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薄汚れた毛布にくるまって、眠ったふりをする。地下室の隅では、小さな電球がぼんやりと灯っていた。
ナオは奥の簡易ベッドに腰かけ、スマホをいじっている。
周りに横たわる男たちからは、寝息ひとつ聞こえない。
スンホは視線をそっとずらした。
出口は鉄のドア一枚。
その脇にナオの目がある。
(今しかない)
喉が渇く。心臓の音が響く。
スンホは体を起こし、わざとらしく咳をした。
ナオが顔を上げる。
「トイレ……どこ」
ナオは笑った。
「廊下に出て右な。でも鍵閉めるから戻ってこいよ」
鍵を握るナオの後ろ姿を見ながら、
スンホは息を潜めて立ち上がる。
鉄のドアが開き、冷たい廊下の空気がスンホの頬を撫でた。
ドアが閉まる音を背中で聞いた瞬間――
スンホは走った。
廊下を曲がり、薄暗い階段を駆け上がる。
何度も足を滑らせそうになりながらも、
息を殺してドアノブを探す。
重い非常扉を押し開けると、街の夜気が一気に肺を満たした。
(頼む……誰にも気づかれるな……)
だが、背後で怒声が響いた。
「おい! どこ行く!」
ナオの声だった。
スンホは階段を飛び降りるように走った。
逃げ場のないコンクリートの通路を抜け、
裏路地に滑り込む。
追ってくる足音が背中を追う。
息が切れた。膝が笑った。
それでも、スンホは走った。
自分の足で、自分の意思で――
ただ、ここから離れたい一心で。
スンホは、裏路地を曲がり続けた。
どこをどう走ったか覚えていない。
気がつけば、人気のない公園の奥に、
使われていない滑り台の下で息を殺していた。
シャツの裾は泥で黒くなり、
冷えた夜風が汗で濡れた首筋を撫でる。
(もう誰も……信用できない……)
足音が遠くに消えていくのを、じっと待つ。
体を小さく丸めて、吐く息すら飲み込む。
ナオの笑顔が脳裏で揺れた。
「逃げても、次はないよ」
(なら……次なんかいらない)
誰も探しに来ない場所。
誰も名前を呼ばない夜。
そういうところに、ただ埋もれたい。
でも、腹が鳴った。
胃が、小さく痛んだ。
ここにずっとはいられない。
それは、わかっていた。
スンホはゆっくりと顔を上げた。
薄い夜空に、ぼんやり街灯が滲んでいた。
(生きてる……まだ、生きてる)
震える手で膝を抱えながら、
スンホはまた、次の“どこか”を探す。
身を潜めていた滑り台の下から、ゆっくりと這い出る。
静まり返った公園。風に揺れる木の葉の音だけが聞こえる。
街の片隅で、誰にも見られず、名前を呼ばれず、声も届かない。
スンホはベンチの端に腰を下ろし、顔を伏せた。
ここまで逃げてきたのに。
命からがら逃げたのに。
何も変わらなかった。
胸の奥が、裂けるように痛い。
ずっと我慢していた涙が、にじみ出てきた。
最初はただ、目の奥が熱くなるだけだった。
けれど――
一滴、また一滴。
止まらない。
声を押し殺すように、唇を噛んで、肩を震わせて泣いた。
(なんで俺が、こんな……)
詐欺に遭って、信じた人に裏切られて、追われて、
頑張って生きようとして、
それでも、誰も助けてくれなかった。
「……しんどい……」
小さな、消え入りそうな声だった。
でも、初めて口にした本音だった。
スンホは顔を両手で覆い、しゃくり上げながら泣いた。
涙が頬を伝い、指の間からこぼれ落ちた。
どこにも行き場のない感情が、
夜の静けさに吸い込まれていった。
ただ泣くしかなかった。
誰にも知られずに、何も望まずに、ただ泣いた。
そしてほんの少しだけ、
涙が落ちきったあとの空っぽさに、
小さな呼吸が戻ってきた。