テラーノベル
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ハルが父の工具袋を見つめるようになって、三日が過ぎた。
黒ずんだ鍵は、いつも同じ場所にあった。
取ろうと思えば取れる。
けれど、取らなかった。
三日前、ミオと決めたのは、外へ逃げることではない。今の外を確かめ、必ず戻ってくることだ。
そのために二人は準備を始めた。
水筒。乾燥したパン。塩。布。小さな刃物。方角を見る古い磁針。管理棟で写した地図。
ミオは一つずつ紙に書いた。
「これで一日」
「一日で帰れる?」
「分からない」
「31まで行くなら?」
「行かない」
即答された。
「まず外へ出て、道が本当に続いてるか確認する。遠くへ行くのはそのあと」
「慎重だな」
「ハルが雑だから」
放課後、二人は古い搬入路を遠くから眺めた。
門には新しい金属板が取り付けられ、補助解除は塞がれている。
「前より厳重」
「私たちのせい」
「じゃあ鍵しかない」
ミオは返事をしなかった。
その夜、トウマが珍しくハルを点検へ誘った。
「来い」
「どこ?」
「境界」
北側の道を二人で歩く。
点検灯を一つずつ確認し、配管の圧を読む。
父は仕事の説明しかしない。
ハルも外の話をしなかった。
搬入門の近くまで来たところで、トウマが立ち止まった。
「ここを開けたいのか」
突然だった。
ハルは父を見る。
「……うん」
「どうしても?」
「外に行きたいからじゃない」
「ミオと同じことを言うな」
「同じこと考えてるから」
トウマは門へ手を当てた。
「お前が自由だと思っている場所で、生きられる保証なんてないんだ」
「分かってる」
「分かってない。水が出ない。食べ物が見つからない。怪我をしても医者はいない。人がいたとして、その人間が味方とも限らない」
「うん」
「それでも行くのか」
ハルはすぐには答えなかった。
「父さん」
「何だ」
「父さんは外を見たことあるの?」
長い沈黙。
以前にも似た質問をした。
その時、父は答えなかった。
今日は違った。
「……ない」
「一回も?」
「ない」
「門の向こうに足を出したことも?」
「ない」
「じゃあ父さんも、本当は知りたいんじゃない?」
トウマの顔が強張った。
「知りたいことと、やっていいことは別だ」
「どうして?」
「俺にはお前たちがいる」
「俺たちがいなかったら行った?」
「そういう話じゃない」
「父さんだって考えたことあるんだ」
トウマは否定しなかった。
風が境界の金属板を鳴らす。
「俺が十四のころ」
父が言った。
「同じようなことを考えた」
ハルは驚いた。
「本当に?」
「外はどうなってる。なぜ誰も確かめない。大人は何を怖がってる。全部な」
「じゃあ何で――」
「父親になったからだ」
トウマは笑わなかった。
「お前が生まれて、ナナが生まれて、設備の仕事をするようになった。水が止まれば何人困るか、電気が止まれば何が起こるか分かるようになった」
「それで外を考えなくなった?」
「考えないようにした」
ハルは父を見る。
自分と同じだった。
「それって、答えが出たわけじゃないよね」
「そうだ」
「じゃあ俺も、考えないようにした方がいい?」
トウマは答えなかった。
家へ戻る途中も、二人はほとんど話さなかった。
玄関で父が工具袋を机に置く。
黒ずんだ鍵が見えた。
ハルは部屋へ戻った。
翌朝。
食卓に父はいなかった。
早朝の点検らしい。
ユイがパンを切っている。
机の端に、工具袋。
そして、その横に黒ずんだ鍵。
袋の中ではない。
外に置かれている。
ハルは立ち止まった。
「母さん」
「なに?」
「父さん、鍵忘れてる」
ユイが振り返る。
一瞬だけ鍵を見る。
「そうみたいね」
「届けた方がいい?」
「今日は南側の点検だから、たぶん使わないんじゃない?」
ユイはそれだけ言って台所へ戻った。
ハルは鍵を見つめた。
偶然かもしれない。
昨日、父が袋から外して、そのまま忘れただけ。
そう考える方が自然だ。
でも、いつも腰か袋にある鍵が、今日だけ机の上にある。
ハルは手を伸ばした。
止める声はない。
指が鍵に触れる。
冷たい。
「お兄ちゃん」
ナナが眠そうな顔で出てきた。
ハルは手を引いた。
「何?」
「今日畑?」
「学校」
「そっか」
妹は何も知らず椅子に座った。
ハルは鍵を取らなかった。
学校へ行き、ミオに話した。
「置いてあった?」
「うん」
「わざとだと思う?」
「分からない」
「俺も」
「取らなかったんだ」
「うん」
ミオは少し安心した顔をした。
「何?」
「前のハルなら取ってた」
「前っていつだよ」
「十日前」
「そんな変わった?」
