テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
中華人民共和国北京。
紫禁城の西、中南海の地下深くに存在する、国家安全部(MSS)の極秘指令室『深淵の間』は、かつてない熱気と異様な高揚感に包まれていた。
換気システムがフル稼働しているにもかかわらず、充満する紫煙と茶の香り、そして権力者たちが発する脂ぎった汗の臭いが混じり合い、独特の重苦しい空気を醸し出している。
円卓の上座には、李(リー)国務院総理。
その脇を固めるのは、MSS部長の張(チャン)と、人民解放軍の劉(リュウ)将軍。
彼らの視線は、テーブルの中央に置かれた粗末な保冷ボックスに釘付けになっていた。
それは本来、海鮮市場で魚を運ぶために使われるような、安っぽい発泡スチロールの箱だったが、今の彼らにとっては、秦の始皇帝陵から発掘された秘宝よりも価値のある「箱」だった。
「……到着したか」
李総理が、抑えきれない渇望を押し殺した声で言った。
「はい。
我らが放った最高レベルの潜入工作員、コードネーム『黒猫』からの緊急輸送便です」
張部長が恭しく箱に手を添えた。
その手は、武者震いのように微かに震えている。
「日本の内閣官房参事官、日下部。
彼の執務室周辺から、廃棄物として処理される寸前に回収されたものです。
日本の公安警察の厳重な監視網を、外交特権と闇ルートを駆使して、奇跡的に北京まで運び込みました」
「中身は?」
「報告通りです。
アメリカに貸与されたという『バンドエイドMK2』のサンプル。
その試作品である『MK1』。
そして……」
張は声を潜め、まるで神の名を口にするかのように言った。
「伝説の『医療用キット(オリジナル)』の使用済みカートリッジです」
おお……。
同席していた党幹部や科学者たちから、どよめきが漏れる。
「よし。
直ちに開封し、解析班へ回せ。
1分1秒も無駄にするな」
李総理の号令と共に箱が開けられた。
中から現れたのは、無造作に放り込まれた数本のインジェクターと、空になったガラスシリンダーだった。
一見すれば医療廃棄物の山だ。
だがそこには、世界を変える「情報(コード)」が眠っている。
◇
時間は少し遡る。
東京霞が関。
深夜の首相官邸裏口に近い、薄暗い路地裏。
そこに一台の清掃車が停まっていた。
作業員に扮した男――MSSの工作員『黒猫』は、ゴミ集積所に出されたシュレッダーゴミの袋の中に、不自然に重い小箱が混じっているのを見逃さなかった。
それは偶然ではない。
日下部という男からの「メッセージ」だ。
数日前、日下部は執務室で、わざとらしく独り言を呟いていた。
盗聴器が仕掛けられていることを知りながら。
『ああ困ったな。
アメリカに渡したサンプルの余り……廃棄処分にするのも手続きが面倒だ。
ここに置いておけば、誰か掃除のおばちゃんが捨ててくれないかなぁ。
……ああそういえば、中国も欲しがっていたっけ?
まあ彼らに解析できる技術があればの話だが。
出来るものなら、やってみてほしいものだ』
明らかな挑発。
そして誘い。
「拾っていけ」という合図だ。
黒猫はその意図を正確に読み取り、罠であることを承知で回収した。
中に入っていたのは、新品のサンプルではない。
使いかけや失敗作(プロトタイプ)ばかりだ。
そこには日下部からの、無言のメッセージが込められていた。
『アメリカには完成品を渡すが、君たちにはゴミ(残りカス)をあげよう。
悔しければ、自力で解析して量産してみたまえ。
我々の技術力を、龍の腹の中で味わってみるがいい』
屈辱的な扱いだ。
だが中国にとって、それは願ってもないチャンスでもあった。
正規品はブラックボックス化されていて、手が出せないかもしれないが、廃棄品や試作品ならガードが緩い可能性がある。
あるいは構造上の欠陥から、製造プロセスを逆算できるかもしれない。
黒猫は小箱を懐に隠し、闇に消えた。
その背中には冷ややかな日本の視線が突き刺さっていたが、彼は振り返らなかった。
◇
そして現在、北京MSS地下実験施設。
最高レベルのバイオハザード対策が施されたラボに、中国全土から招集されたトップクラスの科学者たちが集結していた。
彼らの目の前には、日本から届いた「ゴミ」が、至宝のように並べられている。
「……始めようか」
主任研究員の陳(チェン)博士が、震える手で顕微鏡のスイッチを入れた。
まずは本丸。
『医療用キット(オリジナル)』の使用済みカートリッジだ。
中身は空だが、内壁にはわずかに液体が付着している。
さらに先端の針(ノズル)部分には、使用された際に対象者(モルモット)から逆流したと思われる微量な血液と、反応しきれなかったナノマシンの残骸が残っていた。
「サンプル採取。
スペクトル分析開始」
モニターに波形が表示される。
最初は意味不明なノイズに見えた。
だが解析が進むにつれ、科学者たちの顔色が蒼白になっていった。
「……あり得ない」
陳博士が絶句した。
「この残留物質……。
タンパク質構造をしているが、炭素結合の仕方が地球上の生物とは異なる。
いや、そもそも原子の振動数が違う?
