コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
数日後、モンド城はいつも通りの喧騒に包まれていた。
騎士団本部では、ガイアが大量の書類と格闘していた。普段なら飄々とこなす仕事だが、今日ばかりは溜息が隠せない。
「はあ……終わりの見えない書類の山だ。誰か優秀な助手がいないものか」
彼は独り言を言いながら、書類の束を睨みつけた。騎士団の仕事は多岐にわたり、時には泥臭い事務作業も含まれる。
ガイアは自己犠牲精神が強いため、自分の仕事だけでなく、他の隊員の負担まで引き受けてしまうことが多かった。
……結果、自分の机には常に処理しきれない仕事が山積みになる。
「ディルックに相談でもしたら自業自得だ、とか何とか言われるんだろうな」
はぁ……と短い、呆れたような溜息を零す。
窓の外を眺めると、ディルックが「エンジェルズシェア」の方角へ向かっていくのが見えた。
その真面目な横顔を見て、ガイアは少しだけ心が軽くなる。
(ディルックは、ああして黙々と自分の責務を果たしてるんだ。俺も頑張らなきゃな)
その日の夕方、ガイアは仕事が一段落したところで「エンジェルズシェア」へ足を運んだ。カウンターの中央には、予想通りディルックが立っている。
「……また来たのか。」
…小さな舌打ちが聞こえた。
ディルックは表情を変えずにそう言ったが、グラスを拭く手元がわずかに速くなったのを、ガイアは見逃さなかった。
「ああ、ディルック。お前に会いたくてね。マスター特製の極上の一杯を所望するよ」
ガイアはいつものように飄々とした態度でカウンター席に座る。
ディルックは無言で最高級のブドウジュースを用意し、彼の前に置いた。
ガイアは、グラスの中の濃い紫色の液体を見て、ピクリと眉をひそめた。
ブドウジュースは、甘すぎてどうにも苦手だった。
どうせならワインにした方が美味く飲める。しかし、ディルックが出してきたものだ。意味がないはずがない。
ガイアはため息を吐く。
(…………嫌がらせの可能性もあるか。)
「……お前…はぁ、俺の気分はもう少し刺激的なものだったんだが」
「お前の今日の顔色は、酒を受け付けないと言っている」
ディルックは冷たく言い放つ。
「…それに、これは最高級のブドウジュースだ。いつものとは香りが違う」
「なんだそれ…新たな商売文句か?」
ガイアがディルックの言葉を茶化した。ディルックは返事をせず、そのままグラスを拭き続けていた。そんなディルックを見て少し苛立ったが、溜息をつき視線をぶどうジュースに向けた。
ディルックは、ガイアがブドウジュースを苦手としていることを知っていた。
それでもこれを出したのは、酒を飲ませたくないという意思表示であり、同時に、苦手なものでも飲めるくらいには回復しろという、彼なりの不器用なメッセージだった。
ガイアはディルックの真意を悟り、苦笑した。本当にこの男は、遠回りな心配の仕方が上手い。
「手厳しいな、お前は。まあ、ディルックの言うことだ、ありがたく頂くとしよう」
ガイアは意を決してジュースを一口飲んだ。確かに、いつものものよりは香りが良く、飲みやすかった。冷たくて、少し甘すぎる液体が多少は喉を潤した。
張り詰めていた神経が少しほぐれる。
二人の間に沈黙が流れる。
ディルックはグラスを磨き続け、ガイアは窓の外を眺めている。この微妙な距離感が、二人にとっての最適解だった。
ディルックは、ガイアが仕事で無理をしていることに気づいていたが、それを直接指摘することはしなかった。
「休め」と言えば、ガイアは「大丈夫だ」と笑って流すだけだろう。彼のプライドを傷つけず、遠回しに心配を伝える。それがディルックのやり方だった。
「…最近、街の巡回は滞りなく行われているようだな」
ディルックが唐突に話題を変えた。
「 ああ、俺の優秀な部下たちが頑張ってくれてるんでね。俺は上司として、とっても誇らしいさ」
ガイアは嘘をついた。実際には、彼自身が夜遅くまで見回りに出ていた。ディルックはそれに気づいていたが、反論はしない。
「そうか。……くれぐれも、無理はしないように。この街の平和は、騎兵隊長一人の肩にかかっているわけではない」
それは、ディルックなりの精一杯の気遣いだった。
「自分を犠牲にするな、もっと周りを頼れ」という意味が込められていた。
ガイアはディルックの横顔を見つめた。氷のように冷たい態度の中に、確かに温かい炎が揺らめいているのを感じた。
「お前の気遣い、感謝するよ。これで明日からも頑張れそうだ」
ガイアは苦手なブドウジュースを、少しずつ時間をかけて飲み干し、席を立った。
(お前が俺の弱さを受け止めてくれる日が来るまで、もう少しこの仮面を被っておくさ、ディルック)
店の外に出たガイアは、夜空を見上げた。ディルックの不器用で、少し意地悪な優しさが、今日もまた、彼の凍てついた心を少しだけ温めてくれた。雪解けの日は、まだ遠いかもしれないが、確かな微光はそこにあった。