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スンホは、誰も知らない街の片隅にいた。コインランドリーの古びたソファで、夜を明かそうとしていた。
ぬるい蛍光灯の下、目を閉じることもできずに座っていると、
扉が開く音がした。
「あれ、兄さんも泊まり?ここ、意外と落ち着くよな」
声をかけてきたのは、二十代後半くらいの男。
パーカーにジーンズ、少し油断した笑顔を浮かべていた。
「……うん」
反射的に返事をしてしまった自分に、スンホはすぐ後悔した。
知らない人間には関わらない。それが鉄則のはずだったのに。
「逃げてんのか?」
「……なんで?」
「顔がそう言ってる」
男はにやりと笑って、自販機で缶コーヒーを2本買ってきた。
「いらなかったら捨てて。あんた、顔色ひどいし」
手渡された缶コーヒーの温かさが、やけに現実的だった。
(……怪しい)
でも、心のどこかで少しだけ安心している自分がいる。
男は「ナオ」と名乗った。
この辺で寝る場所を転々としているらしい。
「仲間がいるんだよ。ほら、似たような事情のやつばっか」
そう言って、笑ったその表情は、
一瞬だけスンホに昔の誰かを思い出させた。
(……また、同じことを繰り返すかもしれない)
それでも、スンホはその夜、ナオの誘いに乗ってしまう。
見知らぬ廃ビルの地下に案内された時――
「ここ、俺たちのシェルターみたいなもん。安心していいよ」
ナオの言葉が、どこか乾いて聞こえたのは、
もう、逃げ場がなかったからかもしれない。
廃ビルの地下室。
雑多なマットレスと毛布が敷き詰められたその場所には、
スンホと似たような年齢の男たちが数人、無言で横たわっていた。
空気は乾いていて、どこか焦げたような匂いがする。
「ここ、最初はちょっとだけ息苦しいかもだけどさ。慣れるよ」
ナオはそう言って、スンホの背中を軽く叩いた。
数時間後、飯が配られた。
パックの白飯と、味の薄いスープ。
それを食べながら、スンホはあることに気づいた。
誰も目を合わせない。
誰も話さない。
ナオだけが笑っていた。
「ここじゃさ、ちょっとした“お手伝い”してくれれば、
ちゃんと居場所も、金も手に入る。な?」
スンホは、背中に冷たいものが落ちていくのを感じた。
「……お手伝いって、なに?」
「簡単だよ。箱運んだり、ちょっと場所整理したり、
たまに電話受けたり。お前、そういうの得意そうじゃん」
ナオの笑顔は変わらない。
優しい声もそのままだ。
だが、その目の奥にある冷たい何かが、
スンホには、かつて見た「別の誰か」を思い出させていた。
(また、引きずり込まれる)
心臓が静かに警告を鳴らす。
それでも、足を出すのは簡単だった。
ここには、飯があり、毛布があり、少しの安心があった。
ナオの声が耳元に落ちる。
「逃げても、次はないよ?スンホ」
名前を呼ばれた瞬間、スンホは悟った。
(名乗ってない)
――これは、最初から仕組まれていた。