どうなっているんだ?」
「博士! これを見てください!」
助手が叫び、電子顕微鏡の画像を拡大した。
そこには壊れかけたナノマシンの一粒が映し出されていた。
六角形の幾何学的な構造体。
だがその表面には、見たこともない微細な紋様――回路図のようなものが刻まれており、破損しているにも関わらず、微弱な光を放ち続けている。
「……生きているのか?」
「いえ、エネルギー反応はありません。
ですが、自己修復しようとして……ループしています。
プログラムが破損しているようですが、その断片だけでも……」
陳博士は画面上のデータを読み解こうとした。
そこには現代科学の数百年先を行く、超高度なアルゴリズムの残骸があった。
「『細胞再構築』『テロメア伸長』『遺伝子エラー修正』……。
断片的なコマンドだけでも神の御業だ。
これを完全な状態で制御できれば、不老不死どころか、新たな生命の創造すら可能になるぞ」
ガラス越しに見ていた李総理が身を乗り出した。
「博士!
その『神の薬』は再現可能なのか!?」
「……現時点では不可能です、総理」
陳博士は悔しげに首を横に振った。
「構造が複雑すぎます。
これを地球上の素材で組み立てるには、原子一つ一つを手作業で並べるような精度と、太陽並みのエネルギーが必要です。
日本が『100本しかない』と言ったのも頷けます。
これは工業製品ではない。
奇跡の結晶です」
「くそっ……!
やはり日本に頭を下げるしかないのか!」
劉将軍が壁を殴りつけた。
だが陳博士は眼鏡を光らせ、ニヤリと笑った。
「ですが総理。
絶望するのは早いです。
オリジナルは無理でも……こちらはどうでしょう?」
博士は視線を別のトレイに移した。
そこには灰色のインジェクター――『バンドエイドMK1』と『MK2』が置かれている。
日本が「劣化版」「量産型」と呼んだものだ。
「これらは構造が単純化されています。
オリジナルのような超次元的な機能はオミットされていますが、その分、我々の技術でも解析の余地があります。
……まずは、その効果を『実証』してみましょう」
陳博士の合図で、実験室の奥からストレッチャーが運び込まれた。
乗せられているのは一人の男だ。
手足を拘束され、猿ぐつわを噛まされている。
政治犯収容所から連れてこられた「実験体」だ。
「実験体番号4002。
反体制派の活動家です。
国家への貢献として、その身を捧げてもらいましょう」
張部長が冷酷に告げる。
男は恐怖で目を見開いているが、声は出せない。
「実験開始。
まずは『MK1(試作型)』から」
白衣の男が無造作にナイフを取り出し、男の太腿を深く切り裂いた。
鮮血が噴き出す。
男が身をよじり、苦悶の声を漏らす。
動脈に近い致命的な裂傷だ。
放置すれば数分で失血死する。
「投与」
陳博士が灰色のインジェクター(MK1)を患部に突き刺し、トリガーを引いた。
ギャアアアアッ!!
男の喉から、猿ぐつわ越しの絶叫が響いた。
激痛だ。
日本の死刑囚が味わったのと同じ、麻酔なしの強制修復。
傷口が泡立ち、肉が盛り上がり、無理やり塞がっていく。
グチュグチュ、バチチチッ……。
肉の焼けるような音と、細胞が悲鳴を上げる音が混じる。
見るに堪えない光景だが、観察者たちの目は輝いていた。
「……止血完了。
組織再生完了。
所要時間2分45秒」
陳博士がストップウォッチを止めた。
傷は跡形もなく消えていた。
男は白目を剥いて気絶しているが、脈拍は正常に戻っている。
「素晴らしい……!
これが『劣化版』だと?
十分すぎる性能だ!」
劉将軍が感嘆の声を上げた。
「戦場でこれがあれば、負傷兵の死亡率は激減する。
痛みを伴う? 構わん!
兵士なら歯を食いしばって耐えろ!
死ぬよりはマシだ!」
「では次に、本命の『MK2(量産型)』です」
陳博士は別の実験体――今度は女性の囚人――を用意させた。
同様に腕を骨折させ、MK2を投与する。
今度は悲鳴がなかった。
シュゥゥゥ……。
静かな音と共に、折れた腕が真っ直ぐに戻っていく。
女は驚いたように自分の腕を見つめている。
痛みがないのだ。
ナノマシンが神経伝達を遮断し、心地よい麻痺の中で修復を行っている。
「……1分30秒。
完治です」
陳博士が報告する。
MK1よりも早く、そして苦痛なく治った。
「これがMK2……。
痛覚遮断機能付きか」
李総理が唸った。
「日本は、ここまで完成度の高いものを量産化しているのか。
そして、これをアメリカに渡したと?」
「はい。
日下部参事官の話では、アメリカ軍での実証実験を進めるとのことです。
……我々にはゴミを渡し、アメリカには完成品を渡す。
露骨な差別です」
張部長が憎々しげに言った。
だが陳博士は興奮を抑えきれない様子で、MK2の空き容器を見つめていた。
「総理!
