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甘夏剤
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「終わりまであなたと」
🟦🏺ゾンビパニックもの
※第一話の注意書きを見た上で閲覧してください。
2:なにをしてでも
ピルボックス病院には似つかわしくない銃声が響く。それからしばらくしてヘリが飛び立っていった。
青井は息を吐いてロビーに戻る。収納する余裕もない物資の箱やメディキットが壁沿いに乱雑に並んでいて、電気はすべてついているのにどこか薄暗く感じた。
病院は安全区域にあるが万が一のために正面には物々しいバリケードが築かれている。その後ろにはアサルトライフルを携えた警官が何名も待機している。
ここピルボックス病院が対ゾンビの最後の砦だった。ここが陥落してしまえば市民が巻き返す希望も失われてしまう。警察署や各地を守る警官以外の多くが病院の守備にあたっていた。
「お疲れ様です~、今日もありがとうございます」
「ももみ先生こそお疲れ様ですー」
青井がぺこぺこ頭を下げるとそれ以上にももみがパタパタ頭を下げてくる。頭の下げ合いのようになって青井が先に苦笑しながら身体を起こした。
院内は白衣よりもSWAT制服の完全防備な警察官の方が多い。ゾンビ騒動がここまで劣勢になっているのには理由がある。事態の全貌がよくわかっていなかった初期に、信念に則って救助にあたった救急隊が次々に感染、およそ半数がゾンビ化してしまったのだ。
救急の要が傾けば街全体の命が傾くのは必然だった。ゾンビになったものにはリスポーンはもちろん蘇生処置すら通らない。ゾンビに対する対応が確立されたころには多大な被害が出ていた。市長も対応に奔走しているようだが結果は芳しくない。
「今日わりと静かっすね」
青井はいつものくせで鬼の面を脱いでタバコを咥えた。この状況でも禁煙ですよと咎めてくる人は誰もいない。
「うん、……今日は何もないといいなぁ」
ももみの幼気な声は少し震えていた。ともに死に立ち向かうとはいえ命の現場を見続けてきたのは警察官よりも救急隊だろう。寄り添えるような気の利いた台詞が思いつかなくて青井は苦い煙と一緒に言葉を飲み込んだ。
紫煙をくゆらせていると成瀬と神崎がロビーに入ってきた。タバコを持った右手を上げて挨拶すると疲れた顔の二人が近づいてくる。
「お疲れー」
「らだおさんお疲れ様っす」
「そっちはどうだった?」
「えーそうやっていきなり結果から聞くのダルいっすね」
「なんだよ、じゃあどこから聞いてほしいの」
「こっちに委ねてきて理解のある彼氏面するのもあんま、そういうとこっすよ」
「わかったわかったよ、大変だったんでしょ?」
成瀬がダルめの絡みをしてくるときは疲れているか、一大事があったか、その両方だ。理解のある彼は駄目と言われたので、青井は後方腕組みをして事件対応について成瀬が長々、つらつら語るのを聞いた。
「……で、神崎はどこから関わってくんの?」
「お前マジでその結論急ぐのヤバいっすよ、まだイントロだぜ?」
「らだおさん今のはモテないぞ」
ある程度聞いたところで空気を読まず口を挟んだ青井のことを、成瀬と神崎がバケモンでも見るかのような顔で見てくる。顔色の優れなかったももみはケラケラ笑っている。青井は首を傾げて渋々話の続きに耳を傾けた。
成瀬の話は若干の誇張と結構な脚色と、絡まったイヤホンのコードくらいの回りくどさがあった。こうなったら青井はただうなずくだけのマシーンと化して最後まで聞いた。
「……つまり成瀬が足を滑らせて気絶したのを、死んだと勘違いした神崎が焦ってヘリから落ちたってことね」
「なんだよ、人がせっかく面白おかしく話してやったのに!お前、プリンとか上のカラメルしか食わないタイプだろ。皿まで舐めろよ」
青井の丁寧な総括を聞いて無表情なはずのペンギンマスクに苛立ちの色が見えた。ああ、元気づけるためにわざと長々喋ったんだな、多分仲間を失っていつも暗い顔のももみのために、と青井は思った。
「てなわけで、外はそんな感じなんだぜおじいちゃん」
