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軽い二日酔いの様に重い頭。動かそうとすると筋肉痛の様に軋む体。
頬に硬いコンクリートの感触がして、自分が地面に倒れていると理解ができた。
瞼が重くてまだ目を開けられない。
――ドシャッ――
どうやら耳は正常に機能しているらしく、少し離れた所で何かが倒れる音がした。
「あーあ、残念。賭けはお前の負けだったね」
ハッキリと耳に届いたその声は、どう聞いたって残念とは思っていない声音だった。
女性にしてはやや低く、男性にしてはやや高い、そんな曖昧な声の主は「どんまい、どんまい」と言いながらどこかへ歩いて行ったみたいだ。
遠ざかる足音を聞きながら段々と頭の重みが薄れてきたなと思った時、ツンと嫌な臭いが鼻を通る。
(これ…鉄の匂い…)
そう判断したと同時に、これは血液なのか?と嫌な考えが過ぎった。
回り出した脳内で勝手に思考が進んでいく。
(血の匂いだったとしたら怪我人がいるかもしれなくて…て事はさっきの音は人が倒れた音?だとしたら…さっきの声の人が…)
――ジャリッ――
ひゅっ、と咄嗟に息を飲んでしまった。
体の感覚が鈍っていなかったら、驚きのあまり体が跳ねて起きている事がバレていたかもしれない。
“さっきの声の人が怪我をさせた犯人か?”と1つの可能性に辿り着いた時、すぐ傍で砂混じりのコンクリートを踏みしめる音が鳴った。
さっきの人が戻ってきたのか…それとも全く別の何かなのか…確かめる術は何も無い。
体が変な挙動をしない様、なるべく脱力していわゆる死んだフリを貫く。
心臓がいつもより大きく、強く動いている気がしてならない。
(死にたくない…)
あまりの恐怖に思わずそう願わずにはいられなかった。
ここは何処で、俺は何をしていて、どうして地面に横たわっているのか?
何も分からない…何も分からないまま、俺は死ぬのだろうか?
思い返せば平凡すぎる人生だった。
特に取り柄もないし、何かを成し遂げた記憶も無い。
ただ平均的な暮らしをずっと続けていただけで、脳に焼き付く様な思い出も見当たらない。
あぁ、こんな事なら…と幾つもの後悔が頭を埋め尽くす。
せめて天国にくらい行きたい…そう思った時、
「大丈夫ですか?起きれますー?」
聞き覚えのある声が頭のすぐ横から聞こえてきた。
この声、やはり先程の人の声だ。
今のはどう考えても俺に話しかけた様に思う。
けれど返事など出来るはずもなかった。
恐怖、焦り、緊張、色んな感情が体をグルグルと巡って体が動かない。
返事をしなきゃ殺される…返事をしても殺される…2つの考えが交互に主張し、じわじわと手汗が滲み出す。
「あれ、聞こえてない?寝てんの?おーい」
返事を催促する声が響く。
やはりこの人は俺に話しかけている。
きっと、もう次は無い。
次に声をかけられた時は、きっと殺される時になるだろう。
決めきれない覚悟を無理やり決めるように、ギュッと強く目を瞑った。
「んー…あ、失礼しま〜す」
(あれ?少し声が遠く――「ひゃんッ!?」
「あっは!イイ声出るねぇ!かぁわい〜」
つい先程まで命の危機を心配していたはずが、脇の下に滑り込んできた何かのくすぐったさに情けない声を出してしまった。
咄嗟に滑り込んできた何かを脇で挟み、体を硬直させる。
脇に挟んでしまったのは、感触的に人の手のようだった。
(俺、今、変な声…ッ)
いや、もうこの際羞恥心に構っている場合じゃない。
今ので確実に起きている事が…生きている事がバレてしまった。
ダラダラと流れる冷や汗に、脇がどんどん熱くなる気がして落ち着かない。
体を動かす事も言葉を返す事も、呼吸をする事だってままならない。
次こそ殺される…きっと殺される!
「ねぇ、こんな所で何してんの?」
――ジャリジャリッ!!――
一瞬の隙をつかれ、脇の間から手を抜き取られてしまった。
その手は獲物を巻き取る蛇の様に腕に絡められ、そして強い力で仰向けになるよう体を転がされた。
その時体の下に腕を敷かれてしまい、更にはお腹の上に乗られたようで完全に身動きが取れなくなってしまう。
「起きてんでしょ?ほら、目を開けなって」
その言葉と同時にギュッと強めに鼻を摘まれた。
つい眉をしかめてしまい、しまったと思ったがどう考えても今更すぎる。
これ以上取り繕う事なんて出来るはずもなく、恐る恐る目を開けた。
「おはよーございまぁす」
目を開けて、真っ先に視界に入ったのは赤。
それは目の前の人物の髪色の事じゃない。
ニコリと笑う赤毛の人の…頬に付いた血の赤だった。
すっと血の気が引く感覚がした。
頬に付いているのが血だと決まったわけじゃないが、血とゆう答えしか頭に浮かんでこない。
明らかに恐怖で動揺し始めた俺に気付いたからなのか、赤毛の人は立ち上がって俺から少し距離を取った。
すぐに危害を加える気は無いですよ、という意思表示かもしれない。
近くに鉄板の様な物が積まれており、赤毛の人はその上に「よいしょ」と腰掛けた。
このまま寝そべっているのもどうかと思い、上体を起こして再び赤毛の人に視線を移す。
赤毛の人は俺を観察する様に黙って視線だけをこちらに向けてきていた。
先程「おはようございます」と挨拶をされたが、すっかり返事をするタイミングを逃したので相手の言葉を待ってみる。
目の前の人物に覚えは無いし、そもそもこの倉庫みたいな場所すら覚えが無い。
(…あれ?)
