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脱力しきった彼女の身体を、後ろからそっと支える。
さっきまでの余韻がじんわり体中に残っていて、二人のあいだに、しばらく静かな時間が流れた。
「……だいじょうぶ?」
問いかけると、彼女は振り向いて、こくんと小さく頷く。
腕の中で、まだ微かに震えが抜けきらないみたいだった。
「……椅子、座りな」
浴室の椅子に彼女を座らせ、シャワーを手に取る。
「頭、洗ってあげる……」
その言葉に、彼女は一瞬きゅっと唇を結ぶ。
ためらいがちに視線を落とし、恥ずかしそうに小さく頷いた。
そっと、体を預けてくる。
湯気の中で、しっとり濡れた髪に指を通し、優しく泡立てて洗う。
「……なんか、犬になった気分……」
ぽそっと呟いて、恥ずかしそうにうつむきながら笑う。
無防備な笑顔――こんな風に笑った顔は初めて見る。思わず“かわいいな”って思った。
「るか、よーしよし、いい子」
冗談めかして頭をなでてやると、彼女の頬がさらに赤くなる。
「目、つぶってて」
シャンプーを流してやると、彼女は気持ちよさそうに小さく目を細める。
泡をしっかり流して、トリートメントも丁寧になじませてすすぐ。
「体、冷えるから、つかっときな」
彼女はこくりと頷いて浴槽にそっと足を入れ、
背もたれに軽く寄りかかり、体育座りで膝を抱え、小さく縮こまる。
その間に自分の頭をざっと洗い、ちらっと彼女の顔を見る。
「……なに、そんな端っこで縮こまってんの」
「……だって、どこ見ていいかわかんない……」
湯気の向こうで、彼女が恥ずかしそうに視線を泳がせている。
「こっち見ても、もう何も出てこないけど?」
からかうと、彼女は俯いて顔を真っ赤にした。
「……うるさい」
小さく呟くその口元は、ちょっとだけ笑っていた。
狭いバスルーム。
二人きりの空間に、静かな呼吸とお湯の音だけが、ゆっくりと響く。
さっきまで荒く重なっていた熱とは違う、
ふんわりとやわらかな幸福感が、二人のあいだに静かに満ちていた。
風呂を出て、脱衣所で身体を拭く。
彼女はまだ恥ずかしいのか動きがぎこちない。
「るか、これ着な」
長袖のTシャツを渡すと、
「あ、ありがと……」
すぽっと頭から被って、Tシャツを着る彼女。
ダボっとしたシルエットが、より一層マスコットみたいに見える。
「髪、乾かしてあげる」
「……ありがとう」
だんだんと素直になってきている彼女を横目に、ドライヤーを手に取る。
きれいな長い黒髪を、そっと指で梳かしながら乾かしていく。
ドライヤーのぬくもりと、手櫛のやさしさ。
鏡越しにちらりと彼女を見ると、目を細めてうとうとしていた。
(金曜だし、そりゃ疲れるよな……)
二回も抱いたし、しかも泣かせてしまった。
心のどこかで「ごめん」と思いながらも、
それでもやっぱり「かわいいな、まじで……」とドライヤーの音に紛れて、小さな声が漏れる。
――このまま、あと少しだけ。
静かな夜が続けばいいのに。
やっと手に入ったこの幸せが、ずっと続けばいいのに、と彼女を見ながら願った。
ドライヤーの電源を切ると、ふっと彼女が顔を上げる。
「ごめん、うとうと……してた」
「いいよ、大丈夫。このまま寝る?」
「うん……ごめん」
新品の歯ブラシを渡し、自分も髪を乾かしながら歯を磨く。
鏡越しに見る彼女は、夜の強い雰囲気とはまるで違う。
大きなTシャツに包まれて、どこか幼さの残る眠たそうな姿。
そんな姿も、やっぱり可愛い。
歯磨きが終わったら、そのまま手を取ってベッドへ。
布団をめくると、素直にするりと中へ潜り込む彼女を、そっと抱きしめる。
抱きしめ返してくれる細い腕。
