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二つの盆を手に持ったまま
時也は一瞬、背後の青年に視線を落とした。
彼の手にはまだ微かに緊張が残っている。
だが、それでも彼は時也の後を追い
階段を共に上がってきてくれた──
その一歩を、決して裏切らぬように。
静かに呼吸を整え
時也は廊下にあった観葉植物へと目を向ける
枝の先端が指示に応えるように
そっと蔓を伸ばした。
葉脈に命が宿るように
つるりと巻きついた蔓が
扉のノブに絡まり──
カチリ。
開錠の音と共に
時也は肩でそっと扉を押し開けた。
室内は──静寂に包まれていた。
窓辺から差し込む淡い光が
ベッドの上のアリアの髪に
柔らかな金の輪郭を描いている。
彼女は横たわったまま
ただ一度だけ瞼を持ち上げ
時也に視線を向けた。
言葉は無い。
けれどその瞳には
はっきりとした〝理解〟が宿っている。
テーブルの上には、すでに青龍の手によって
盆が二つ、並べられていた。
整えられた湯気はまだ温かく
まるでその静謐な空間を守るために
存在しているかのようだった。
だが──
エルネストは、扉の敷居をまたぐと同時に
ぴたりと足を止めた。
そして次の瞬間、何かに怯えるように
部屋の隅へと逃げ込むように身を伏せる。
肩を竦めるようにして
壁に背を預けるその姿は
まるで影のように部屋の隅に溶け込んでいた
彼の中にはまだ〝他者と共に居る〟という
当たり前の行為すら、苦痛でしかないのだ。
時也は振り返り
その様子を見て小さく頷いた。
「少しだけ、お待ちくださいね?
もうお一人の
転生者の方の様子も見て参ります」
柔らかに声をかけると
彼はそっと扉を閉じて
アリアに一礼しながら部屋を後にした。
向かう先は──
ティアナが結界を張った隔離部屋。
その扉の前には、白猫のティアナが
優雅に座り込みながらも
眼光鋭く見張りを務めていた。
「ティアナさん、ありがとうございます。
僕を入れてください」
そう言うと
ティアナはぴくりと耳を動かし、目を細めた
まるで人語を理解しているかのように
軽く尻尾を揺らすと──
結界が静かに解かれていく。
扉の向こう
僅かに熟れすぎた果実のような
甘さを孕んだ匂いが漂う空間が
そっと開かれた。
部屋の中。
そこには、煤竹色の髪をした少女が
白いシーツの上に静かに座っていた。
まだ痩せた肩は震えており
まるで極寒の中、温もりを探すように
視線を彷徨わせていたが──
時也の姿を認めた瞬間
全身がぴたりと硬直した。
「ご気分は、いかがですか?
大丈夫です⋯⋯
僕は感染することはないので
ご安心ください」
その声は
包帯のように静かで、あたたかかった。
少女は、怯えたように唇を震わせながら
ひとつだけ言葉を返した。
「わたしのバクテリアに触れても
腐らないの⋯⋯?」
それは、他者を喰らってきた罪の自覚。
触れるだけで崩れゆく関係と肉体に
彼女がどれほど恐れてきたか──
その一言に、すべてが滲んでいた。
時也は、そっと彼女の傍らに腰を下ろす。
その動作には、一切の躊躇がない。
「えぇ。
僕は、植物の身体を持っているので
微細菌とは、共生できますから」
そう言いながら
彼は自らの胸をゆっくりと開いた。
そして、驚きに目を見開いた彼女を
そのまま、優しく──
本当に優しく、両腕に包み込む。
少女は最初、反射的に体を固くした。
だが──
「ほら⋯⋯平気でしょう?」
その囁きと共に、時也の体温が彼女を包み
彼の胸元から漂う土と桜の香りが
静かに肺を満たしていく。
ほんの一瞬の間を置いて、少女の手が
恐る恐る、時也の着物の背に伸びた。
そして──
縋るように、抱き返す。
ぽたり、と涙が落ちる。
それは堰を切ったように次々と零れ
彼女の喉から
しゃくりあげるような泣き声が漏れ始めた。
人に触れられたこと。
誰かの体温を、自分が奪わずに感じたこと。
それだけで
彼女の世界は、音を立てて崩れていった。
──赦されたいわけではない。
ただ、誰かに〝人間として扱われたい〟
その、あまりに当たり前すぎる願いが
胸を突き破った。
時也は、彼女の頭をそっと撫でながら
黙ってその涙を受け止めていた。
まるで──
春の雨が過ぎ去るのを
ただ静かに待つかのように。
瞬間。
