事情が分かってきた為、アーベルが情報を纏めたノートをテーブルに広げ、リオンが自分が持っている情報との共通項を探る為に素早くそれらを脳味噌に刻み込んで深い溜息を零す。
売春婦として働く女性は定期的に健康診断を受けられるのだが、未成年である彼女は他の同じ立場の女性が持つ権利を享受出来ていなかった為、客に無理を押しつけられても上手くやり過ごして己の身を守る術を持っていなかった。
その結果、十六歳という年齢で流産や中絶という心身への傷を負っているため、もうこれ以上傷を負って欲しくないという思いから調べていたマザー・カタリーナとブラザー・アーベルだが、調べていくうちに出てきた事実に苦悩の色を浮かべて重苦しい溜息をつく。
この街にも売春婦を様々な面からサポートする支援団体があり、マザー・カタリーナから事情を聞いて協力できる事ならば何でもすると言ってくれてはいたが、そんな団体の支援を受ける為にはまず彼女自身と向き合って話をしなければならず、それをする為には彼女の父とも話し合わなければならなかった。
彼女を暴力で支配し金を稼ぐ為の道具としてしかみなさない人間がいわゆる金蔓をそう容易く手放すとも思えず、彼女が教会に転がり込んできたあの時に少しばかり父親に脅しを掛けたリオンが重苦しい口を開いてその見解を伝えると、他の三人からも同様に重い吐息がテーブルにこぼれ落ちる。
「二度と会わないという誓約書を書かせたんじゃなかったのか?」
「彼女の母の実家から何か手紙が届いたようで、それ以降あの弁護士とは連絡が取れなくなった」
「ノーラの母の実家って確か資産家だったよなぁ・・・自分の家の名前が出てくりゃ困るから握りつぶしたってのか?」
弁護士の言葉にリオンが何とも言えない嫌悪感を滲ませた声で問いかけ、足を組んで煙草に火をつけてやるせない思いを煙草の煙に混ぜ込んで上空に吹き付ける。
「・・・てめぇの孫が辛い思いをしてるのにな」
リオンが知る資産家-いわゆるセレブ達-というのはごくごく一部を除いて本当に人としてろくなヤツがいないと、重苦しさを吹き飛ばすように煙草の煙で輪を作ってふわりと漂わせる。
「相手はノーラの事を孫とは思っていないだろうな」
「シャイセ」
くそったれと吼えて煙草を灰皿に押しつけ、どうすればノーラの顔や体から痣が消えさり、若い少女特有の笑顔を取り戻させることが出来るのかとくすんだ金髪を苛立たしそうに掻きむしったあと、広げた足の間で手を組んで親指同士を回転させ始めたリオンに他の三人はただ苦笑し、この後アーベルと弁護士の二人で彼女が出てきたFKKに行く事を伝えるとリオンが何かを言いたげに口を開こうとするが、どうあっても解くことの出来ない問題を前にした子どもの顔で再度頭を掻いて席を立つ。
「そろそろ戻らないとマズイ」
「ええ、忙しいのに情報をありがとう、リオン。後の事はまた連絡しますね」
「うん。アーベル、弁護士さん、俺はこれで」
仕事中に抜け出してきている為にあまり長居は出来ないリオンが彼女の父親の身辺を調べた報告書をマザー・カタリーナと弁護士の間に差し出し、片手を挙げてカフェの路面席から離れていく姿を見送った三人は、貴重な情報を彼女の為にどのように活かすべきかについて更に話を詰めていくのだった。
マザー・カタリーナ達と別れて職場に戻る途中で足を止め、煙草の煙を夏空に向けて吹き出したリオンは、思案顔で携帯を取りだしてはジーンズのポケットに戻すを繰り返すが、何か決意をした表情で携帯を取りだしてリダイヤルの中から大切な存在へ繋いでくれる番号を呼び出し耳に宛がうが、この電話で己は一体何を求めているのかと思案すると同時に無気力な顔で携帯を閉じてポケットに戻し、腿の横で拳を握って青空を仰ぐ。