「はいはい、どうせ俺はずっと病院詰めですよ」
「らだおさんも外行ったらいいじゃないっすか、救急隊としてもヘリの支援助かるんだけどな」
「他に、……俺の仕事やりたい人いないだろうし、手が空いたらね」
その瞬間、青井は空気が変わるのを感じた。成瀬と神崎の顔を見上げるのが億劫だった。代わりに鬼のヘルメットを被り直した。ああ、自分もそれなりに気遣われていたんだな、と青井は気づいた。
この騒動が始まってからというものの、湿っぽさがデフォルトで一瞬明るくなってもすぐに空気は重くなる。空気を読まないという空気を読むのが得意なあの男がいれば、こんな状況でもいくらかマシだったろう。
「こんなときつぼ浦でもいたら……」
「治先輩!!」
ももみの鋭い声でむしろ神崎がなにを言ったのかを青井は理解した。鬼の面越しに視線がどこにも定まらない。どこを見ても良くない気がして、仕方がないのでうつむいた。
「……悪ィ、余計なこと言ったな」
「ううん、別にいいよ」
そう言う神崎も患者に噛まれゾンビ化した天羽を看取っている。胸についた傷の深さは人それぞれだが痛みを負っていない者はいない。
しかし青井はその痛みを共有できる立場になかった。家に帰ればつぼ浦が待っているのだ。他の人たちが喪失に喘ぐ中、人の領域に押し留めたゾンビを匿っていることがバレればどうなるかは考えるまでもない。
しかし気まずさからうつむいたせいで、むしろ周囲の同情の目線は青井に集まった。居心地の悪さでめまいがするが打ち明けられるわけがない。青井は話題を変えようと顔を上げた。
「そういえばなんだけど、ワクチンって今どんな感じ?」
「あんまり進展がないな。ここに運ばれてきた人に毎回試してはいるけど、もう今は一人に一回しか打ってないから実験が進んでねぇんだよ」
「運良く抗体が見つかればいいんですけどねー、そしたら一気に進むんだけど」
神崎とももみは同時にため息をついた。手段がわかっていることと、それを実際にやれるかどうかは別問題だ。
ロビーの時計が正午のベルを鳴らした。その音に紛れて神崎がぽつりと言った。
「やっぱりもっと長く実験を……」
「治先輩、そんなの……無理だよ、ももみ、もうあんなの……!!」
ももみのつぶらな瞳にあっという間に涙が溢れ、床にポタポタ流れ落ちる。悲鳴に近い嗚咽がロビーに響き、昼休憩で戻ってきた署員のぎょっとした視線が集まる。
ワクチンを作るためには幾度もの実験が不可欠だ。しかし知人の顔をしているのに人を肉としか思わずうめき声をあげるゾンビを、どれだけ苦しんでも拘束して完成するまで試作品の投与を続けること───それをし続けられるほど、冷血になれる隊員はいなかった。
神崎に背中を撫でられ宿直室に消えていくももみにかけられる言葉がなく、二人はただ見送ることしかできなかった。
*
病院の外ではなく奥の病室から銃声が響く。
シリンダーから落ちた空薬莢が床にカラカラ音を立てて散らばった。左手で受け止めようとしていたのに手がもたついた。青井はため息をついてしゃがみ込む。白い床の上をコロコロ転がっていく金色の空薬莢を追いかけて一つずつ丁寧に拾い、左手に集めていく。
「……うわ、変なとこ入っちゃった。誰かに任せるかぁ」
転がっていった一つが青井にはなにに使うのかもわからない医療機材の下に吸い込まれていってしまった。取り出す努力はしてみたが、下手に触るのも怖くて早々に諦めた。
4発撃ったはずなのに薬莢はもう1つ足りなかった。小さな金色の行き先を探し回るうちに、部屋の奥でなにかがガタガタと動きはじめた。
「マジか、失敗しちゃったな」
青井は普段は使わないような大型のリボルバーを片手に音の方向に近づく。
通り過ぎるベッドの上には頭蓋骨に穴が空き脳を吹き飛ばされた物言わぬ死体が乗っていた。どれも台に拘束されていて、下半身はすでに死体袋に入っている───駄目だったときに片付けやすいように。
横目でちらりと見た死体たちは覚えのあるギャング服だったような気もするし、見たことのある仮装だったかもしれない。顔と名前を一致させないように青井はすぐに目をそらした。
