テラーノベル
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最高潮に盛り上がっていた会場から一転、直接足を運んだ生徒会室はシン…と静まり返っていた。
片足を踏み入れたと同時に訪れた海の底のような静寂に、脳内に纏わりついていた雑音がピタリと止む。
張り巡っていた全身の緊張を解くように来客用の長椅子へと身を投げた。
(あー…やっと一息つける…)
はあ…と息を吐きながら体重を椅子に預けゆっくりと瞼を閉じる。
真っ黒に彩られた瞼の裏に映るのはやはりつい先ほどまでの景色だった。
生徒たちの盛大な拍手と歓声。
憎しみや恨みで象られた役員の顔。
そしてそんな自分に向けられた表情とはまるで対照的な、転校生に浮かべたなによりも優しく慈愛に満ち溢れた笑顔。
(…昔はよく見せてくれてたな)
俺の好きだった、見るだけで安心できたあの笑顔を。
――きっと二度と俺に向けられることはないのだろう。
だからどうしようもなく腹が立ってしまうのだ。
俺が失ってしまった、精一杯手を伸ばしたってもう掴むことの出来ないであろうあいつらの心からの笑みをつい最近ふらりとやってきただけの奴がこうも容易くその権利を得て。
…あいつらの笑顔を一点に注がれる転校生が許せなくて悔しくて。それ以上に羨ましかった。
つまりどうしようもなく妬いてしまったのだ、あの転校生に。
(我ながら吐き気がするほど重いな……)
まさか自分の中にこんなに傲慢な思いがあったなんて知らなかった。
はあぁ……
逃げていく幸せに後ろ髪を引かれることもなく二度目の深い溜め息を吐いた頃。
唐突に、まったく別の出来事が頭をよぎる。
(そういえばさっきの…)
興奮の色を浮かべた生徒たちでごった返していたあの場で自然と耳に飛び込んできたその言葉。
あまりの脈絡のなさに上手く聞き取れなかったが、確か…
(…会長はあんちやらなんやらなのか……だったか?)
あの言葉を聞いた時、正直狼狽えた。
というかそもそも俺に対しての感想が好意でも讃美でも、敵対でもなんでもなくて。あろうことか珍獣を見つけたかのような反応って。
どういうことなんだ。
まったく訳がわからねぇ。
俺の脳内をここまで掻き乱せられるのは精々、生徒会の奴らくらいかと思っていたが……。
一瞥、壁の右隅に掛けられている時計に目を遣る。
針は11と8を指していた。
誰ひとりこの場へ訪れる気配がないことから察するに、今尚あいつらは転校生と共に甘い時間を共有しているのだろう。その軽はずみな行動こそが親衛隊は疎か一般生徒から批判を買うというのに。
そのことに関しては不満が込み上げる。
でも、
誰もいない廊下に扉を開ける音が響き渡った。
それを合図に、弾かれたように生徒会室から飛び出していく。
うじうじ考え込むなんてらしくねぇよな……っ!
品定めするような発言をされるのは慣れている。
ただ他の奴らと何かが違っただけ。
意味なんか見出さなくても支障はないし、そもそも元から意味なんてないのかもしれない。
(わかってる、んなこと)
それでも、確証なんてない賭けに出る動き続ける足は。もう俺の意志ではコントロールできなくて。
だからあーだこーだと難しいこと考えんのはもう止めだ。
気になるのなら自分で確かめにいけばいい。
初めて耳にした異色すぎるその言葉に感じた何か。
嫌悪とも落胆とも違う、それ以上に隠されていた意味。
確信はなかった。勘違いかもしれない。
だけどもしかしたら、そいつならこの崩れ去ろうとしている今の学園を……
「会長様…!?ほほほ本物!?」
「きゃあ!なぜこんなところに会長様が!」
「うわぁ…近くで見るとより男らしくてかっこいい…!」
歓迎会を終えたばかりのこの時間ならまだ生徒たちは会場から教室のある棟まで移動している頃合だろうと踏んたが、どうやらその読みは当たったようだ。
案の定まばらな生徒の帰宅にほっと胸を撫で下ろす。
だがすぐに俺の姿を確認した新入生たちが黄色い歓声と共に俺を取り囲むように集まりだした。
高等部へと進級してからまだ数日という事実を忘れてしまうような熱気を帯びた支持は、恐らく俺がこの学園の生徒会長だという認識をしてくれたゆえのものなんだろう。
……それはすごい励みになるし、嬉しいとも思うが
「……聞きたいことがある」
状況とは不釣り合いな、やけに神妙がかった俺の表情と声色に生徒たちがどよめく。
「変なことを聞くようだが、今年の新入生の中に外部から編入してきたやつはいないか?」
俺の推測はこうだった。
神宮聖に入学できるのは初等部からのみのため中高と進級しても周りの環境と人間はそう大きく変わることはない。
そして高等部以上で選出を許される生徒会や風紀委員会は大っぴらな選挙活動やお披露目会こそ高等部でだが、そういった役職につく面子は大抵以前から周りの生徒たちに絶大な人気を誇っている。
ーーきっと次は誰がなる。