意外な場所でのノーラとの再会がもたらしたものは己でも理解出来ないような心の深い場所を抉ったようで、リオンをよく知る人が見ればいつもの陽気さを感じられない表情を浮かべていた。
ノーラを連れ出す為に父親に掛け合うブラザー・アーベルやマザー・カタリーナも心配だが、最も気掛かりなのはやはり再会した少女の心が今にも壊れそうな程脆くなっているのではないのかという、あの日垣間見た横顔だった。
そんな彼女が心配なはずなのに、それだけではない何かがリオンの中でもやもやとしたものとして居座っていて、その気持ちの悪さに唇を歪めて青空を睨み付けるように目を細める。
こんな、自分自身の心が何処にあって何に向いているのかすら理解出来ていない今、聡明で心優しい恋人に電話を掛ければ心配させることは容易く想像出来る事で、そんな心配をさせたくない気持ちと、自分が悩んでいる事はきっと理解されないだろうという後ろ暗い思いが拳の中に落ちていき、夏特有の高く澄んだ青空を好きなだけ睨み付けていたが、不意に己が小さくて無力な生き物のように感じてしまう。
そんな風に己を振り返ったことなど無かったリオンは、今自分が立っている地面の感触も何やら怪しげに感じ始め、頭を一つ振ってそっと拳を開いて顔の前で手を広げ、彼女を救い出せない非力な掌を見つめていると、ぽっかりと口を開けた暗闇に吸い込まれるような錯覚を抱いてしまってまずいなと呟いたその瞬間、尻ポケットに突っ込んだ携帯から恋人の着信を伝えるピアノ曲が流れ出した。
おそるおそる携帯を取りだして耳に宛がい、いつもに比べれば小さな小さな声で返事をする。
「・・・・・・ハロ」
『リオン?出ようとしたら切れたんだが、どうしたんだ?』
聞こえてきた声に焦燥が滲んでいる気がし、今診察中だったのかとひっそりと問えば背後から車が走る音や人の話し声が響き出してきた為、今は外にいるのかと低く問いかける。
『ああ。・・・・・・どうしたんだ、リーオ』
「!?」
その声がリオンの耳に携帯から伝わったのか、それとも逆の耳から伝わったのかは分からないが、呆然と青い目を瞠るリオンの前で診察中に白衣代わりに着ているジャケットを少しだけ乱れさせたウーヴェが眼鏡の下で目を細め、携帯をジャケットの内ポケットに戻してリオンの頬を一つ撫でる。
「リーオ。どうした?」
「ぁ、や、う、ん・・・何となくさ、オーヴェの声が聞きたいなーって思ったら、オーヴェが飛んできてくれた」
つい先程まで取り憑かれたように暗い思考を巡らせていたとは答えられずに、またそんな己が自分らしくないとの理由から照れたような顔で笑ったリオンをじっと見つめたウーヴェは、小さな溜息を零してリオンの手首を握ると不思議と逆らえない力で腕を引いて人目に付きにくい路地へと連れて行く。
「この間も言ったのにもう忘れたのか?」
「へ?」
ウーヴェが少しだけ恨みがましい目つきでリオンを睨んだ為、睨まれた方はその目つきの理由を必死になって思い出そうと努力をするが、なかなか思い当たる解答に出くわさずに諦めの溜息を吐きながら肩を竦めて恋人に答えを強請る。
「仕事中に電話をしてきても出られないって事か?もしそうならごめん。違ってたら・・・答えを教えて」
素直に謝罪と解答を求める言葉を並べたリオンは、ウーヴェが眼鏡を外して胸ポケットに差し込む様をじっと見つめているが、不意に視界が暗くなった事に再度青い目を瞠ってしまう。