動き出した奥の一人、その顔は昨日死亡者リスト入りした警察官だったような気もしたが、青井の記憶の中の彼女は半分しか残っていない顔で血に飢えた表情などしていない。
「ごめんね、これは当てるから」
ポケットから取り出した弾丸をシリンダーに装填し、両手で構えてゆっくり狙いを定める。
ゾンビは四肢や胴体を撃たれても動くが頭を、正確には脳を破壊すれば活動を停止する。最初は通常装備の拳銃で撃っていたがむやみに苦しめるだけなのでどんどん強い銃になり、今ではついにマグナム弾になった。
身内ならなおさら一発で「終わらせる」べきだった。知っている顔が苦悶にうめき、そして青井を食おうと歯をむき出しにしている。
重い引き金を引く。腹に響く銃声とともに、今度こそ彼女の頭が吹き飛んだ。溶けて灰色に変色した脳と、黒ずんだ血がわずかに飛び散る。特徴的な色の髪が顔に滑り落ち、表情は見えなかった。
排莢した薬莢を今度はちゃんと左手で受け止めて、青井は病室のドアを開けた。
『夜の分の処分終わりました、回収お願いします』
無線に告げてロビーに戻る。青井と入れ替わりに寝てない顔の救急隊員と警官が部屋に入っていった。
ロビーには珍しく誰もいなかった。受付にもたれかかり、青井は鬼のヘルメットを脱いでポケットからタバコを取り出した。
これが今の青井の仕事だった。
ゾンビに噛まれた患者は各地からピルボックス病院に運ばれてくる。到着してすぐに試作品のワクチンを投与され「念のため」という名目で台に拘束される。気づかれないうちに下半身を死体袋に入れるようになったのは助かる可能性のほうが低いこと、そしてそれが”効率的”であると気づいてから。
病室の向こうから響く「これで治るんですよね?!」という絶叫が耳に残る。早い患者はその日のうちに、遅くても翌日青井が出勤する頃には人間を認識できない人食いの化け物になっている。
それが誰なのか、どこで見た顔なのか───いくらもしないうちに青井は名前を思い出すことをやめていた。
薬の効果がないと判断された患者、被害者、いやゾンビは見苦しく苦しまないうちに処分される。それが人間性を失った本人の尊厳を守ることであり、最大の救いだと信じて。
青井はその仕事、処分係を自ら買って出ていた。すぐにとどめを刺してあげたいという理由から処分係はほとんど病院にいる。それこそが青井の狙いだった。
黒い死体袋を乗せたストレッチャーがロビーを抜け、外に待機していたヘリに積み込まれていく。
今日も駄目だった。4人の市民が夜を越せずロスサントスから消えた。
しかし家に帰れば、青井にはつぼ浦がいる。
「……やっべ、タバコないやん。ドリーに買ってきてもらうかぁ」
もう一本、毒を身体に取り込もうとしたのにパッケージの中はカラだった。知らないうちにつま先が床をタンタン叩いていた。
この仕事は感染者が運ばれてくるまでは暇だ。青井はそれとなく病室の様子を伺う。今日も救急隊員が何人もワクチンの開発室に詰めているのがのぞき窓から見えた。
ずっと自分だけが違う地平にいるような居心地の悪さが拭えない。この事件が起きてから誰もが共有している痛み、その中に青井はいない。
それでも、青井はつぼ浦を諦められないし手放すこともできない。できるはずがない。
急に外が慌ただしくなり、ストレッチャーに乗せられた市民が運ばれてきた。包帯が巻かれているが肩はじっとりと赤く染まっている。その顔にも見覚えがあるような気がしたが、記憶とあえて照合するのはやめて青井は玄関から外に出た。
こんな日でも空は美しい青空だった。
*
「はい。買ってきたよ、らだおくん」
「ありがとー、やっぱドリーだわ」
エントランスの植え込みに腰掛けて青井はドリーからタバコを受け取った。鬼の面を脱いでニコニコしながら外装のフィルムを剥がす。
「プリズン行ってたんでしょ?どうだった?あっちのほうは」
「うーん、砂漠のあたりはあまりゾンビがいないね。まあもともと心無きが少ないエリアではあるけど」
「それもそうか。あのへんで孤立してる人も救助できたの?」
「大半はね。パレト……というか北の街にも集まってる市民がいるし、そっちに合流した人達もいるからね」
