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私は高原の話にじっと耳を傾けていたが、ここではじめて静かに言葉を挟んだ。
「あの時の私、助けてくれた人の顔は分からなかったんです。よく見えなかったから。でもそれを置いても、本当に楡の木によく来ていたんですか?常連さんだったんですか?私、アルバイト時代に店であなたに会った記憶がないんです」
「記憶にないのは仕方ないと思う。俺が店に行っていたのは、たいてい平日だったから」
「それなら、いつ?」
当時のことを思い出しているのか、高原は宙を見るように顔を少し上向けた。
「あの週末、足を運んだのは本当に気まぐれだった。それもだいぶしばらくぶりにね。相変わらず賑わっていた店の中で、あの日は一つだけカウンター席が空いていた。そこで一人で飲んでいたんだけど」
彼は言葉を切って私をちらと見る。
「女の子が一人で入ってきた。見るからに学生でね。一人で飲みに来たのかと驚いて見ていたら、バイトの子だったんだよな」
「それが、私だったと?」
高原は頷き、再び前を向いて話を続ける。
「最初は全くなんの気もなく、ただ眺めていただけだった。だけど、君の生き生きとした表情や屈託のない笑顔に、気がついたら目が釘付けになっていた」
「でも、そんなのは仕事で行ってたわけだから、当然のことで……」
「君にとっては、そうだったんだろう。だけどあの時の俺は、そんな君にいつの間にか気持ちを持ってかれてしまってた」
「それはお酒が入っていたせいです。高原さんの気の迷いだったに過ぎませんよ」
高原はそれに対しては何も触れず、話し続ける。
「あの頃の俺はハウスメーカーの営業をやっててね。どんなに頑張って契約を取っても、親のコネだろうっていう目で見られてた。逆に家のことを知ると、すり寄って来る人間なんかもいてね。色んなことに嫌気がさしていた時期だった。そんな状態だったから、余計に君の笑顔に惹かれたんだろうな」
「それならやっぱり、高原さんの勘違いだったんですよ。心が弱っていたところに、偶然そこに私がいただけのことです」
私はうつむき、彼の言葉を否定するようなことを言い続けた。恐らくそれは、彼の想いが偽物ではないことを確かめたい気持ちの裏返しだったと思う。
高原は続ける。
「その後も二、三回は行ったかな。週末はいつも客でいっぱいで、君は忙しそうに店内を動き回って働いていたから、俺のことなんか見えていなかったと思う。それにあの頃、君の目は金子君を追いかけていた。他の男のことなんか目に入らなかっただろう」
絶句した。客の一人だった彼が気づいていたとは思わなかった。
「だから、俺の出る幕はないと思っていた。金子君と君は、見た目にもお似合いだったからな。それなら、せめて遠くからでも君を眺めていられればいいと思った。でもあの日、その気持ちが変わってしまった」
「あの日?」
「君が男に絡まれていた時のことだよ。あの日は遅くなってしまったけれど、少しくらいは君の顔を見られるだろうかと思いながら、楡の木に行ったんだ。それで偶然あの場面に出くわして、君を助けることになった。あの時君が俺に見せた笑顔が目に焼き付いて、忘れられなくなった。おかげで欲が生まれてしまった。君の笑顔を見たい。君に触れたい。金子君じゃなくて俺を見てほしい。そう思った。だけど――」
高原は目を閉じる。
「しばらく忙しい日が続いて、久しぶりに行ってみれば、君はもう店からいなくなってた。あの時すぐに何か行動を起こしていれば、また違う展開もあったかもしれない。だけど、君が好きなのは金子君だと思っていたから、俺はそこで諦めてしまった。でも、また会えた」
高原は目を開けて、私に顔を向けた。
「あの時、僥倖と言ったのはそういう意味だ。仕事で関わることになったのも、俺にとっては奇跡的で幸運なことだった。だからこそ今度は後悔したくないと思う。だけどよく考えてみたら、君に恋人がいるのか、好きな人がいるのか、俺は何一つ聞いていなかった。仕事上、君が断りにくいことを分かっていながら、強引に誘ってた」
高原は真っすぐな目で私を見つめている。
「今さらだけど、今ここで、君の気持ちを聞かせてほしい。仕事以外で俺につき合うのは嫌だというのなら、今後一切君への個人的な連絡はやめる。君のことは諦めるよう努力する」
高原の独白が終わってから、どれくらいの時間、私たちは見つめ合っていただろう。
その間私はずっと息を詰めるようにして、彼の言葉に耳を傾けていた。彼が語った五年越しの想いは私の心に確かに届き、じわじわと染み込んだ。絆されたわけではない。仕事で再会してからまだそんなに時間はたっていないものの、私に対する彼の想いが本物であることや、彼が誠実な人であることはもう十分に分かっていた。そして今の私は彼をとても愛しく思っている。しかし、その気持ちにブレーキをかけるものがあった。
「高原さんが好きだと言っているのは、五年前の私なのでは?」
彼は即座に首を横に振る。
「この数ヶ月の間、手の届く距離にいる君と関わる中で、あの頃よりももっとずっと、君を好きになった」
それが本当なら、と私は膝の上のバッグにすがるように手を伸ばし、おもむろに口を開いた。
「金子君のことは、ただの友達としか思っていません。だって、今は気になっている人がいるから」
「そう、なんだな……」
高原の声がかすれる。きっと動揺しているのだろう。けれど、これまで振り回されてばかりだったから、私だって少しくらいは振り回したい。そう簡単に、正直に答えてあげたりはしない。
「数か月前に会ったんです、飲み会の席で」
高原の身じろぎする気配がした。
「その人との時間はとにかく過去最悪でした。無愛想で感じが悪くて、二度と会いたくないと思った。それなのに、まさか仕事で関わることになるとは想像さえしなかった……」
手元を見ながら次の言葉を探す私の耳に、カチッという金属音が聞こえた。高原がシートベルトを外したのだと分かった。
彼はうつむいたままだった私の手を取り、その指先に唇を寄せた。
「それって、俺の知ってる人?」
「どうでしょう」
私は顔を背けた。
高原の手が私の首筋に触れる。
「俺のことを、言ってるんだよな」
「さぁ……」
彼は私の方へ身を乗り出し、私の顔に触れた。
「言ってくれ。はっきり聞きたい」