「無理をするなと言っただろう?」
何があったのか話してくれないかと苛立ちを滲ませた声で囁き、胸に抱いたリオンの髪に口を寄せたウーヴェは、己の腕の中で恋人がただ驚いているような気配に目を細め、夏特有の高い空を見上げて小さくリオンの名を呼ぶ。
「何があっても我慢しなければならない時は確かにある。でもそれは今じゃない」
今だけはそんな我慢をする必要はないんだと優しく諭すように語りかけ、背中に回された腕に力が籠もった事に気付いて青い石のピアスにキスをすれば、それが最後の一押しになったのか、顔を上げたリオンが逆にウーヴェの白い髪を抱き寄せて頬を押しつけてきつく目を閉じる。
自宅以外でのこうした触れ合いをウーヴェは強い羞恥心から苦手としている筈なのに、リオンの心が重く沈んでいると察した時にはただ黙って受け入れて背中を抱きしめてくれるのだ。
恋人のその優しい心遣いが嬉しくてくぐもった声でウーヴェを呼んだリオンは、腰に回されている両手を掴んで己の頬を両手で挟むように導くと、額と額を軽く触れあわせて目を伏せる。
自分のことを理解して貰えない、そんな風にすら感じてしまった己が恥ずかしくて、それ以上にウーヴェの優しさが腹の底にまで染み渡って暖かくて今まで覚えたことのない気持ちを感じてしまう。
「オーヴェ・・・・・・詳しいことは全部終わったら話す・・・」
「分かった」
「だから・・・・・・今はこれで良い」
こうして触れあった肌からどんな現実からも目を逸らさない強い男の力を分けてくれと囁いたリオンは、俺は強くないと否定しながらもリオンの願いは受け入れてくれるウーヴェが頬を撫でる手に手を重ねて温もりを閉じ込めるが、宥めるように額と鼻先にキスをされて僅かに首を竦める。
「リーオ。俺の太陽」
いつも太陽が輝いている事を疑わないようにお前の言葉も疑わないと告白し、驚きに薄く開くリオンの唇にそっとキスをしたウーヴェは、瞬きを繰り返した後でそのキスを受け止めたらしい恋人に小さく笑い、今度は触れるだけではないキスをする為に顔を寄せて思い通りに唇を重ねると、背後の壁に背中を押しつけられてしまう。
短い間ではあっても息が出来ないような激しいキスの後、唇を噛み締めたまま離れるリオンの頬をもう一度両手で挟んだウーヴェは、先程よりは強い光が戻っている瞳を真正面から見つめ、総てが終わってからだと言うのならば終わりを迎えるまでは頑張れと優しく励まし、少しだけ茶目っ気を込め小さな音を立ててキスをする。
「・・・・・・うん」
「そろそろ戻らないとまた警部に叱られるんじゃないのか?」
「げ・・・クランプスの角が伸びてたらどうしよう、オーヴェぇ」
「そうならないうちに早く帰った方が良いな」
ようやくいつもの明るさを取り戻したリオンにウーヴェがあからさまに安堵し、ぎゅっと背中を抱きしめるリオンの背中をぽんぽんと叩く。
「ダン、オーヴェ・・・・・・愛してる」
「・・・ああ」
告白と頬へのキスを残して手を挙げ、これから頑張って働いてくるが早く帰れそうなら連絡すると宣言したリオンを見送ったウーヴェは、その背中が見えなくなったのを確認すると急ぎ足でクリニックが入居するアパートに戻って階段を駆け上る。
「・・・・・・フラウ・ハイデマンがお待ちです」
「ああ、ありがとう」
次の患者の診察の短い合間に掛かってきた電話に出たウーヴェは、何気なく見た窓の外に電話を掛けてきた恋人と背格好が良く似た人物を発見し、耳に携帯を宛がっている姿からそれがリオンだと確信を抱いて訝るオルガに目配せだけを残してクリニックを飛び出したのだ。