ーーあの人になってほしい。
そんな憶測や願望は中等部ですでに囁かれているのだ。
かくいう俺も中等部から次期生徒会長最有力候補として注目を浴びていたため、その頃には俺の名前と顔は学園中に知れ渡っていた。
つまりそれがどんな意味を持つのか、答えは簡単だ。
あのときそいつは言った。
ここの会長はなんとかなんだと。
なんとなしに零していたその言葉には再確認のようなニュアンスは含まれていなかった。
むしろ今ここで発見したかのような言い方をしていた。
つまりそれは、俺の存在をその時…あるいは入学式の時に初めて認識したからではないか。
バラバラだった点と点が繋がり、一つの憶測が導き出される。
(おそらくあいつが理事長の言っていた、数年ぶりの特待生ってやつだな…)
見慣れた顔触れの中に新しい顔があればすぐに誰か特定できるかと考えていたが。生徒たちは近くの奴と顔を見合わたり小声を交わしたり。中には小首を傾げている生徒も少なくなくて。
その光景に驚いた。
まさかこれほど知っているやつが少ないとは。
確かに周りの人物や環境に大きな変化がないといえど、桁違いの生徒数を誇るこの学園上認識してない同級生がいたっておかしくはない。
だがそれでも小耳に挟んだ生徒くらいはすぐに見つかると思っていた。
なんたって数年ぶりの特待生だ。
学年どころか学校中でそいつの話題が飛び交ってたっておかしくない。
それなのにまさかこんなにも特待生の存在を認識していない奴がいるなんて思ってもみなかった。
よほど地味で目立たない奴か。それとも逆にそいつ自身が目立つのや騒がれるのが嫌なだけなのか。
まあどっちにしろ目立ちすぎてなんらかの不祥事を起こしてもらうよりかは全然いいが…
一体何者なんだ…その特待生とやらは。
「ぁ、あの…僕知ってます…っ!」
こっちから声を掛けたというのにすっかりと脱力している俺の前に、一人の生徒がおずおずと手を挙げた。
待ち望んでいたその答えについ期待に満ち溢れた視線を向けてしまう。
「っそいつは誰なんだ?どこでそいつの話を聞いた?今はどこにいる?」
「え…ぇえええっと!!!」
「っす、すまない……」
目に見えて困惑する生徒の姿に我に帰る。
先ほどまでの勢いを失い、しょん…となる俺に生徒はくすりと笑い口を開いた。
話しを聞けばそれは案外畏まっていたような内容ではなかった。
初聞きとでもいうような(まぁ実際そうなんだろうけど)周りの生徒たちが度々驚愕の声を漏らしていた中、律儀にすべての質問に一つずつ返してくれた男子生徒に礼を告げ、輪の中をすり抜ける。
背中越しに耳に入る生徒たちの名残惜しそうな口々も今だけは受け止める余裕なんてなくて。
話しの中に出てきた場所へと身を翻した。
「あ、会長だ!」
「走っているお姿もなんて美しい……!滴る汗がまるで宝石のようだわっ……!!」
人混みの隙間を縫って走る。
まだまだ気温の低い早春とはいえ、尋常でない数の生徒たちの密度で室内の湿度は相当高くなっているのだろう。
ごった返した人の波に抗う度に汗でワイシャツが肌に張り付く。
だが額に滲む汗すらも気にならないほど俺の頭ん中で反芻していたのは先程の生徒の言葉だった。
――『たしか高等部に進級してまだ日も浅かった頃かな…。僕の幼なじみに聞いたんです。俺のクラスに見たことない奴がいるって』
ほら、これだけこの学園にいればそれなりに周りは見知った顔じゃないですか。
『多分その人が編入生じゃないかって。クラスでも色々と噂になったみたいなんですけど。
ーああそういえば!幼なじみが言ってたんですけど、もう一つ皆の注目を惹いたのがその編入生すっごい顔が良かったって……!』
美形ばかりが集結したこの学園でも格別にそれ以上に容姿が整っていて。
まだ話したことないから性格はわかんないけど、もしそいつが初等部からここにいれば間違いなく親衛隊が出来るくらい…いや、もしかしたら生徒会にだって選出されてんじゃないかってくらいの顔と品格!!
まあとにかくっ!そいつの人を惹き付ける存在感…やばいなんてもんじゃなかった!
『――って、興奮しながら話してたんですけど…』
けどならなんで?って僕は思ったんですよね。生徒会…ってああいや…!!勿論会長様は除きますけど!なぜなら会長様より麗しく尚且つ男前な人間なんぞ存在しようがありませんからッ!!
っと、話しがずれましたね。会長様以外の役員の方たちと対等…いや、幼なじみいわくそれ以上かもしれない容姿と存在感を持ちながらなぜ僕は知らなかったのか…
いいえ…僕以外の方もそうでした。拝見はおろかそんなすごい方が編入してきたのすら知らなかったんです…。
『普通なら学園中その方の話題で持ち切りになってもおかしくないのに…』
それも対象は珍しすぎる特待生。
ぼく自身きちんとこの目で見たわけではないので断言はできませんが、それだけ綺麗な顔をしているのなら一目見ればああこの人かってなんとなくわかるんじゃないでしょうか?