さっきまでの熱が嘘みたいに、柔らかな体温が胸に沁みる。
すぐに、彼女の静かな寝息が胸元で聞こえてくる。
彼女の寝息を感じながら、幸せの輪郭がゆっくりと胸の奥に広がっていく。
その音を子守唄に、自分も静かに目を閉じた。
舌のピアスが小さく鳴る。
まどろみのなか、「……おはよ」とかすれた声で言うと、彼女は黒髪を揺らして目をこすり、
「ん……おはよ」と眠たそうに返してくる。
しばらく見つめ合うだけの静かな時間。
ふっと息を吐いてぽつりと呟く。
「……いてくれて、よかった。
……またいなくなってたら、どうしようかと……」
彼女はきょとんとした顔を見せるが、すぐにふわりと微笑む。
「いなくならないよ」
その“まっすぐな笑顔”に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ベッドからそっと抜け出し、彼女の髪を乱さないようにそっと毛布をかけ直す。
「……ちょっと待ってて」
そう低く声をかけ、リビングへ。
床には昨日脱いだ服が散らばり、テーブルの上の小物入れには、合鍵とアクセサリー類がぽつんと残っていた。
一度だけ迷うように視線を落とし、その合鍵をそっと手に取る。
戻ると、彼女はもう上体を起こしていた。
ダボっとしたTシャツに身を包み、裾をぎゅっと抱えて座るその姿。
寝起きの無防備な顔と、少し照れたような瞳。
(……かわいすぎだろ)
思わず足を止めてしまうほど、胸がきゅっとなる。
息を整えて、合鍵をそっと握りしめたまま彼女の正面に腰を下ろす。
「手、だして……」
おずおずと差し出された手を、震える両手で包み込むように握る。
言葉がつかえて、しばし沈黙が落ちる。
それでも目をそらさず、かすれた声で言う。
「……あの、付き合ってほしい」
一度、息を呑む。
「るかのこと……あいしてる」
驚きに揺れる彼女の瞳。
その手のひらに、そっと合鍵を落とす。
合鍵を落とす時、指先がかすかに震えた。
それでも、彼女の瞳から目を逸らさずに。
「これ……受け取ってほしい」
彼女の長い睫毛が震えて、今にも涙が零れそうに光っていた。
side luka
「……あの……付き合ってほしい」
「ルカのこと……あいしてる」
彼は言葉を探しながらも、視線を逸らさずにもごもごと声を絞り出す。
「これ……受け取ってほしい」
そっと差し出された掌に、ひんやりとした重み。
――合鍵。
息を呑む。
金属の冷たさよりも、胸に広がる熱の方がずっと鮮烈で、どうしようもなくて。
昨日までなら考えられなかったこと。
あの夜、乱暴に抱かれ、泣いて、嫌だと思ったはずなのに――
いま目の前にいるのは、必死で愛を告げてくる、不器用なほど誠実な彼。
「……ずるいよ」
唇が震え、言葉が零れる。
ずっと、好きだった。
音楽も、声も、人柄も――全部。
でも、それを認めたら壊れてしまいそうで、「嫌い」と自分に言い聞かせてきた。
それでも。
手のひらの鍵を、ぎゅっと握る。
溢れそうな涙を隠すように、顔を伏せる。
「……わたしも」
喉が詰まり、やっと出た声は小さく震えていた。
それでも、彼に届くように。
「……わたしも、あいしてる」
そう言った瞬間、彼はぎゅっと抱きしめてくれる。
私も背中にそっと、手を回した。
「……おれ、さ」
声が低く震える。抱きしめたまま、彼は続けた。
「天才だの鬼才だのって言われてきた。……でも、ほんとは楽譜も読めないし、作れない」
自嘲気味に吐き捨てるように笑う。
「頭の中で流れてる絵に、必死で音を当てはめてきただけ。
……若井と涼が拾ってくれなきゃ、今のおれなんかいない」
途切れる言葉、詰まる喉。
私はそっと彼の背中をさすった。