リオンの様子から無理をしてでも飛び出していった甲斐があったと胸を撫で下ろし、診察室で待っている患者へと意識を向ける為に眼鏡を掛けると、ドアを開けながらお待たせしましたと冷静な声で患者に呼びかけるが、その時には先程リオンに見せていた優しさと甘さが同居する表情ではなく、一人の患者を救う為に耳を傾ける姿勢を崩さない医師の顔になっているのだった。
マザー・カタリーナとブラザー・アーベルが弁護士とともにノーラが働いていると思われるFKKを訪れていたちょうど同じ頃、スラムの中にある古くなっても手入れだけは行き届いている教会のドアの前にぼんやりと腰を下ろすノーラの姿があった。
先日リオンとばったりと再会し、現状について問われて仕方なく売春を再開している事を伝えたが、あの時リオンに伝えたように彼女自身も出来る事ならば人から蔑まれるような職業に就くのではなく、誰からも認められるような仕事でお金を稼ぎたかった。
だが、真っ当な仕事で得る給料はやはりあの男-としか呼びたくない父-を満足させるにはもの足りず、結局職業訓練をしたにも関わらずに気が付けば以前のように客を取って稼いだ金の大半を男に渡すような暮らしになっていた。
そんな己が心底イヤで、膝を立てて抱えるように身体を丸め、膝頭に顎を押しつけてぼんやりと高く澄んだ空を見つめていると、驚きと懐かしさの籠もった声に名を呼ばれて顔をそちらに向ける。
「ノーラ!あんた本当にどうしてたの!?みんな心配してたわよ・・・!」
驚きの声と共にやってきたのは両手に荷物を抱えたゾフィーで、彼女の姿を見たノーラが視線を左右に彷徨わせて逃げ場を探してしまうが、ゾフィーが視線を合わせるようにしゃがみ込んだ事に気付いてやや俯き加減ではあっても顔を彼女へと向ける。
「・・・・・・ひさし、ぶり・・・ゾフィー」
「本当に久しぶりね、ノーラ。元気そうに見えるけど・・・これ、つい最近殴られたんでしょ?」
「・・・っ!!」
ノーラの顔の彼方此方にうっすらと浮かぶ痣に気付いたゾフィーが痛ましそうに眉を寄せ、荷物を傍に置いたと同時にノーラの身体に腕を回してあの日のように抱きしめる。
「痛かったわね。怪我の手当はちゃんとしているの?」
「へ、いき・・・殴られただけ、だから・・・」
「ウソを吐く必要はないわ、ノーラ。手当をするからいらっしゃい」
ノーラの言葉に溜息を零して立ち上がったゾフィーは、教会の中から出てきた子どもに気付いて手招きして足下に置いた荷物を運んでちょうだいと告げると、中に入ることを躊躇っている少女の手を取って肩を抱き、このドアはいつでもあんたの為に開いているのよと、言葉はぶっきらぼうであっても傷付いた人の心に染み渡る声で告げ、微かに肩を震わせて中に入る様子に安堵しながらリビングではなくキッチンのドアを潜ってテーブルを示す。
「コーヒーで良いかしら?」
「うん・・・・・・あ、ちょっと温いコーヒーが良いな」
「口の中が痛いの?」
「うん・・・思いっきり殴ってくれたからさ、口の中を切っちゃったんだ」
だから熱いものや刺激のあるものを食べられないと肩を竦め、椅子に腰掛けて両手で頬杖を突いた彼女を痛ましそうに見つめてコーヒーを用意したゾフィーは、冷蔵庫から牛乳のボトルを取り出すと彼女にコーヒーと一緒に差し出す。
「この間リオンから聞いたけど、あんたまた売春してるって?」
「・・・やりたくないって言ったんだよ。そうしたらさ、次の日起きられなくなるぐらい殴られちゃった」
