「ちょっと、福さん、どうしたんですか?」 無我夢中で走る。
自転車も荷物も、ましてや恋人も置いていって、葛西のもとへ向かった。葛西は福の母と玄関先で話している。
おおかた、お裾分けか何かだろう。なんでもいいから、とにかく葛西の視界に入っていたかった。
「優一!」
そう呼びかけると、葛西は嬉そうに福の名を呼んだ。胸の奥がじんわりと温かくなる。
「福じゃないか! 今日はちょっと遅めだな」
「仕方ないでしょ、今日も安定に部活だったんだから」
「そっかあ。お疲れ様」
ぽんぽん、と頭を撫でられる。子ども扱いのようにも感じたが、葛西に触れられることがどうしようもなく嬉しくて顔がニヤけてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、福さーん!」
後ろから福が置いていった諸々を持って颯真はやってくる。
「な、なんで俺を置いていくんですかあ! ひどいっす」
ふんと頬を膨らませる颯真。
「なんだとー? おまえ、友だち置いてったのかー? そりゃあ良くねえぞー? こんなにも必死におまえのことを追いかけてくれるやつは、誰よりも大事にしないとだぞ」
ピンと福の額を弾く葛西。額に手を当てて、ひどーいと言ったら、きらりと歯を見せて笑った。そのあどけない笑顔がどうしようもなく大好きで仕方がない。
「……じゃあ、篠田先輩、お疲れ様でした。それじゃあ。」
「あ、颯真……」
颯真は何を思ってか、福の自転車を手渡しし、ぺこりと礼をして、そのまままっすぐ帰ってしまった。
「良い後輩だな」
「……でしょ。良い、後輩、でしょ」
少し胸の中がむずむずと痒かった。
「……おかえり、福」
ふと、母の声が聞こえてきて、福はえ? 感嘆詞をこぼした。そうだ、母が目の前にいたのだった。うっかり忘れていた。
「あ、ただいまあ……」
「母さんのこと、忘れてたでしょ、福。まったく、あなたは昔っから優くんのことが大好きなんだからねえ」
ピンと額を弾かれる。葛西より痛い。葛西は嬉しそうに頭をぽりぽりとかいている。
「それで、優くんはうちでご飯食べてく? せっかく来てくれたしね。それに久しぶりに話したいわ」
「わあ、いいんですか? ならお言葉に甘えちゃおうかなあ! おばさんの料理、美味しいし」
「まあ、嬉しいこと言っちゃって……」
「だって、事実ですもーん!」
葛西は母と楽しそうに談笑をしながら、奥へと入っていく。福も置いていかれないように足早に家の中へと入っていった。ダイニングテーブルには家族三人分の食事がラップに包まれて置いてある。母が鍋にある味噌汁を注いでいる。
「ねえ、優くん。ご飯は大盛り?」
「あー、じゃあ大盛りで!」
「はーい。」
福は手を洗いに脱水所へ向かう。その前に自室に寄って、荷物を放り投げてから、走るように向かった。そして脱水所の扉をきっちり閉めたら、そのままずるずると尻餅をつく。
「……優一とご飯一緒なんて、聞いてないよ……」
全身が火照る気がする。耳までも真っ赤になっている気がして鏡を覗くと、案の定、しっかりと真っ赤に染め上がっている。このままではリビングに戻れない。きっと葛西にからかわれてしまうから……だが、その瞬間でさえも、福にとっては幸せだなのだ。
「お、福。扉が閉まってたから誰もいないのかと思ったぞ」
ガラリ、と扉が開いて、外から葛西がにゅっと顔を出した。思わず、口から心臓を落としてしまいそうになった。危なかった。
「……驚かせるつもりは、一切なかったんだ。ごめん」
「いや、それはいいんだけど……普通、ノックってするもんじゃないの?」
「だ、だってなあ、福がいる、だなんて俺も思ってなかったんだよ……?」
「じゃあなんで驚いてないの?」
「驚いてる、驚いてる。じゃあ、俺の胸に手でも当ててみるか? 平常心を保ててない心臓の音が聞こえるぞ、たぶん」
「ちょいとその言い方キモいかも。おっさんみたい」
「おっ……そ、そりゃあ、俺とおまえとじゃ、九歳違うしな……! 若い子についていけてないのは事実だよ……」
きょろきょろと目を泳がせて、ふんと鼻を鳴らしている。本当に成人済みの男性かと疑いたくなるほどの無邪気さに、何年転がされ続けているのだろう。好きで好きでたまらない。今だってその大きな手に触れたくて仕方がない。泡まみれになった手ですら愛しくて、ガラガラと口をゆすぐ姿ですら格好良くて、……なんなんだ。なんでこんなにもかっこいいんだ。
「ちくしょう……」
ぼそりとつぶやいてから、口を急いで塞ぐ。幸い葛西には聞こえていないようだった。
「あー、すっきり。あれ、福はもう手洗いうがい終わった?」
「まだ」
「おっけ。じゃあ、タオルまだカゴに入れないでおくね」
そう言って葛西は自身の手を拭った我が家のタオルを、福に手渡した。思わず、優一の触れたタオル……! とオタクのようなことを口走ってしまいそうになったが、葛西の笑顔でそのような邪念は一気にいなくなる。
福は蛇口を捻った。
「それにしても驚いたなあ。」
葛西が嬉しそうに鏡越しの福を眺める。
「まさか俺が新任する高校に、福がいるなんてなあ。去年まで疎遠だったから、福のこと、全然知らなくてな。会いたいなあとは思ってたんだけど、まさかこんなミラクルが起こるなんて!」
葛西はにひひと笑った。福はその「笑い方げひーん」と口を尖らせて言った。そういうところが大好きなのに。
「終わったから、ご飯食べに行こ。冷めちゃう」
タオルを洗濯カゴに入れて、扉に手をかける。
「ああ、たしかに~! 温かいうちがいっちばん美味しいからなあ~!」
葛西の手が触れた。ドキッとして、乱雑に開けてしまった。葛西は何も言わなかった。