「……ずっと、コンプレックスだった。歌うたびに、自分はほんとに歌えてるのか、歌っていいのか――怖くなって。
一番埋めてくれるはずだった音楽が、だんだんと怖くなって、心に穴があくみたいで」
彼は、ゆっくりと身体を引き剥がし、わたしの額に額を寄せる。
私は、そっと息を吐く。
「……知ってるよ、そんなこと」
彼の視線が驚きに揺れる。
「楽譜が読めないなんて……ファンならみんな知ってるよ。
でも、それが何? 」
少し声に熱がこもる。
「そんなの、関係ないよ。
だって――私はもときの歌で救われてきた。
もときの音楽で、生きてこれたんだもん」
涙と笑顔が同時にあふれた彼の顔が、どうしようもなく愛おしい。
「……そこから、音楽以外で埋めるようになったんだよ」
腕を自分の膝に下ろし、手首のタトゥーを指先でなぞる彼。
「女抱いたり、酒やタバコに逃げたり。
ピアスもタトゥーも増やして……結局、どれだけやっても、なにも埋まらなかった。
ぜんぶ虚しかった。ただ壊れてくだけだった」
拳を膝にぎゅっと握りしめ、絞り出すように続ける。
「だから、おれ、ほんとは音楽に向き合うのが怖かった。
自分で自分をぶっ壊すことしかできなかった」
私はまっすぐ彼を見る。
「……歌ってるもとき、好きだよ」
震えていたけど、目は逸らさなかった。
「だから、どんなもときでも、ずっと聴いてきた。
派手になっても、噂が広がっても、苦しそうでも……
歌うもときの姿、ずっと好きだった」
彼の膝に置いた手がさらに、ぎゅっと力がこもる。
「……だから、壊れなくていい。そのままのもときで、いてほしい」
「……るかと出会えてよかった」
再び抱きしめられる。さっきよりも、もっと強く。
「るかがいてくれるから……また音楽と向き合える気がする。
ずっと怖かった。空っぽで、虚しいだけで――
歌うことすら、自分を削る呪いみたいだった。
だから酒や女や煙草でごまかして……壊して……それしかできなかった」
言葉を区切るたびに、腕の力が増す。
「でも、今は違う。るかがいてくれるなら、もう逃げなくていい。
どれだけ苦しくても、るかが隣にいたら……音楽はまた、生きるためのものに戻る。
……空っぽじゃなくなったんだよ。おれ」
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しばらく、二人の啜り泣く声だけが部屋に響いていた。
「……あのさ」
少し間をあけて、ぽつりと口を開く。
「女遊びは、してない」
やっと吐き出した言葉に、彼女はふっと笑う。
「……あたりまえでしょ」
少し息を詰め、言葉を探しながら続ける。
「……酒も、最近は飲んでない」
「うん」と、やわらかく頷く彼女。
「でも……たまには飲んでもいいと思うよ」
タバコの匂いがふと漂う中、
「……タバコは……」と言い淀む声に、彼女は優しく首を振る。
「今さらやめられないでしょ。いいと思うよ」
確かめるように問いかける。
「……ピアスは?」
彼女は微笑む。
「かっこいいし、似合ってるから……いいと思う。
……わたしも、同じところに開けようかな」
そう言ってそっと俺の耳たぶに触れる。
彼女の背中に回していた俺の右手首を、そっと掴み、自身の膝の上に置く彼女。
増やした右手首のタトゥーに、彼女の指先がそっと触れる。
「……これも含めて、もときだから」
涙を堪えるように微笑む。
「ぜんぶ……だいすきだよ」
その言葉で、胸の奥で何かがふっとほどける。
頬を伝う涙を、もう隠さなかった。
初めて――「愛されていいんだ」と信じることができた。
「……ありがとう、るか」
その瞬間、胸の奥に長いあいだ絡まっていた痛みが、そっとほどけていく気がした。
カーテン越しの朝の光が、静かにふたりを包んでいた。