そんな痛い目に遭うぐらいならば我慢して客を取って金を稼いだ方がマシだと、牛乳のボトルを片手に総てを諦めた暗い目で笑うノーラにゾフィーが口を閉ざし、目を伏せてテーブルの上で手を組む。
「痛いのはヤダよ」
「でも・・・せっかく別の仕事に就けるって喜んでたのに」
「・・・仕方ないのかなぁ・・・。あたしがもっと大人だったらさっさと飛び出して何処かで一人で暮らしてるけど、まだ未成年だし」
未成年者が一人で暮らしていけるほど世の中甘くはないし、また様々な事情から施設に入所したり支援団体の庇護を受けている同年代の子ども達のことは見聞きしたことはあるが、自分がそんな子ども達と同じ立場である事をノーラは理解しておらず、そんな風に人から助けられる事など想像も出来ない事だった。
それ故、今は何があってもただ我慢し、纏まった金が出来れば家を出るとしか考えられず、その夢と呼ぶには痛ましいそれを叶える為に今は堪えるしかないんだと思い込んでいて、自分は誰にも助けて貰えないのだと思い込んでいる少女が淡々と告白した言葉を聞かされた、己自身助けられた過去があるゾフィーがやるせない溜息を零して頭を左右に振る。
「ノーラ、あんたが本当に辛いのなら・・・ここに来ても良いのよ」
「・・・・・・だから、大丈夫だって」
「さっきも言ったけどね、ここのドアはあんたを迎える為にいつでも開いているのよ。あんたに向けてドアを閉ざす人はここにはいないのよ」
物理的であろうが心理的であろうが、本当に辛く苦しい思いをしている人を拒むような人はここにはいない事だけは分かってくれと、ゾフィーが握った手に力を込めてノーラを見つめるが、彼女の言葉が少女の胸の裡にまでしっかりと届いているかどうかを見極めることは難しいほど眉一つ動かさずに、ただ不思議そうに首を傾げてゾフィーを見つめ返してくる。
マザー・カタリーナならばもっと彼女の心に伝わるように話が出来るのにと己の未熟さに唇を噛み締めたゾフィーは、目の前で何とも言えない表情を浮かべた後で小さく笑みを浮かべたノーラに軽く目を瞠り、どうしたのと問いかける。
「うん・・・ゾフィーがそんな風に心配してくれるなんて思わなかったから、何か嬉しいな」
「あんたね・・・人が心配してるのに・・・」
「それぐらい分かってるよ。でもさ、あたしの為に心配してくれる人がいるって事がホント嬉しいなって思ったんだもん、怒んないでよ」
自分が心配する気持ちを笑われたと錯覚したゾフィーの態度にノーラが慌てて説明をすると、ゾフィーもその気持ちを酌み取ったのか溜息を吐いて一瞬覚えた怒りを吐き出し、マグカップを手に持って湯気を顎で受け止める。
「初めてここに来たときもそうだったけど、ゾフィーって怖かったもんね」
「それは仕方ないでしょ?だいたいあんたがねぇ・・・」
「あー、ほら、それが怖いんだって!」
二年前に初めてノーラがやってきた時の事を思い出したゾフィーが久しぶりに思い出したら腹が立つと手をついて立ち上がり、だからそれが怖いと拗ねたように呟くノーラの横にやってくると、腰に手を宛がって睨み付ける。
「傷の手当てをするからちょっと待ってなさい!」
「大丈夫だよ。痣があるぐらいだからさ」
「ウソでしょ?本当に大丈夫なら手当ぐらいさせるわよ」
ノーラが逃げるように椅子から立ち上がった為、ゾフィーが不敵な笑みを浮かべて逃げるんじゃないわと手を組むと、キッチンから逃げ出せる場所を探すようにノーラが視線を彷徨わせるが、何処にも逃げ場がない事を悟って掌を上に向けると無言で肩を竦める。
「良い子ね」
「・・・・・・ねぇ、天使様は何処かに行ったの?」