そこでようやくある事に気が付いた。
死ぬのかもしれないと思った時、平凡な日々が頭の中に流れたのは確かだ。
自分の顔も、どんな生活を送っていたのかもちゃんと覚えている。
それなのに…
(自分の名前が…分からない…)
俺は一体、どうしてしまったのだろう。
その他は思い出せるのに、自分の名前だけが全く思い出せない。
恐怖と困惑が混ざり合ってパニックを起こしそうだ。
「ねぇ、大丈夫?顔色悪いねー」
「え?ぁ…」
声を掛けられ、ハッとなって顔を上げる。
いつの間にか俯いて地面を見詰めていたようだ。
赤毛の人が心配そうな表情をしているように見えるのは、掛けられた声が何だか優しく感じたからだろうか。
相手はこちらと会話を試みているんだし、これ以上返事をしないのは機嫌を損ねかねない。
もしかすると、本当に敵意なんて全く無いのかもしれない。
そもそも”殺される”なんてのは俺が勝手に考えていた事で、目の前の人は一度も”殺す”とは言っていない。
少しだけ見えてしまった期待と希望に、祈りながら口を開いた。
「えっと、大丈夫かと言われたら…正直、分からないです」
「え?何で、どーゆー事?」
「体は多分、大丈夫なんですけど…ここが何処かも分からないし…ついさっきまで本当に意識が無くて、挙句に自分の名前が思い出せなくて…それに、あ、あなたに殺されるかも…なんて考えてて…」
口から滑る様に言葉が出てしまい、すぐに後悔した。
絶対に言わなくても良い事まで言った気がする。
目が合わせられずに逸らした先で、再び頬の血が目に入り余計に視線が泳ぐ。
「殺す!?いや、流石に無差別に人を殺したりしないよ〜、何言ってんのさ!つーか、自分の名前思い出せないってヤバくない?大丈夫じゃないね、それ」
「…へ?」
「え?」
あまりにもフレンドリーに返ってくる言葉に拍子抜けして、間抜けな声が出てしまった。
目の前の相手に散々恐怖を感じていたのに、今の一瞬でその感情は崩れ去った。
あんなに気を張って死んだフリしていたのがとても馬鹿らしく思える。
途端に自分が恥ずかしくなってきた。
赤くなっている気がする顔を隠すように少し俯く。
「すいません。その、あまりにもフレンドリーだったので驚いてしまって…」
「あぁ、まぁそりゃそうか。殺されると思ってた相手がこんなんじゃビックリするわな。ほんとに殺す気なんて無いからそこは安心して良いよ」
「はい」と返事をすると「よし!」と言って赤毛の人は立ち上がり、ジャリジャリと足音を立てながらこちらに近付いてくる。
そして目の前までやってくると、すっと右手を差し出した。
「とりあえず立てる?何か大変そうだし力になろっか?」
思ってもみなかった言葉に驚いて顔を上げる。
無害そうに見える笑顔に、もう警戒心なんてほとんど働かなかった。
「良いんですか?」と尋ねたら「良いんですよ」と返され、申し訳なさはあったが断る理由が見付からなくなる。
差し出された右手に自分の右手を重ね、引っ張られるままに立ち上がった。
「あの、どうして力を貸してくれるんですか?」
「あー、私さ、人間観察が趣味なんだよねぇ」
「人間観察?」
「そーそー。記憶喪失の人間なんて身近に居ないし、観察対象としては文句ないじゃん?だからかな」
「つまりそれって…」
(実験体か何かだと思われてるって事!?)
こちらの心でも読んでいるのか、赤毛の人はふふんと得意気な顔をしている。
「そーいやまだ名乗ってなかったね?私は喰数。口偏に食べるの喰うに数字の数で喰数、よろしく〜」
「喰数…さん…」
「はーい!」と返事をしながら歩き出す喰数さん。
その後ろ姿を見て”自分が知っている意味のクズ”じゃないようにと、思わず祈ってしまった。
そう言えばと辺りを見回すと、案の定人が倒れているのを見付けた。
喰数さんのフレンドリーさで忘れかけていたが、この人は”人が倒れる何か”をした可能性がある。
倒れている人には申し訳ないが、今は助けに行ける状態でも状況でもない。
『無差別に人は殺さない』
つまり”理由があれば人を殺す”って事なのだろうか?
考えていても仕方ない。
今は力を貸してくれると言った喰数さんを信じてみるしか道は無い。
また少し上がってしまった警戒度に不安を覚えながら、サラサラと赤毛を揺らす姿を追いかけるのだった。