ーー『あと会長様が聞きたいのはその方のいまいる場所でしたよね…!』
やっと人集りを抜ければ、目の前に広がる一帯はすっかり人気のなくなった講堂と普通科の棟を繋ぐ渡り廊下。
つい先ほど全く同じ道筋を沿ったばかりなのにその僅か数十分後に再度訪れる羽目になるとは…。本当に俺は何をしているんだか。
しかもガキみてぇに何も考えず一心不乱に行動起こすし。…つくづく最近の俺はらしくない。笑い話もいいところだ。
俺の変な探究心と期待だけでここまで事を大きくして。入学したばかりの新入生にまであんな余裕ない姿晒すし。
常に気高く学園のトップに君臨し学園を統率していかなくてはならない立場なのに、一般生徒を騒がさせたのだ。それもあろうことか生徒会長である俺一人の私情で。
(……生徒会の奴らにこんな姿見られでもしたらまた嘲笑と罵声の嵐だろうな)
……いや、いつもの嫌味ったらしい愚痴だけなら受け流せばいいんだけど。
そんなもの比にならないくらい俺が最も恐れているもの。
それはもしあいつらが――…
「はあーー。歓迎会まじだるかった。っつかやることほぼ入学式と一緒じゃん。やる意味あった?」
「少なくとも俺にはあったよ。それもとびっきりのがね」
「どうせまた例のあれだろ?ったく…長い付き合いとはいえつくづくお前の趣味だけは理解できねぇな」
様々な蟠りで全思考を掻っ攫われていた中、不意にその唯一ともいえる思考までもが完全停止する。原因は単純だった。ふと耳に飛び込んできた話し声に釣られるように目線を合わせれば。
(―――――っ!)
―――『きっとその方ならまだ講堂を出たばかりだと思います』
渡り廊下の向こうから肩を並べこちらに歩いてくる二人組。
一人は欠伸を噛み殺しながらかったるそうに歩く全国の男子校生のちょうど平均くらいの背丈と、整っているとも悪いとも言えない…こう言っちゃ悪いがまさに平凡な顔をした生徒。
そしてその隣を歩くのが……
「……と、くたいせい……、」
無意識に零れた声は自分のものとは信じられないほどひどく掠れていた。
不意に脳裏に過ぎったのはあの男子生徒の言葉。
人を惹き付ける圧倒的な存在感。一目見ればなんとなくわかるんじゃないか……
まさにその通りだった。
すっとした切れ長の目は瞳孔の色が薄く澄んでいて、長めの睫が下を向くように微かに臥せる度に涼しげな印象を与えられる。
儚げな艶がありながら、整った眉とよく通った鼻筋は冷ややかでクールという雰囲気にも取れた。180センチには満たないものの確実に平均は優に越しているであろう背丈、華奢に見えながらそうは思わせない何か風采があって。
……知らぬ間に息を呑むほど、俺はそいつに見惚れてしまっていた。
そして何よりも驚いたのは息をするのも忘れたった一人の人物だけに全思考を奪われた自分にだった。
幼少の頃から俺の周りには美しいや綺麗な分類へと振り分けられたものばかりが所狭しと埋め尽くしていた。
だがどんなに綺麗なものが目の前を煌めかせようが美しいものが最高級の光りを放とうが、俺は一度すらそれらのものを美しいとは思えなかった。美的センスが人とズレているわけではないし嫉妬故のひねくれた思考なわけでもなく、ただ単純に何の感想も抱かなかった。幻想的な輝きを見せられようがああそうなんですかという思いしか湧けなかった。
それは冷たい無機質だろうが温もりのある人間が対象だろうが揺るぐことのない俺の中での定義。
だった。…はずだった。
驚愕したのは自分自身に。生まれてこの方刹那すら綺麗という感情が見出せなかった俺が。
今、確かにたった今初めて目にしたそいつを…
(瞬きすんのも惜しいと思うほど…見惚れていた?)
