唯由がバス停への道を歩いていると、後ろから自転車がやってきた。
「おはよう、蓮形寺さん。
最近よく会うね。
また今度呑もうよ」
お疲れ~と言って、爽やかに去っていく。
例のコンパのとき隣の席だった人だ。
「あ、はい。
ありがとうございます」
と機械的に返したときには、もう彼の姿は消えていた。
今日、なんだかんだで出遅れたのに、また出会ったな。
あの人も遅刻かな、と唯由は、ぼんやり思っていた。
「またメール無視されたわっ。
朝まで見てたのに、スマホッ」
意匠を凝らしたテーブルコーディネイトにも、温かい朝食にも目を向けず、月子はスマホを手に憤っていた。
朝の光眩しい庭がよく見える大きな窓の設られた部屋。
広いテーブルには自分以外の家族の誰もついてはいなかった。
月子が起きるのが遅いからだ。
「|三条《さんじょう》っ|
このまずいフレンチトーストをさげてちょうだいっ。
……三条?
なにしてるのよ」
老齢の執事、三条は束ねられた分厚いカーテンの陰に隠れ、外を窺っているようだった。
「月子様。
実は、この間から、見合い相手の手の者が時折、こちらに探りを入れてきているのです」
「なんなのよ、その見合い相手。
断りなさいよ」
「いえ、それが、その見合い相手の執事が独断で、コソコソ動き回っているようで」
「そんなのどうでもいいから。
さっさと、このクソまずいフレンチトーストをさげなさいっ」
だが、やって来た三条は食事をさげる代わりに、月子の前に一枚の写真を差し出した。
「……誰、これっ。
めっちゃイケメンッ」
月子はテーブルの上に置かれたその写真をつかみとる。
その男は物静かな雰囲気で端正な顔立ちをしていた。
隠し撮りのようなのに鋭い目でこちらを見ている。
「いや、なんかこの視線、いいわっ。
誰なの、これっ?」
「その見合い相手の執事でございます」
「……なんで執事の写真を見せてくるのよ。
見合い相手の写真はどうしたのよ」
「見合い相手の方のお写真なら、もうお渡ししておりますが」
そういえば、そうだったな、と月子は思い出す。
興味もないので棚に放ったまま見てもいなかった。
月子の部屋からとってきた三条が重厚な台紙に入っている写真を見せてくる。
「ふーん。
普通」
蓮太郎は月子の好みではなかった。
というか、ちょっと嫌悪感さえある。
「……お父様に似てるわ」
月子は幼少期、父のせいで苦労したので、父に似た男は嫌いだった。
「そんなことより、お姉様よっ。
なんなの、また無視してっ。
もうっ。
これ、さげてちょうだいったら、三条っ」
やれやれ、と三条は溜息まじりに、
「月子様が子どもの頃から通ってらっしゃるホテルの朝食を運ばせたのですよ」
と言ったが、月子は聞かない。
「……あの悪魔のせいよ。
あの女のせいで、私はもう、大好きだったフレンチトーストも食べられなくなってしまったのよっ。
三条、あの女を連れ戻してきてっ」
だが、もともとは唯由に仕えていた三条は、ふうっと大きく溜息をつく。
「じゃあ、それかこのイケメン執事を連れてきてっ」
と月子は写真を三条に向かい、突き出した。
「執事なら、ここにいるではないですか。
そんな経験不足な若者を連れてこなくとも」
「目の保養が欲しいのよっ。
この男が運んできたら、まずい朝食も食べてもいいわよっ」
三条は懐から新たな写真を取り出し、すっと月子の前に置いた。
「……誰、このすごいイケメン」
「わたくしでございます」
「えっ?
ほんとっ?
これはビックリだわ」
と思わず、若かりし頃の三条の写真を覗き込んだ月子だったが、すぐに正気に返る。
「いや、なんの意味があるのよっ。
おかしなところで張り合わないでよっ」
「執事としての技量で劣っていると言われるのならともかく、容姿で判断されるのは不快ですな」
「技量の優れた執事なら、もっと美味しい朝食を用意しなさいよっ」
と言って、月子は立ち上がった。
「出かけてくるわっ」
月子が鞄をつかみ、玄関に向かうと、手の空いている使用人がみな見送りに来る。
「いってらっしゃいませ」
頭を下げながら、全員、ホッとした顔をしていた。
蓮形寺さんが通るまで、思わず待ってしまっていた。
これは恋だろうかな。
意外に近くに住んでいたのも運命かもしれないし。
今まさに恋をはじめようとしている男は、なんでも運命にしたがっていた。
唯由が言うところの『隣の席の人』は赤信号で止まり、唯由が歩いているであろう方角を振り返る。
だが、建物の陰になっていて、唯由がいる道は全然見えなかった。
信号が変わってしばらく走り、いつも抜けるちょっと狭い道を走っていると、後ろから丸っこい感じのパステルカラーの外車が来た。
できるだけ端に寄っていたのだが、かなりギリギリを攻めてくる車だったので、よろけてしまう。
側溝に蓋がなく、体勢を斜めにしてようやく足をついた。
そのせいで、壁に肩とハンドルがぶつかる。
すると、その車が止まり、運転手が窓からこちらを覗いて叫んだ。
「気をつけなさいよっ」
いや、それ、俺のセリフ……と思ったとき、その車はもう走り去っていた。
ウェーブのついた、かなり長い黒髪の若い女だったのだが。
その顔には見覚えがあった。
「なに今の、邪悪な蓮形寺さんみたいなの……」
と隣の席の自転車の人は呟く。
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