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きっかけは、本当に些細な一言だった。
エレベーターを待っているとき、隣に立った別部署の人が、私の名札を見て言った。
世間話の延長のような、確認のような声音で。
「まだ、そこにいたんですね」
責める調子でも、驚く様子でもなかった。
ただ、事実を確かめるだけの口ぶりだった。
私は一瞬、言葉に詰まった。
「まだ」と言われる理由を、頭の中で探したが、すぐには見つからない。
結局、「ええ、まあ」と曖昧に返した。
エレベーターが来て、会話はそこで終わった。
彼は先に降り、私は一人残った。
その短いやり取りが、妙に残った。
怒りも悲しみもなかった。
ただ、腑に落ちる感じがした。
――ああ、これは個人の評価の話じゃない。
誰が悪いわけでもない。
誰かが意地悪をしたわけでもない。
ただ、「長くいる」という事実そのものが、判断材料にならなくなっただけだ。
速さ。
更新。
わかりやすさ。
引き継ぎのしやすさ。
そういうものが優先される場所では、
説明が必要な存在は、自然と後ろへ下がる。
長く着てきた役割は、
丁寧さや配慮と一緒に、
いつの間にか「コスト」になっていた。
それに気づいたとき、
私はようやく、自分が何を失ったのかではなく、
何を握り続けていたのかを考えた。
調整役。
空気を読む人。
間をつなぐ人。
それらは、確かに私の仕事だった。
でも、それは私そのものではなかった。
私は、少しずつ、手を離し始めた。
頼まれていない修正はしない。
呼ばれていない場には入らない。
説明を求められていないことを、説明しない。
驚くほど、何も起きなかった。
誰も困らなかった。
誰も怒らなかった。
世界は、私が思っていたより、ずっと軽やかに回っていた。
それと同時に、
私の中で、何かがほどけていった。
着ていた服を脱いだ、というより、
最初から自分の体温ではなかったものが、
静かに剥がれ落ちた感覚に近い。
裸になった不安は、確かにあった。
でも、それは長く続かなかった。
何も着ていないという状態は、
思っていたほど、心細くなかった。
私はまだ、切られてはいない。
ただ、もう、巻かれもしない。
長いものが、きられる世界で、
私は、何も着ないまま、立っている。
それでいい、と
初めて思えた。
それからしばらくして、
私は、自分が何をしていないかに気づいた。
空気を先回りして読まない。
誰かの言葉を丸くしない。
決まっていないことを、勝手に整えない。
代わりに、
必要なときだけ、必要な言葉を出すようになった。
不思議なことに、
それでも、私はここにいる。
長いものが、きられる世界で、
短くても、確かな声は、
まだ、行き場を失っていない。