青井が喋りたい様子なのに気づいてドリーも横に腰を下ろす。会話しながらも青井は銀紙の封を切ってパッケージの底をトントン叩く。せり上がってきた一本を箱から直接咥えて待ちきれないように火をつけた。
「プリズンは?……まだ空きはあるの?」
「ああ……うん、あるよ。今日も静かなもんだったよ」
「そりゃ音がしたら怖いよ。てか大惨事だし。あ、一本いる?買ってきてくれたお礼にさ」
タバコの箱を差し出され、ドリーは軽く会釈して一本引き抜いた。
二本の紫煙が空に上る。コンビニの安いタバコだが、ストレスゲージが常にMAXのような現状では毒だろうがなんだろうがニコチンとタールの煙を吸えるだけで極楽だった。
青井は数度だけ訪れたプリズンのことを思い出した。処分したゾンビはすべてプリズンに収容されている。個室に分かれているので職場やギャングごとにわけやすく、またなにかがあって動き出したとしても檻から出ることはできない。黒い死体袋が積み重なる冷たい無音の牢獄が目の奥に蘇り、ため息とともに煙を吐き出した。
「これさぁ、コンビニの店長ゾンビ化したらやばいよね」
真新しいタバコの箱をしげしげ眺めながら青井がつぶやく。
「そうしたら商品も補充されなくなるのかな、それは困るね」
「やば、確かに。コンビニにも警備つけたほうがいいんじゃない?」
「安全区域ではあるけど……そうだね、ちょっと考えてもいいかもな」
「やっぱドリーなんだよなぁ、タバコ無くなったら死んじゃう。あとサンドイッチ」
「らだおくんはもうちょっとなんか……いいもの食べなよ」
昔から青井は食に頓着していなかった。それがつぼ浦と付き合うようになってからQOLが改善され、ちゃんとしたものを食べるようになったのだった。
二人が付き合っているのは周知の事実だ。「つぼ浦くんがいたころは、」と言いそうになってドリーはぐっと言葉を飲み込んだ。
そのとき無線に声が入った。『一人、駄目だったのでお願いします』という沈んだ声。それに『はーい行きまーす』といつもの平坦な声で返し、青井は重い腰を上げた。
「えーっと、あのね……」
先程運ばれてきた患者がもう”駄目”になった。中枢神経に近いところを噛まれるとウイルスのまわりが早いらしい。そんなことを考えていた青井の耳に、ドリーのためらいがちな声が入ってきた。
「どしたの?」
「らだおくん、大丈夫?」
「ん、なにが?」
「ずっと処分係やってるでしょ。……大丈夫?」
「なにが?」
ドリーは言葉に詰まった。目が合っているはずなのに視線が合わない。疲れた色の目がどこを見ているのかがわからない。
惨状しかない日々で、誰もが現実に焦点を合わせることを避けていた。この頑張り屋で何でも背負いがちな同期ともとっくに目が合わなくなっていたことに、ドリーは今になって気づいた。
ドリーと別れ、青井はまた重たいリボルバーを握りしめていた。
目の前のベッドに拘束されているのはやはり先程運ばれてきた市民だった。
「……動かないでね、頼むから」
銃を向けられても食欲が恐怖すらねじ伏せるのか、歯をむき出しにして身をよじって暴れている。あまりよく見すぎると見覚えが確信になってしまう。黒い鬼の顔の向こうで青井は目を伏せて銃を構える。
それはおそらく釣り合いを取るためだったのだろう。誰もが喪失に嘆き苦しんでいるのに、青井は家に帰れば人間の領域に引き止め続けている半ゾンビのつぼ浦が出迎えてくれる。
恋人を失ったことを誰もが気遣ってくれるのに、本当は毎日一緒に眠っている。
この絶望的な街の中で青井の部屋だけが切り取られたかのように幸せだった。
その重さは計り知れない。
隠している罪と犯している過ちの帳尻を合わせるように、右手は照準を定め人差し指は容易く引き金を引くのだった。
*
あれから新しい患者が運ばれてくることはなく、夕方のピルボックス病院は珍しく静かだった。おかげで救急隊員も大半が外の空気を吸いに行ったり、宿直室で休んでいる。
病棟には誰もいない。ロビーで成瀬と話していた青井は、宿直室から出てきたももみに気づいて駆け寄る。
「あ、ももみ先生、さっきあっちの電気消してきちゃったんですけど消さないほうがよかったですか?」
「え、つけっぱでいいよー。ももみが……」