気づいた瞬間つーと背中に冷汗が流れた。
今にでも蹲りたい衝動に駆り立てられ頭が鈍痛を訴えてくる。
(…いや、違う、落ち着け…っ、)
これは一種の錯覚かもしれない。度重なった睡眠不足と疲労が引き金となった気の迷いという可能性もある。
確かに特待生(と思われる)は一流に整った容姿をしていて、醸し出す雰囲気は到底凡人には出せないような魅了される何かがある。
だがそれだけで、そんな身なりだけの理由で俺が身を焦がすなんてんなのあるわけ…ーー
「げ、」
ない、自分に言い聞かせるような否定の言葉を遮り、俺を我に返らせたのは。
「会長出現…」
思わず本音が滑った、とでもいうように目に見えて嫌そうに顔を歪めた平凡生徒の声と表情だった。
こいつ、特待生の隣にいた…。
いつの間にか目の前まで距離を詰めていた目当ての人物。緊張を誤魔化すために固唾を飲んだ。
俺が道を塞いでいるからだろう。俺の役職を知りながら露骨に眉根を寄せる平凡顔の生徒と…
(っ、)
目線を僅かに下にずらせば目に入る特待生の顔。近くで見れば見るほどその恐ろしいくらい整った顔が美形という範疇に留まらないのがわかった。
……ってかなんだこいつ。さっきから何度も俺と平凡顔生徒の顔を行ったり来たり見てるけど。
「……おまえが特待生だな?」
震える声を誤魔化すように一層視線に鋭さを利かせる。
突然の質問に平凡生徒がちらっと隣に視線を遣った。
(……読みは当たりか)
推測も憶測も恐らくはビンゴだろう。だがまだ確証はない。こいつがあの場にいてあの言葉を放ったやつと同一人物という確証が。
「……はあ。おまえも罪な男だね。編入そうそう目をつけられるとは」
やれやれとため息を吐く平凡顔生徒とそんなことは露知らず相変わらずなにやら思案中の無表情マイペース生徒。
そのアンバランスさに思わず脱力しかけた時。
「……どっちも萌えるけど、ここはあえての平凡攻めで」
「聞けよ。っつか何度も言ってるけどお前の趣味に俺を巻き込むな」
「巻き込まれ平凡も好きだよ」
「……はあ。もういいや。せめてお前は会長の質問に答えてやれ…」
疲れ切ったように項垂れる平凡生徒の声にようやく特待生がこちらを見た。
「……なに」
だが先程までとは一転、俺に視線を向けた途端特待生の目から光が消える。纏う空気がさらに冷たくなった気がした。
あからさまな変化に臆する。さらに踏み込むべきかの躊躇や逡巡を固唾と共に呑み込んで、もう一度口を開いた。
「噂の特待生だな」
今度は確信を含ませて。
言い切ると同時に訪れた静寂がさらに俺の動悸を激しくさせた。
居心地悪過ぎて一瞬が永遠のように感じる。
うう…何でもいいから返事してくれ…!と初対面の無表情生徒に願った瞬間だった。
「ぴんぽん、大正解。はじめましてだねアンチ会長」
重なった。
歓迎会の際耳に飛び込んできた言葉が。何かを期待してバカみたいに思案した推測や憶測が。バラバラだったピースが吸い寄せられるように一つの枠へと音を立て隙間なく当てはまった。そして完成した一枚の絵は探していた何よりも欲していたもので。
特待生の何かに惹かれ、何かに期待し追い求めていたあやふやで霞んでいた影が。今、この瞬間、確かにその影は立体へと姿を変え俺の前に現れた。
先程までとは比べものにならないほど高鳴る鼓動。引いたはずの汗が再び浮かび身体を震わせた。
(っ、は……だっせー…)
何も言葉が出てこないなんて。
こんなこと初めてだ。自分から行動起こすくらい他人を気に掛け、挙げ句顔を見ただけで満足して言葉に詰まるなんて。
ああまじでこんな姿人様の前に晒すわけにはいかない。
「………ぁ、ああ、やっぱりか……」
ようやく喉元から振り絞れたかと思えばクソ当たり前な返事だった。やっぱりかって何。バカなのか俺は、バカなんだな俺…っ!
これでも在籍してからの日々学年主席という地位を支持し続けているのだが……なんてどうでもいい自慢みてえな話しは今はどうでもよくてっ、!
そうじゃなくて、こんな話しをしたいんじゃなくて…
やっと探していた人物とこうやって顔を合わせてんのに。
先ほどから無視できないほど大きく高鳴っている鼓動は期待からきているとわかっているのに。
(なに…なにから話せば…)
再び場に走る居心地の悪い静寂にさらに焦燥感が煽られる。俺から進んで物事を働かせたというの堪えられなくてぎゅっと目を瞑る。
真っ暗な視界の中聞こえてくるのはやけに煩い俺の鼓動の音だけで。
不意にその空気を破ったのは…――
「まさかばれるとは。面倒くさいことにならないように目立たないようにしてたのにな」
あーあ。と、心底残念そうな特待生のその口振りに思わず瞼を持ち上げた。
そして驚いた。
残念半分、もう半分は面倒くさいとでもいうような声色だったにも関わらず特待生の表情は会った時から何も…微動だに変わらない無表情だった。
与える印象は相変わらず美人、綺麗といった類だが…
「あんだけ目立ちゃ嫌でも耳に入んだろ」
「目立つようなことは何もしてないよ」
「……嫌味かこんにゃろー。つくづくお前は興味ないことには無関心だな…」
「まぁ、でも」
「あれ。微妙に話が噛み合わねぇ」
慣れ親しんだような平凡生徒との会話は不意に切られ、スッと切り替わるように特待生の視線がこちらを捉えた。
唯一こちらを射止めてくる色素の薄い双眸。
目は口ほどに物を言う。まさにその通りだと納得せざるを得ない何にもぶれることなく真っ直ぐすぎるそれ。
例えば自分の晒したくないことや目を反らし続けてもらいたい部分、そういったもん全部ひっくるめて何もかもを見透かされてしまいそうなその目になぜか恐怖を覚え、目を反らした。
「逆にさ、興味のあることには関心しかないってことだよね?」
おもむろに視線を前へと戻す――も、やはりというか特待生の表情には相変わらず感情が籠もっていない美しい顔立ちをした人形のようで。
只涼しげという印象でしか取れなかった。
何が言いたい…
その言葉に潜んでいる真意を探ろうとするより先に、特待生が軽やかな動作で踵を上げた。
ばかおまえ…!ちったぁ相手を考えろ!呆れと咎めの半ばのような声色で制止を掛ける平凡生徒の声を無視して、かなり高くなるであろう俺との目線を背伸びをすることで合わせた特待生は―――僅かに口角を上げてみせた。
余所見をしていれば見過ごしてしまいそうな小さな変化だったが
(………わ、らった…?)