「少し」
放課後、家へ帰る。
鍵はまだ机にあった。
トウマも戻っていた。
父は椅子で道具を手入れしている。
ハルは鍵を見る。
「父さん」
「何だ」
「忘れてたよ」
「ああ」
それだけ。
「大事な鍵じゃないの?」
「大事だ」
「じゃあ何で置いてったの」
「忘れたんだろ」
「父さんが?」
「俺だって忘れる」
ハルはじっと見る。
トウマは目を合わせない。
「これ、搬入門も開く?」
手が止まった。
「何で聞く」
「知りたいから」
「……開く」
初めて明確に認めた。
「じゃあ、これがあれば外へ出られる」
「門が動けばな」
「止めないの?」
「何を」
「俺が鍵を取るの」
トウマが顔を上げた。
「取るのか?」
ハルは答えられない。
父もそれ以上言わない。
しばらくしてトウマは鍵を手に取り、机の引き出しを開けた。
ハルの胸が沈む。
けれど父は引き出しに入れなかった。
鍵を机の上へ戻した。
「明日の朝、北側の点検がある」
「うん」
「俺は南の貯水槽へ行く」
「……うん」
「それだけだ」
トウマは立ち上がった。
ハルは父の背中を見る。
「父さん」
「何だ」
「もし俺が外へ行ったら、怒る?」
父は振り返らない。
「怒る」
「止める?」
長い沈黙。
「止めたい」
止める、ではなかった。
その夜、ハルは眠れなかった。
父が鍵を置いた意味は分からない。
わざとかもしれない。
本当に忘れただけかもしれない。
答えは聞かないことにした。
聞けば、父に決めてもらうことになる。
朝。
ハルは机の前に立った。
黒ずんだ鍵を握る。
今度は手を離さなかった。
外へ行くかどうかを、父に決めてもらうためではない。
自分で確かめ、自分で戻るために。
ポケットへ入れる直前、背後で床が鳴った。
トウマだった。
二人の目が合う。
ハルの手には鍵。
父は何も言わない。
やがて視線を外し、玄関の扉を開けた。
「南へ行ってくる」
それだけ言って出ていった。
ハルは鍵を握ったまま立っていた。
父が許したのかどうかは、最後まで分からなかった。
前の晩、ハルはミオと作った準備表を父に見せていた。
トウマは最初から最後まで黙って読んだ。
「日帰り。旧道から離れない。戻る時刻を決める。水は余分に持つ」
「うん」
「これを作ったから安全だと思うなよ」
「思ってない」
「本当に?」
「怖いよ」
ハルがそう答えると、父は顔を上げた。
「怖い。でも、怖いって理由だけでずっと知らないままなのも嫌なんだ」
トウマは紙を折らず、そのまま机へ戻した。
「俺が十四の時は、そこまで考えなかった」
「じゃあ俺の勝ち?」
「そういうところは負けてる」
父の口元が少しだけ緩んだ。
「もし外へ出ることになったら、何を一番にする」
「戻る」
「二番は?」
「ミオと離れない」
「三番」
「知らないものに触らない」
「水は?」
「持っていったものだけ」
質問はしばらく続いた。
ハルは途中で気づいた。
父は許可しているわけではない。
それでも、もし息子が境界を越えるなら、生きて帰れるように知っていることを渡そうとしている。
それは矛盾しているようで、ハルには父らしく思えた。
「父さん」
「何だ」
「俺が外を知ったら、父さんも知ったことになる?」
トウマは首を振った。
「お前が見たものは、お前が見たものだ。俺は聞くだけだ」
「じゃあ自分で見たい?」
「……その質問はもうしただろ」
答えなかったが、否定もしなかった。
だから翌朝、机に残された鍵を見た時、ハルは簡単に「許された」とは思えなかった。
許可ではない。
父が答えを自分で決めきれなかった、その迷いまで置かれているように見えた。
鍵はただの金属だった。
けれどハルにとっては、父から渡された命令ではなく、自分で選ばなければならないものになっていた。
ポケットの鍵が、歩くたびに小さく鳴った。
その音を聞きながら、ハルは父が残したのは鍵だけではないと思った。
怖くても考えること。
守りたいものがあるから迷うこと。
答えがなくても、最後は自分で選ばなければならないこと。
父と同じ疑問を持ちながら、父とは違う選択をするかもしれない。
それでも親子でいられるのか。
ハルはまだ、その答えも知らなかった。
コメント
1件
第16話、すごくよかったです… 父・トウマが鍵を“わざと”置いていったのか、本当に忘れただけなのか、最後まで分からないままなのが逆にリアルで。ハルが「父さんも外を知りたいんじゃない?」って問いかけるところ、胸に来ました。親子で同じ疑問を持ちながら、答えを自分で選ばないといけないっていう重さが伝わってきます。鍵をポケットに入れたハルの背中、ちゃんと見届けたいです。次の話も読みますね🌙