「なんだ、じゃあ俺がつけてきますよ」
ももみが歩みだすより早く、有無を言わさぬように青井は病棟へと足を進めた。
なぜ青井が誰もやりたがらない処分係を引き受けているのか、強烈な自罰感情だけでなくちゃんとした理由があった。
消えてもいない病室の電気をつけて回るふりをする。先程まで人がいっぱいいたワクチン開発室はやっと無人になった。足音を殺して室内に滑り込む。試験管立てには感染者に実験的に使うためのワクチンのカートリッジがたくさん並んでいる。それを一本、静かに抜き取る。
処分係はゾンビになった人間の尊厳を守るために基本的に病院から離れられない。おかげでワクチンを盗むチャンスを伺うことができた。
ラベルには日付とともに「試作」と手書きで書いてある。もしかしたらこれが、今度こそつぼ浦に劇的に効いていきなり治りはしないものか。そんなことを願いながらケースに収め、ポケットの奥にしまいこんだ。
気配を伺いながら廊下に戻り、角を曲がると成瀬がいた。蛍光灯の明かりがペンギンマスクに影を落としている。まさか、と青井は少しだけ身構えたが成瀬はいつもの軽いノリで話しかけてきた。
「らだおさん帰宅っすか」
「うん、今日は静かそうだし。このまま何もないといいんだけど」
「やめろその、フラグみたいなの」
「俺、この騒動が終わったら結婚するんだ……」
「重ねるマジか、やばいっすよ。これで夜中にゾンビの大群来たららだおのせいだからな」
「えー」
使い古された死亡フラグを立てる青井のことを成瀬が何度も指さす。たしかに少しふざけたが、青井は首を傾げてため息をつく。
「まぁ言うて今日は大丈夫でしょ、たまには静かに休ませてもらわないとみんなも大変だろうし」
「……なんかなに言ってもフラグに聞こえるぜ、ヤバいな」
「えぇ?!だって早くこんな騒動収まって、みんなで酒でも……」
「ヤバい?!普通に、言ってること」
「じゃあなに言えばいいんだよ、成瀬ぇ」
「もうなんも言うな、帰って寝ろお前は」
エントランスに向けて肩をグイグイ押されて仕方なく歩みを進ませる。鬼の面にペンギンマスク、どちらも素顔は見えない同士だ。背中を押されて歩きながら、青井は背後の成瀬に話しかける。
「ヤバいのは成瀬もだろ、ちゃんと寝ろよ」
「おじいちゃんに心配されちまった」
「はぁああ??」
「うわ、怒った。怒る元気はあるんだな」
「怒らせる元気もあるんだねェ」
軽口を叩くうちに駐車場にたどり着いた。夕暮れの残照が街を薄青に染めている。こんな状況でも空だけは変わらず美しい。院内の白すぎる明かりばかり見てきた青井にとっては淡い水色さえ鮮明に見えた。
青井が愛車のイグナスのドアに手をかけたとき、後ろから成瀬の声がした。
「結婚できるといいっすね。つぼ浦さんと」
「はいはい言われなくてもするよ、じゃあね」
歯の浮くような台詞だった。低音イケボで言われたら世の女子はひっくり返るのだろう。
振り向かずに手を数度、ヒラヒラ振って青井はアクセルを踏んだ。
ルームミラーには手を振るでもなく突っ立って車を見送る成瀬の姿が写っていた。しかしすぐに車は角を曲がり、その姿は建物の影に消えた。
*
真っ黒な空には青白い月が浮かんでいる。日もとっぷりと暮れたころ、青井はアパートの階段を上っていた。片手にビニール袋を下げたまま急いでドアを開ける。
「ただいまー……って、つぼ浦?!」
玄関前の廊下につぼ浦がぺたんと座っていた。青井は慌ててドアを閉め、嬉しそうに笑うつぼ浦に駆け寄った。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「お、あえり、あおせん」
「ここまで来ちゃったの?……もっと早く帰れたんだけど、本当にごめんね」
「んー」
「待ってて、ご飯にしようね」
一度つぼ浦を抱きしめて、それから台所にビニール袋を置いてまたつぼ浦のもとに駆け寄る。脇の下に手を入れて、前より明らかに軽くなった身体を抱き上げた。
つぼ浦は昨日からついに一人で上手く立ち上がれなくなった。睡眠は必要ないはずなのに、意識が朦朧とするのかウトウトすることも増えた。