それが初めて特待生が俺の前で感情を表に出した瞬間だった。
「本当に…」
特待生のそんな些細な表情の変化に驚いてじっと凝視する。それと同時に何故か胸ん奥が熱を熟んだように甘く疼いた。
「本当に見た目は総攻め会長なのになぁ」
「………は?」
先程と比べてぐっと距離も目線も縮まった中で、それこそ変わらずに純真に澄んでいる目が真っ直ぐにこちらを映した。
隣であちゃーとでも言うように頭を抱え込んでいる平凡生徒が尻目に見えた。
「人は見かけによらずか。……割り切ったつもりでも人間手に入らないものほど欲しくなっちゃうね」
「っさっきからなんの話しをしてる…おまえは一体なんなんだ!?」
俺が話したいのは、
期待していたのは、
こんなんじゃねえ…!
血相まで変えて必死になってんのはこっちだけで…、
確かに話したいと思っているのも変な期待で言動を選んだのも俺の勝手な私情なわけだから責める権利なんて生憎一ミリすら持ち合わせていないが、こうなった原因は少なからずお前にだってあるはずなのに…。
解析不能なその言葉に掻き回されるのはなんて言うか…そう、癪に障るわけで…っ
まるでガキみてえに八つ当たりがましくもキッと特待生を睨みつける。
が、
「なんで会長はさ。転校生には惚れない役員からは嫌われてる、一般生徒を蔑ろにしない。ここまでアンチ展開にふけてんの?」
――違う。俺が喉から手が出るほど求め焦がれていたものは。
俺の理想像はあんたじゃない。
「なんなんだ?……はぁ?笑わせないでよ。むしろそれは俺の台詞でしょ。あんたはさ、ただ大人しく台本通りに動いてくれればよかったんだ」
ひやり、心臓を直で撫で回されたような不快感と嫌悪感が湧き上がる。次いで襲ったのは脳天を突き抜けるような喫驚と背中に走る震え。
傾斜の急な坂を転がる一つの林檎のように、まるで休息を知らないかのような勢いで繰り広げられる展開に完全に思考の処理が間に合わないでいた。
なに、なに、なにを
目の前にいる天才的芸術家が造りだした一級品のような顔をしながら冷めた印象しか与えなかった特待生は、無表情の面を剥がして愉しそうに口元に弧を描いていた。
失望をそのまんま声色へと反映したような口振りだった。覆う空気は相変わらず冷たい。
そんな中で先程の無表情面とは打って変わったこの場を心底楽しんでいるとでもいうような特待生のその表情だけがこの場とはひどく不似合いで。それが余計に見てみぬふりしていた恐怖心を煽られる。
「本当に残念だよ」
――溜め息。
混乱と動揺でうまく言葉を紡ぐことが出来ず情けなくもただ震えているだけだった俺をまるで嘲笑うように小さく一瞥し、すぐに視線を反らした。
そして目の前に広がっていた秀麗な顔が不意に離れていく。
(っ、な、んだよ……それ、っ)
それはまるでひどく興醒めしたような。もうお前なんかに興味はない、失望した、つまらない。そう物語るような…そんな表情で…っ
「………け、…な…」
ナナ行くよー。平凡生徒に声をかけ踵を返す特待生の背中を視界に捉えながら――俺の中で何かが弾けた。
「っ、ざ、けんな…ふざけんじゃねえ……っ!!」
廊下に反響するような我を忘れた怒鳴り声に特待生の足がふと止まった。
「…なに?」
ゆっくり振り返った特待生の表情は一切感情の込められていない無表情だった。
(なんで……っなんで、ちっともわかんねえよ、っ!!)
無表情なのはもう俺なんかには興味がねえから?お前の中で俺という存在が価値を失ったから?
失望したから、一抹の興味すら失ったから……だから俺に対しての感情なんて微塵も込み上げてこねえの?無表情しか向けてくれねえの?