「今あんたを捜してFKKに行ってる筈よ」
「行っても無駄なのになぁ。あたし、あそこで働いてる訳じゃないもん。あの時たまたまあそこに行っただけだよ」
ノーラが渋々シャツのボタンを外してゾフィーに素肌を晒しながらブラザー・アーベルが何処にいるかを問いかけ、ゾフィーも彼女の白い素肌に浮かぶ痣に険しい表情を浮かべながら事情を掻い摘んで説明していくが、彼女の言うとおりに痣がある程度だった為に何もせずにシャツのボタンを掛けていく。
「じゃああんた何処で客を取ってるのよ?」
「車の中とかホテルとか、かな」
「・・・車の中は身体への負担が多すぎるから、出来ればホテルにしなさい」
何でもない事のように事実を淡々と伝える少女にゾフィーもなるべく心配以外の感情を込めないように気を配りながら言葉を返すと、アーベルにだけは秘密にして欲しいと告げられて少女のすみれ色の瞳を見つめる。
「お願い、あたしがまた売春してることはもうばれてるだろうけど、何処でやってるとか殴られてる事とか黙ってて、ゾフィー」
「・・・・・・黙っててって言ってもね・・・」
あんたを心配する人には包み隠さずに話をした方が良いと思うわよと困惑を隠しきれない顔でゾフィーが告げると、ノーラの顔にこの時初めて感情らしい感情が浮かんだようで、微かに拳を振るわせてお願いだから黙っていてと懇願されて更に困惑してしまう。
「天使様にだけは知られたくないの・・・!」
だからどうかお願いと必死に懇願されてもまだ納得できないでいた彼女だが、ノーラが震える声で告げた言葉に目を瞠って呆然と少女を見つめてしまう。
「ゾフィーも好きな人がいるんでしょ?だったらあたしの気持ちも分かるよね!?好きな人に・・・こんな痣だらけの顔なんて見せたくない!」
幼い頃、辛い現実から逃れたい一心で作り出した天使の横顔だが、その顔とそっくりな相貌を持つアーベルにだけは今の顔を見られたく無かった。
だからリオンと再会したときも無理に笑顔で元気だと伝えてくれと言い残したのにと、少女の面影など全くない女の顔で小さく叫んで同意を求めてくるノーラにただ言葉を無くしたゾフィーは、確かに彼女の言葉も理解出来た為、その場に膝をついて腿に手を宛がってノーラを見上げて目を細める。
初めてノーラがここにやってきたときも顔だけでなく身体にもひどい痣が浮かんでいたが、それから暫くの間ここで寝食を共にした時にはノーラの顔には笑顔だけが浮かんでいたのだ。
その時の様子を思い出し、あの時のノーラは本当に幸せそうだった事も思い出したゾフィーは、その顔の痣が消えた頃に必ずアーベルに連絡をしなさいと告げて立ち上がり、椅子に力なく腰掛けたノーラの肩に腕を回して抱き寄せる。
「良いわね?」
痣が少しでも薄くなった頃ならば会えるでしょうと囁き、とにかく一度彼と会ってマザー・カタリーナともちゃんと今後について話し合う事を条件に、今日ここに来たことは黙っておくわと告げると、安心したように頷いたノーラの手が上がり、ゾフィーの服の背中をぎゅっと握りしめる。
人から蔑まれるような仕事に就いていたとしても、ノーラの心からは優しさや少女らしさが喪われていない事が嬉しい反面、彼女にとってはとても辛い事のように感じてしまい、どうかノーラの身にこれ以上辛い現実が降りかからないようにと必死に祈るゾフィーだが、その祈りを嘲笑うような小さな声も己の脳内で響いていた。