不可逆的に人間性が失われていく。それでもつぼ浦はつぼ浦だ。諦める理由など青井には一つもなかった。
倒れていたリビングの椅子を起こし、つぼ浦を座らせる。半分だけ灰色の顔が青井を見て少し笑った。思わずキスをしたい衝動をぐっと抑え、代わりに頭を優しく撫でる。
青井が台所で食事の準備をしていると、リビングから大きな物音が聞こえた。慌てて飛び出すとつぼ浦が床で身体を縮めてうめいている。横には椅子が倒れて転がっていた。
「大丈夫?!滑った?なんで落ちちゃったの?」
「あし、ち、くしょう」
「そっか……そうだよね、ごめん」
青井はゆっくり身体を起こしてやり、ぶつけたであろう肘をさする。冷たい右腕は痛みを感じないかもしれないが労るように抱きしめる。
つぼ浦は明らかにしょぼくれた顔をしている。いつも野生の小学生さながら走り回っていたのに椅子に座っていることもできないのは苦しいだろう。
つぼ浦をこんな顔にさせた全てが憎い。うつむいて奥歯を強く噛み締めて、顔を起こしたときには青井はもう笑顔だった。
「そうだ、これからは床で食べよっか」
「で、も」
「いいから、ちょっと待っててね」
食事の準備を後回しにして、青井はなにかないかと家の中をバタバタ探し回った。
足が冷たくないように寝室からラグを持ってきて、忙しくて捨て忘れた段ボールを机代わりに、二人のささやかな晩餐が始まった。
「どう?」
「おいひい」
「でしょー?やっぱ切るのうまくなってきたな」
実際おいしそうな生肉を食べやすい大きさに切っただけなのだが、青井は頬がニヤつくのを押さえられない。鯉に餌をやるかのようにつぼ浦の口に肉をポイポイ押し込んでいく。
耐えきれずつぼ浦が口を閉じて咀嚼し始めたので、青井も買ってきたサンドイッチのパックを開けた。たくさんのチーズとハムと申し訳程度のレタスが挟まっている。日本のものよりはサイズが大きいが、普段なら2パックくらいは食べるのに1パックで満腹になってしまった。
つぼ浦は青井にもたれて口をモグモグさせている。その肩に手を回して青井は優しく撫で続けた。
壁にもたれて寄り添う二人の姿がカーテンのない窓に映っている。部屋の様子とつぼ浦の変貌がなければただの幸せなバカップルそのものだっただろう。
隣を見ると、その視線を感じて顔を上げたつぼ浦がにぱっと笑った。青井は思わず眉間を押さえる。あまりにも可愛い。半分ゾンビになりかかっていても、その笑顔は青井が愛するつぼ浦だった。
「あおせん」
服をつんつん引っ張られ、恋人の可愛さに悶絶していた青井は我に返った。
「なーに?」
「す、き、だから、な」
「へ……」
「おれ、いるから」
つぼ浦はまだ人間のままの左頬を赤く染めて、青井の肩に不自由な体を押し付けてくる。追い打ちにもほどがある。キスしたくなるのを一旦抑えて青井は両手を広げて思いっきりつぼ浦を抱きしめた。
「俺も大好きだよつぼ浦、大好きだよ、大好きだからね!」
「ム、ぐ、くる、し……!」
「絶対……絶対、ずっと一緒にいるからね」
つぼ浦が酸欠でうめいてるのにも気づかず万感の思いを込めて青井はつぼ浦を抱きしめ続けた。
乗せてはいけないものを天秤に乗せてしまったのだろう。罪悪感と、つぼ浦への愛情と。
愛情は日々どんどん重くなるばかりで軽くなることは決してない。しかし罪悪感も静かに膨らみ続ける。いつか愛が奪われたときに皿ごと落ちて身体を押しつぶすために。
この終わりゆく世界でつぼ浦を守ること以外、青井にはなにもなかった。
コメント
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🏺が好きだからなって言ったところで普通に涙出てきました😭😭 いろいろ伏線っぽいところが気になってます……続き楽しみにしてます!!

言葉にしづらいんですがrdの色々な感情がどんどん膨らんでるの好きです tbに激重感情を抱いてるrdはtbがゾンビになりきってしまったらどうなっちゃうんだろう...自害するのかtbに食べられるのか、その状態で監禁でもするのか,精神がおかしくなるか... 語彙力がないのでコメント理解しずらいかもですが毎回小説楽しみしてます 無理せずかける時にかいてください!!