「……っ、ふざけんな…」
上手くいかなかった。いつからか気づいたときは誰一人として例外なく自分に背を向け離れていった後だった。
大切だった。何よりも大切にしたい場所だった。遅かった。――そんな当たり前のことに気づいたのはその大切な存在が、場所が、背を向け離れてしまった後だった。
なんで身近で感じられている時に気づけなかったのかいくら自分を責めたって遅すぎた。悔やんだって、戻りたいと願ったって
「……おまえになにがわかる…?」
当たり前だと疑う余地もないほど当たり前に笑い声で溢れていたあんな日常が今更戻ってくるなんてありえないってことくらいわかってる。
それでも無駄なこと承知して夢見ちまうんだ。
どうやったって修復なんて不可能だろうそんな日常にもう一度戻れる可能性があんのなら…なんて。
ぎり、と奥歯を噛み締めた。
「うざい」
無表情のまま吐き出された言葉が言い切ると同時に、蓋が壊された感情の赴くままに近くの壁に特待生を押さえつけた。
自分より背丈も体格もいいやつに身柄を拘束されれば大抵の奴は僅かでも恐怖を抱いてうろたえるだろうに。今、壁へと拘束している目の前のこいつはどうだろうか。
「痛いんだけど。離せよ」
恐怖を抱くわけでもなくましてや狼狽えるわけでもなく。ただつまらなさそうに。これ以上の俺との関わりが心底煩わしいとでもいうような顔で両肩の隣に突いた俺の手を眺め、すぐに興味を失ったように視線を外した。
「っ、聞かせろ。おまえは一体なにを知っていてどこまで感づいている?」
高等部から編入してきたにも関わらず入学式の際初めて目にし認識したであろう俺たち生徒会の険悪な雰囲気にも、転校生の存在にもこいつは気がついていた。
だがなぜそういった極秘扱いの生徒会内部にまで気づけた?
いくら全国模試主席様の頭が冴えていようが、人より何倍も他人の心情に敏感でいようが。軽く千単位を超えているこの学園の生徒はこいつ以外誰一人として俺たちの違和感に気づけた奴はいなかった。
それなのにこいつは気づいた。
「まだわからないんだ」
淀みない動作で両隣に突いていた手首をギュッと掴まれる。
「興味が湧かないんだよ。その質問も、あんた自身にも」
「っ…はな、せ…」
一見華奢なその身体のどこにこれだけの力が隠されていたというのか。
言葉を紡いでる最中でも手首に加わる力は強まる一方で。ぎりぎりと圧迫される手首の痛みに耐えかねて、思わず顔を歪める。
「金輪際関わる気ないから餞別代わりに教えてあげるよ」
「はあ…?いきなりなんだ……」
完全に逆転した優位が無性に焦燥感を駆り立てられる。
締め付けられる痛みでうまく思考が働かない。
せめてものプライドで悪態を付く。
目の前のこいつから受ける真っ直ぐな視線と痛みで頭がどうにかなっちまいそうだった。
「これからますます面白い……いや、会長にとっては絶望的な展開にこの学園は陥るよ」
ひどく、ひどく愉しそうに。スッと目を細め口元に笑みを描くその瞬間、美人といった印象はがらりと変わって表すのなら妖艶の二文字。
僅かでも気を抜けば魅力されそうなその表情に痛みすらいつの間にか忘れていた。
「ぜ、つぼうてき…?」
大切だった人達と居場所を脇から…しかもあんなうざいこの上ねえ宇宙外生物に掻っ攫われちまった現状で、待ち受けてんのはこれ以上の絶望的な展開だと?それも学園を巻き込んでの?
(意味わかんねー…)
一体こいつの楽しい、面白いはなんなのか。そもそも興味内のもんだと関心が湧くといっていたが笑みを深めているこの現状こそがまさかこいつにとっては愉快に思える興味内の事柄なのか。
いくら思案を巡らせようが一向に読める気配がねえ…
っつかなんかもう、どうだってよくなってきた
「……ご忠告どーも。ってかいい加減手ぇ離してくんない?」
忘れてたけどずっと痛いの我慢してたんだよな。そろそろ血液の巡り悪くなってきやがったし。
恐怖も焦燥も怒りも何もかもが諦めへと変わって、意志とは関係なしに苦笑が零れた。
そんな俺の心情を察したのか、そうではないのか。まあ後者だろうけど。特待生は手を離そうとして、そして何故か何かを考慮し始めた。
「ナナ。悪いね、ひとつ頼まれてよ」
ようやく結論が出たのか考慮にピリオドを打った特待生は、後ろで手持ち無沙汰そうに壁に寄りかかりながらスマホを弄っていた平凡生徒に声をかけた。
「……むしろこっちが頼むわ。面倒事に俺を巻き込まないでくれ」
「わお。今の脇役平凡総受け主人公みたいでよかった。誰かさんと違って君は本当に逸材だね」
「貸しイチな。んで後で頼むから一発蹴り入れさせてくれ」
苦々しい顔付きの平凡生徒に特待生は何かを囁いていた。
…っつか近くね?耳元でとかどんだけ普段から距離近いんだよこいつら…。