それまで室内に漂っていた
発酵にも似た濃厚な香り──
生命が分解と再生を繰り返す
目に見えぬ世界の気配が──
ぴたりと、消えた。
空気が静まったのではない。
香りだけが
まるで意思を持って引いていったかのように
唐突に途切れたのだ。
(気持ちが落ち着きさえすれば⋯⋯
微細菌もおとなしいようですね)
時也は、そっと腕の中の少女を見つめながら
内心で呟いた。
鼓動が落ち着いた彼女の背から伝わる体温は
ようやく〝人間〟としてのものへ戻っていた
「お食事は、召し上がれそうですか?」
優しく問いかける声に
少女は小さく、けれど確かに頷いた。
その仕草には
ようやく他者を受け入れることへの
覚悟が滲んでいた。
「では、アリアさんの所へ
ともに向かいましょうか。
彼女も、感染はしません」
「⋯⋯アリア、さん?」
少女は、ぽつりと疑問をこぼす。
その声には
まるで夢から醒めたあとのような
曖昧な記憶の輪郭があった。
「先程、貴女を抱きしめた
金髪の女性ですよ」
言われてすぐ、少女の目が見開かれる。
手を口元に添え
どこか後悔の色を浮かべながら、呟く。
「⋯⋯さ、さっきのこと、謝りたいの。
怒って、いないかしら」
「怒っていませんよ。
貴女を心から、心配しておりました」
時也の答えは、曇り一つない確信だった。
その声に、少女の肩がふっと軽くなる。
「⋯⋯い、行くわ」
「ありがとうございます」
再び扉を開くと──
ティアナが、何も言わずにすっと立ち上がる
静かな気配で彼女たちの足元を歩き
そのまま並んでついていく。
「この猫ちゃんは?」
少女がそっと問いかける声に
時也は微笑んで応じた。
「彼女はティアナさん。
結界の異能を持つ、賢い猫さんです。
もし、貴女の微細菌がまた暴れたとしても
彼女がいれば、安心ですよ」
言葉を受けて
ティアナはちらりと少女に目を向けた。
海の蒼の似た、静かな光を宿す瞳。
だがその奥には〝理解〟という名の
何よりも深い慈しみが宿っていた。
少女は小さく安堵の息を吐き
ひとつ頷くと──
再び歩き出した。
そして──
再会の扉が、静かに開かれる。
アリアのいる部屋へと
二人が足を踏み入れた瞬間だった。
空気が、ふわりと揺れた。
エルネストが、時也を見た刹那──
まるで火のついた子供のように
一直線に駆け寄り
その着物の裾にしがみついた。
だが、その時だった。
少女の足が止まる。
そして、時也を挟んだその向こう──
裾にしがみつくエルネストと、目が合った。
一瞬
どちらも何かに突き動かされたように
肩を揺らす。
怯えではない。
驚きでもない。
──これは、感応だ。
空間に結界を張るべきか──
時也がほんの一瞬
判断を逡巡したその刹那。
二人の視線は、惹かれ合うように
互いから逸れることはなかった。
まるで
互いの奥底にある“何か”が、共鳴するように
その瞳に映っていたのは
ただの肉体ではない。
微細菌と虫──
目には見えぬ、無数の命たちが
今この瞬間
相手を〝仲間〟と呼んでいるのを
彼らは確かに感じていた。
「⋯⋯お前、なんなんだ?
俺の中の虫が、お前を呼んでいる」
その言葉は、驚愕ではなく
ただの真実の告白だった。
「あ、あなたも?
何故か、わからない、けど⋯⋯
なんだか、懐かしい感覚がするの」
少女の声には、涙のように柔らかな確信が宿っていた。
時也は、二人の間に身を置いたまま
そっと目を伏せる。
(……やはり、僕の予想通りですね)
彼の胸に去来していたのは
一つの生物学的直感だった。
(自然界には
微細菌なしでは生きられぬ虫が存在する。
逆に──
虫なしでは活動できない微細菌もまた然り。
たとえば
腸内細菌の運搬役としての小型の甲虫。
またある時には
朽ち木の発酵を助けるために
菌糸をまとって巣を作る羽虫たち。
それらは偶然ではなく、共に生きるために
互いの命を〝必要とした〟関係──)
──共生。
それは単なる〝共に在る〟のではない。
〝共にあらねば、生きられぬ〟関係性。
(この二人は、まさにそれだ。
拒絶と拒絶の中に生きてきた彼らの
最初の〝他者〟は
互いだったのかもしれない)
ほんの微かな──
しかし、確かな予感。
それを胸に抱きながら
時也はアリアの傍へと歩を進める。
そして、彼の両手には
温かな食事と
命を繋ぐ絆の予兆が、そっと宿されていた