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第二十一話:百鬼震天の噂と、深淵の視線
朧月館が神龍・琥珀を「最初のお客様」として迎え入れ、その神性すらも王の精髄で塗り替えたという衝撃は、隠り世の理を根底から覆した。宿から放たれた三色の霊光は、もはや単なる妖気の輝きではない。それは隠り世という閉ざされた箱庭に投じられた、あまりにも巨大な「変革の種火」であり、数千年の停滞を破る宣戦布告でもあった。
その噂は、物理的な距離を超え、霊的な波導となって隠り世の最果て、あやかしさえも立ち入ることを許されぬ「禁忌の聖域」にまで波及していく。
宿から数千里、永遠に沈まぬ月が照らし、死者さえも微睡みに沈む「果てなき湿原」。その最奥、数千年の歳月を経てなお崩れぬ黒石の古寺の深淵で、幾重にも重なる薄衣を纏った影が緩やかに揺れた。
現れたのは、地面を埋め尽くすほどの長く美しい銀髪。そして、その背後で扇のように広がり、ゆったりと空間を撫でる九つの尾――「瑞希」だ。
「……ふふ。死に体だった『朧月』が、これほどまでに猛々しく吠えるとはねぇ。あの小娘……玉藻が、随分と面白い『獲物』を見つけてきたようで」
瑞希がキセルから吐き出した紫煙は、闇の中で意志を持つように蠢き、黄金の輝きを取り戻した朧月館の幻影を描き出す。その瞳は妖しく、そして食欲にも似た欲望を剥き出しにしていた。
だが、動いたのは彼女だけではなかった。
北の最果て、万年雪に閉ざされた「氷王の都」では、絶対零度の冷気を纏う「雪の女王」が、凍てついた玉座から立ち上がっていた。彼女の冷徹な瞳には、宿から届いた三色の熱への、抑えきれない渇望が宿っている。
「……神龍の核をも溶かし、再誕させる熱量か。我が永久凍土の孤独を溶かせるのは、その男の精髄のみかもしれぬな」
南の腐海、数万の眷属を統べる「土蜘蛛」もまた、暗い穴の底で無数の眼を光らせていた。彼女の巨体は期待に震え、粘り気のある糸を吐き出しながら、まだ見ぬ王の姿を幻視する。
「……神を喰らい、あやかしを懐柔する人間。その種を我が子らに繋げば、蜘蛛の一族は隠り世の真の支配者となろう……」
さらに、西の荒野を蹂躙する「大蛇」の軍団、東の海を支配する「海坊主」……。隠り世の均衡を保っていた支配者たちが、新しき王の誕生と、その圧倒的な生命力の奔流――「三色の精髄」という至高の果実に惹きつけられ、宿へと動き出そうとしていた。
その光景は、まさに「百鬼夜行」の再来。かつてないほどに隠り世の霊気が沸き立ち、すべてのあやかしが、その宿を――あるいはその男を「喰らおう」と、あるいは「平伏しよう」と、牙を研ぎ、舌を鳴らしている。
一方で、隠り世と現世を繋ぐ「狭間の道」――現実の物理法則が溶け、悪夢のような風景が広がる境界線にも、不穏な足音が響いていた。
黒いロングコートの裾を翻し、一人の男が歩を進める。背には、幾万の悪鬼を封じたとされる桃木の古剣。男が手にした水晶は、三色の光を放ってひび割れ、今にも砕け散らんばかりに激しく明滅していた。
「……神龍の消失、そして異常な霊的膨張。あやかしを家族と呼び、人間が王として君臨するなど、自然の摂理に対する冒涜だ」
男は冷徹な眼鏡の奥で、無機質な殺意を燃やした。
現世の表舞台には決して姿を現さず、闇に紛れてあやかしを狩り、世界の「均衡」を守り続けてきた最強の処刑人だ。
「……朧月館。そこが本当に楽園だというなら、私が『地獄』へ変えてやろう。……道士として、そしてこの世界の均衡を守る番人としてな」
厳十郎の歩みは止まらない。彼にとって、あやかしは滅ぼすべき悪であり、それを統べる人間は、種としての裏切り者に他ならない。彼の足元には、宿へ向かおうとしていた下等なあやかしたちの死骸が、塵となって消えていく。
宿の中では、一花が夜食を運び、カノンがエンジンの音に耳を傾け、彩葉が回廊の色彩を確かめている。玉藻は琥珀と共に酒を酌み交わし、新たなる客の到来を予見して不敵に笑う。
だが、彼女たちはまだ知らない。
自分たちが手にした最高の幸せが、どれほどまでに巨大な「厄災」を呼び寄せてしまったのかを。
三色の霊光は、神々をも誘う蜜であると同時に、世界を焼き尽くす火種でもあった。
嵐の前の、あまりにも静かな夜。
月はかつてないほどに不気味に赤く、宿の玄関には、一人の「招かれざる客」の影が、長く、鋭く伸びていた。
「……ここか。化け物どもの、巣窟は」
呼び鈴が鳴る。その音は、隠り世の終わりを告げる弔鐘のようであった。