漸く間近だった距離が離れ、どことなく満足気な表情を浮かべる特待生。「いやな奴」やはり苦い顔で眉根を寄せるも、その次には吹っ切れたような平凡生徒の溜め息。
それが合図となった。
「っ、!な、」
ぐっと腕を引き寄せられ、目の前いっぱいに均等にパーツのとれた端麗な顔が広がる。
冷たい色が宿るもののその瞳はいつだって射抜くように真っ直ぐで。
今こいつの見ている景色には俺しかいない。こいつのこの瞳を、視界を、他でもない俺が独占しているのかと思えば滲み出る優越感でゾクゾクと背筋が震えた。
「……ひとつ訂正」
「っ、……く、」
耳元で囁かれ、想像以上の近さに驚いた。
言葉を紡ぐ度に耳に掠る吐息がひどく熱い。
「興味が湧いてきた。あんたの心と、その表情に」
そう妖艶に笑ってみせた。熱を含んだ眼差しと長い睫を臥せるその動作は、そう…まるで……
(まじのキスする五秒前…)
我ながらなんと救いようのない発想だろうか。そう心中で自分を叱責しようとした瞬間、
自分の唇に触れる柔らかく、熱いそれ。
キス、されている……?そう理解するのに時間はかからなかった。
理解はできても理由が読めないその突飛な行動に心臓が大きく打つ。
暫く互いのそれが重なっているだけの状況だったが、不意に特待生がどこかへ目配りをした。
釣られるようにその視線を辿ればーー
少し距離をとった場所でスマートフォンを手に構える平凡生徒の姿。
何故あいつはスマホをスタンバイしてるんだなんて突っ込みよりも。
俺が独占していたはずの視界を不意に他の奴らに奪われもやっとしたものが胸に広がった。
(なんだ、これ……なんなんだこのきもちは……っ!!)
ムカつく、ムカつく。理由はわからないが特待生の瞳が平凡生徒を映した瞬間…
「俺を見ろ!!」
どうしようもなく悔しかった。
特待生の睫が僅かに持ち上がる。
だがそんなの構ってる余裕も今はなくて。空いている側の腕を特待生の首に回した。
より縮まった距離。
再び奪った目の前の奴の関心。
…本来ならばこの条件が揃っただけで満足なはずだが。その時俺の心を支配した気持ちは
(……まだ足りねえ……っ、)
だった。
募る苛々が跡形もなく散ろうとした瞬間、シミのように広がるモヤモヤが消えようとした瞬間。
脳裏に過ぎるのはなんでもないようにまるでいつものことのようにあの冷たい印象しか表さない特待生が平凡生徒に頼る光景。
特待生がこの学園へ編入してくる以前からの付き合いなのかそれは知らないが。端から目にしていて納得するくらい2人の間に流れる空気は他のものとは一線違っていて。
当然だがつい十数分ほど前に初めて言葉を交わしただけの俺とは比べものにならない。
なんて。んなの当たり前だし、それ以上を望むほど強欲でもないはずなのに
「………っ」
こんなんじゃ全然納まんねえ。
ぐっと顔を引き寄せる。これ以上ないくらい皆無な距離にどしん、と胸に熱いものがこみ上げる。
(……つか、…は?)
こいつの性格からして主導権を奪うのは困難を極めるものだろうと覚悟はしていた。試しに上唇を舐めたり、悪戯に甘噛みしてもやはりというか一向に隙は見せなかった。だがその予想は的を外して杞憂となった。
半ば諦めかけていた刹那、何故か合わさっていたそれに不意に隙間ができた。
予想外の反応に正直狼狽える。も、それを見逃す術もなく。意外にも思えたがあれだけ長いこと合わしていたんだ。酸欠したってなんらおかしくはないと内心で納得づけて。
恐る恐るその僅かな隙間から舌を差し込んでいく。
「………ん、」
声を漏らしちまったのは不本意ながら俺で。
悔しいことに思考回路不明な特待生の表情は相変わらず涼しげ空気を靡かせていやがる。
(ッち、その余裕ぶった面。むっしょーに腹立つ!)
その憂さ晴らしに。言葉通り逃げも隠れもしない特待生の舌を俺のそれで絡みとる。
深く、長く、特待生の余裕が音を立てて崩れるように。出来るだけ目の前の奴に快感を与えられるよう仁義を尽くす。
「………っんぁ…、」
「ん……」
も、特待生には効かず。浮かべている表情は相変わらず冷めている。
……っつか初っ端からその熱にやられてんのは仕掛けた俺の方とか…
男として終わってんだろ…。抱かれたいランキング首位がキスごときでやられるとは全校生徒が聞いて呆れる。
だが追い討ちをかけるように尚強まる熱と痛いくらい打つ鼓動。満足に息も吸えない苦しさで酸欠でじわぁ…と視界に膜が張ってきた頃
「………ンンあ、っ!」
後頭部に手を回され、特待生の舌が俺の口内を撫でりあげるよう蹂躙してきた。
今まで抵抗一つ取らず、かといって嬌声をあげるわけもなく受け身に回っていた特待生が初めて動きを見せた。
(ッ、なれてる…?)
