会場の照明がふっと落ちた。
さっきまで眩しく照らされていたステージが一瞬にして闇に沈み、観客のざわめきが波のように押し寄せる。
(次は……あの曲だ)
心臓が高鳴る。
イントロに仕込まれた“あの音”が、今この瞬間、世界に解き放たれるのだ。
暗闇の中、観客は静まり返ろうとする。
誰もが次の一曲を待ち構え、息を殺している。
その沈黙を切り裂くように──
『……ハァ……ハァ……』
生々しい吐息がスピーカーから響いた。
小さく、けれど確かに耳に届く。
「えっ……?」
「今の、何……?」
最前列から小さな声が漏れ、それが連鎖のように広がる。
会場全体がざわつき、困惑と興奮が混ざった空気に包まれた。
暗転の中で視線が交錯し、互いに確かめ合うように囁き声が飛び交う。
「もっくんの吐息……?」
「やばくない……?」
「なにこれ、めっちゃゾクゾクする……!」
ざわめきが歓声に変わるまで、ほんの数秒。
けれどその時間が永遠のように長く感じられた。
吐息は繰り返し響き、やがて観客の身体を痺れさせるように会場全体を包み込む。
──そして。
ギターの鋭いフレーズが重なり、「Loneliness」が始まる。
観客は一斉に声を上げる。
悲鳴のような歓声、熱狂の渦。
だがその興奮の裏で、胸の奥を突き上げるものが俺の中にあった。
あの吐息の正体を知っているのは、世界で俺と元貴だけ。
──前のめりになり、乱れる吐息を必死に抑えきれなかった姿。
パソコンに刻まれた波形が、鮮明に脳裏に蘇る。
観客は“演出”として受け取っている。
だが俺は知っている。
あの吐息が、背徳と熱の果てに絞り出された音であることを。
ステージライトが再び灯り、元貴が歌う。
マイクを握るその姿は堂々としていて、誰よりも美しい。
観客の歓声を浴びながら歌い出す彼は、ただのボーカルじゃない。
俺だけが知る真実を秘めた存在だった。
ギターを鳴らしながら、胸の奥で熱が渦巻く。
──誰も知らない、俺たちだけの秘密。
その背徳が、俺の指先をより鋭く走らせていた。
アンコール前、最後の曲が終わった瞬間、観客の歓声はさらに大きく膨れ上がった。
ステージを揺らすような熱狂の中で、俺たちはライトの中を後にする。
暗い袖へ駆け込むと、強烈な照明の余韻がまだ瞼に焼き付いていた。
肩で息をしながら、ギターを外す。
鼓動がまだ速い。
だがそれは演奏のせいだけじゃない。
──あのイントロで響いた吐息。
会場をざわめかせ、歓声を呼んだあの音の正体を知っているのは、俺と元貴だけ。
「……はぁ……」
隣でマイクを外した元貴も、汗に濡れた髪をかき上げて肩で息をしていた。
その表情が、ステージ上の誰よりも妖しく見えて、視線を逸らせなかった。
俺は思わず近づき、低く囁く。
「……お前、わざとあんなふうに煽る吐息にしただろ」
元貴はタオルで顔を拭きながら、にやりと笑った。
挑発的で、何もかも分かっているような笑みだった。
「ふふ……これでライブで Loneliness やる度に思い出すな、若井」
吐息混じりの声。
その言葉が胸に突き刺さる。
観客は演出だと思っている。
スタッフでさえ、本当のことは知らない。
あの吐息が、俺の手の中で乱れた彼の声だということを──。
秘密を分かち合う背徳感に、全身が熱を帯びる。
視線が絡み合い、互いの息が触れそうなほど近づく。
ここが舞台裏でなければ、また理性をなくしていただろう。
「……ずるいよな、お前」
思わず零れた言葉に、元貴は首を傾げて笑う。
「何が?」
「……俺だけに聞かせてた声を……あんなふうに、みんなの前に……」
「でも、“本当の意味”を知ってるのは……若井だけだよ」
その一言で、胸の奥に渦巻いていた嫉妬と昂ぶりが同時に火を噴いた。
俺の中でしか共有できない、甘くて危険な真実。
それを刻みつけるように、元貴は妖艶に笑い、タオルで額を拭った。
アンコールの歓声が遠くで響いている。
だが俺の耳に焼き付いて離れないのは、ステージの音でも観客の叫びでもない。
あの吐息──俺の目の前で、必死に耐えながら零れた彼の声だ。
世界中が知らない秘密を抱えたまま、俺たちは再びステージへ戻っていく。
背徳の熱を胸に隠し、何事もなかったような顔をして。
END
コメント
2件
うわぁー終わってしまった〜(´;ω;`)なんか2人だけの秘密って感じでめっちゃ良かった!!