その嘲笑が表に出ないように何とか抑え込んでノーラの髪にキスをし、そのコーヒーを飲んでしまいなさいと笑ったゾフィーは再度向かい合わせの椅子に腰を下ろし、自らも冷めてしまったコーヒーに口を付けるがさっきは無かった不快な苦さを感じてしまい、眉を寄せてマグカップを下ろしてしまう。
「・・・あ、そうだ。今さ、アイツに渡す以外にちょっとずつだけど金を貯めてるんだ」
「そうなの?」
「うん。ある程度溜まったら家をでられるでしょ?だから頑張って貯めてるんだけど、目標額が貯まったらあたしが住む家を一緒に探してよ、ゾフィー」
頬杖を吐いて夢の為に必死にお金を稼いでいる事をほんの少しの自慢とともに伝えたノーラにゾフィーが軽く目を瞠り、そんな事を考えていたのと呟けばその目標がある為に今何とか我慢できているんだと答えられて口を閉ざすが、震える溜息を零した後でゾフィーが前髪を掻き上げて唇の両端を持ち上げる。
「その夢があるのなら負けないわね。頑張って貯めなさい、ノーラ」
「うん。家を出るときはここのみんなに真っ先に知らせるから、住む家が見つかるまでここで寝泊まりさせて」
「良いわよ。ただし、食事の用意も掃除も洗濯も全部手伝って貰うわよ」
「あの時も手伝ったじゃん!?」
「そうよ。助けられたと思ったのなら働いて返しなさい」
ノーラが以前ここにいたときも渋々食事の支度をしたり幼い子供達の面倒を見たりしていたが、命じられてやっていたものの周囲から見ればその横顔は楽しそうだった為、本当に少女がここにいて幸せを感じてくれている事を知って安堵していたのだ。
ここで暮らすのならばまたあの時のように手伝って貰うわよと片目を閉じたゾフィーに、ノーラがあの時のように唇を可愛く尖らせながらも、それぐらいで寝泊まりさせてくれるのならば手伝いますと真剣な顔で背筋を伸ばした為ゾフィーも仰々しく頷くが、どちらからともなく小さく吹き出すと、思い描いた幸せの構図を互いの胸の裡にそっとしまって目を伏せる。
「今日はそろそろ帰るね、ゾフィー」
「・・・ノーラ、夢の為に頑張るのも分かるわ。でも、無理だけはしないで」
「ありがと。でも無理をしないとやってられないんだ。だからあたしはあたしが出来る範囲で頑張る」
無理をしないとやってられないという言葉に総てが詰まっているように思われ、口元を片手で覆い隠したゾフィーに無言で肩を竦めたノーラは、あたしの夢が叶ったときは無理をしなくても良いようになるんだからと断言し、それまでただがむしゃらに頑張るだけだとも告げると、力を分け与えて貰うようにゾフィーにしがみつく。
「バイバイ、ゾフィー」
「もうあんまり痣を増やさないように気をつけなさい」
「うん、ありがとう」
口うるさく心配してくれるゾフィーの気持ちをちゃんと察しているノーラは、そんな彼女をあの当時も本当の姉のように感じていた事を告げ、怖いけど優しいお姉ちゃんだと満面の笑みを浮かべて手を挙げる。
「あんたは本当に手の掛かる妹だわ」
でも、そんな妹だからこそ心配だし信じていると腕を組んで大きく頷いたゾフィーは、照れたような笑みを浮かべて小さく頷き、ありがとうとちゃんと礼を言ってキッチンを出て行く細くて小さな背中をただ見送り、ドアが閉まる音が聞こえると同時に椅子に力なく腰掛ける。
少女が放った言葉が脳裏で木霊し、その苦しさに頭を振って追い出そうとするものの、ノーラに好きな人がいる事を見抜かれていた事実に気付いて額に手を宛がって肩を揺らし続け、一頻り自嘲にも似た笑みで肩を揺らしていたゾフィーは、深い溜息を零して気分転換のように前髪を掻き上げると、テーブルの上を片付けてマザー・カタリーナに頼まれている仕事に取り掛かる為にキッチンを後にするのだった。