幼稚にも互いの舌を絡み合わせるだけではなく。
「ン……ふァ、…っ」
上顎をチュ…とわざと音を立てて吸い上げたり、俺が飲みきれなかった口内の唾液を含ませることでより深まるキス。
こっちの快感を煽るであろうツボ全てを抑えながら諮ったように徐々に激しさを帯びていくそれは、
特待生が行為に慣れている紛れもない証拠だった。
「はい、チーズ」
吐き出す吐息ごと特待生に奪われるような錯覚に捕らわれていたとき、聞き覚えのある電子音と平凡生徒の声が互いの口からひっきりなしに漏れていた水音を遮った。洗練されていたテクで攻め立てられる深すぎるキスに、不覚ながら酔いしれていた脳内ではうまく考慮できなくて。ふわふわとする意識の中、離れていく特待生の顔。互いの舌を名残惜しそうにツー…と銀色の糸が繋ぐ。それが無性に気恥ずかしくなってごしごしと袖で唇を擦った。
「ナイスショット、ナナ」
肩で息をする俺とは対象的に息切れ一つ見当たらない特待生が、楽しそうに俺に何かを手渡す。不信過ぎて眉を寄せる。怪訝に思えたが有無を言わせない特待生の雰囲気に呑まれつい覗きこんでしまった。
のが、間違いだった。
「ーーーっ!!?」
渡されたのはスマートフォン。先程目に入った平凡生徒が構えていたものだった。
画面に映し出されていたのは一枚の写真。
「よく撮れてるでしょ?」
納められているのは俺と特待生がキスしている最中のところ。
それも巧いことに構図には俺の姿と、俺と誰かがキスしていることがわかる箇所しか入っていなく。特待生の顔とタイの色は写らないよう外して写真を撮られていた。
スマートフォンを持つ手が震える。急激に熱が引いて背筋に冷たいものが走った。
「ど…して、」
ただ呆然と画面の向こうを見て絞り出した声は指先と同じくらい震えていた。
「どうして?……そうだね。いわばこの写真は、フラグ折り兼人質、ってところかな」
人じゃないけど。
聞き慣れない言葉も中にはあったが、それよりも。
普段平穏に過ごしてさえいれば俺自身が対象になる機会なんてそうそうお目にかからないようなその言葉にひどく動揺する。
「おまえ…なにを考えてる?」
最初から、最後まで。
こいつの見ている、見ようとしている景色には一体何が映っている?どれほどの存在がお前の感情を突き動かして止まない?
「この状況でその冷静さ。さすが会長」
「褒められてる気がしないな。それともこの質問も興味がないとかでだんまりか?」
キスを仕掛けたのは向こうだった。
舌を入れる際予想外なことに隙があいたのも、それに関わらず逆に優位をとり慣れたようなキスで俺を熱に浮かしたのも。
全てはこいつの作戦だったのだ。そして愚かにもその罠にまんまと引っ掛かったのは、俺。
易々とキスには引っ掛かったものの、俺だって人質の意味がわからないくらいバカではない。
神宮聖の最重要ポストに就く生徒会長が校内でどこの誰かもわからない奴と不純行為(といってもキスだけだが)を行うなんて。
打撃、好奇、そして失望。
それが納められた写真を目にした一般生徒の抱く感情だろう。
特待生の言う通りこの写真は人質だった。俺を、俺の地位と人望を揺らすには容易すぎるほどの…
俺を慄然の淵に追いやるくらいそれを乱用すればなんてことはないくらいには。
「……俺はね、主要人物になりたくないんだ」
トサ…静かに床に押し倒される。掴まれた腕が熱くて、まるで全身が心臓になったかのように苦しくて息も吸えない。
(押し倒される気分ってこんななのか…抱かれたいランキング一位に相応しく親援隊はネコしかいないからな)
まさかこんな厳ついヤローが押し倒されるなんて一体誰が想像すらできただろうか。それも自分よりよっぽど華奢で、見た目だけなら誰もが息を呑むくらい綺麗な顔をした年下に。
腕力も遥かに劣っていたし、き、キスでも俺だけが声を漏らしてたし…
情けねー…。
背中に広がる無機質な冷たさに身震いする。
(あ。そういえばスマホどこやったっけ…)
体は押えつけられて身動ぎ一つ満足にできないから、視線だけ彷徨わせる。
捜索は不可能で幕を閉じた。何故って、他の景色を遮るように視界一面に特待生の秀麗な顔が映ったから。
「曝されたくないなら二度と俺に近づくな」
離れていく間際見た特待生の顔は。
「次の授業なんだっけ」
「…喜ばしいことにお前の嫌いな古典だよ、ばーか」
遠ざかる足音と話し声。
全身が心臓にでもなったようにどくどくと脈立っていて。苦しくて息も吸えねえ。
ーー恐れていること、それはもしあいつらが
特待生のことを気に入ったら。
「っ、んだよ、それ…」
ふと目にしたその横顔はひどく寂しそうだった。
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