これは革命です!
MK2のナノマシン構造は、MK1よりも洗練されています。
制御チップ(プラスチックと基板の複合体)が組み込まれており、プログラムの書き換えが可能かもしれません。
もしこれを解析できれば……」
「我々でも作れるか?」
「……完全なコピーは難しいでしょう。
ですが原理を応用した『中国版ナノマシン』の開発は可能です。
5年……いや、国家の総力を挙げれば、3年で実用化の目処が立つかもしれません」
「3年か……」
李総理は計算した。
長いようで短い。
だがアメリカは、今すぐにでもこの恩恵を受けることになる。
その差は大きい。
「待てませんな」
劉将軍が断言した。
「3年も指をくわえて待っていたら、その間にアメリカ軍は不死身の軍隊を完成させてしまう。
それに、日本の技術革新スピードは異常だ。
3年後には彼らはもっと先へ行っているだろう」
「ではどうする?
日本からもっと奪うか?」
「いいえ。
日本は警戒を強めています。
新木場の警備は鉄壁。
マクドウェルの私兵まで張り付いています。
これ以上の深追いは、全面衝突を招きます」
張部長が冷静に分析する。
日本という「源泉」は、今はガードが固すぎる。
ならば狙うべきは——。
「……アメリカだ」
李総理が冷たい笑みを浮かべた。
「日本はアメリカに、MK2を『貸与』したと言っていたな。
実証実験のために」
「はい。
世界中の紛争地帯、アメリカ軍が展開しているエリアで、極秘裏に使用されるはずです」
「ならば、そこが狙い目だ」
総理は世界地図――中東やアフリカの紛争地域――を指差した。
「戦場は混乱している。
日本国内のような鉄壁の警備はない。
負傷した兵士、補給部隊、あるいは野戦病院。
……隙はいくらでもある」
「なるほど。
アメリカ軍から奪うのですか」
「『回収』と言え。
日本が我々に渡さなかった分を、アメリカ経由で頂戴するだけだ」
総理は張部長に指令を下した。
「海外に潜伏している工作員(スリーパー)を総動員しろ。
アメリカ軍の衛生兵、軍医、補給担当者に接触せよ。
金で買収してもいい、ハニートラップでもいい、力ずくでもいい。
『バンドエイドMK2』の現物を、未使用の状態で確保しろ」
「了解しました。
ターゲットは『MK2』。
最優先で確保します」
「それと、陳博士」
総理は科学者に向き直った。
「貴方はこのサンプルを使って、引き続き研究を進めろ。
特に『MK1』の製造プロセスだ。
劣化版でも構わん。
とにかく『中国製ナノマシン』の第一号を完成させるのだ。
……日本に『我々にも作れる』と証明してやる必要がある」
「はっ!
必ずや、中華の威信にかけて!」
陳博士は決意に満ちた表情で敬礼した。
彼らのプライドに火がついたのだ。
「日本にできて、中国にできないはずがない」という、強烈な対抗意識。
それが彼らを突き動かす原動力となる。
こうして北京の地下で、新たな陰謀が動き出した。
日本が撒いた餌(サンプル)は龍の胃袋を刺激し、さらなる飢餓感を生み出した。
彼らは日本を直接攻めるリスクを避け、矛先をアメリカの海外展開部隊へと向けたのだ。
これは日下部の計算通りだった。
中国とアメリカを競わせ、互いの足を引っ張り合わせる。
その間に日本は安全な場所から、高みの見物を決め込む。
……はずだった。
だが龍の執念は、日下部の予想を超えていた。
彼らは単に奪うだけでなく、「模倣し、改良し、数で圧倒する」という中国独自の戦い方で、このゲームのルールそのものを変えようとしていたのだ。
◇
会議が終わり、静けさを取り戻した『深淵の間』。
李総理は一人残され、サンプルの箱を見つめていた。
空になったオリジナルの容器。
その底にこびりついた、エメラルドグリーンの微かな染み。
「……日本よ。
お前たちは、何を開けたのだ?」
彼は呟いた。
怒りでも欲望でもない、純粋な畏怖が胸をよぎる。
この技術は、人類が扱うには早すぎるのではないか。
生命を弄び、死を克服しようとする傲慢。
それは、かつて始皇帝が求めて破滅した道と、同じではないのか。
「だが戻れん。
我々もまた、その道を進むしかない」
総理は箱を閉じた。
パタンという乾いた音が、終わりの始まりを告げる合図のように響いた。
外では北京の空が白み始めていた。
PM2.5に覆われた濁った空。
その向こう側で、見えない歯車が軋み音を立てて回り始めている。
アメリカ軍を標的とした「ナノマシン強奪作戦」のカウントダウンが、今、静かに開始された。
そしてテラ・ノヴァでは、工藤創一が何も知らずに、また新しい「何か」を作り出そうとしていた。
地球の混乱など、彼の工場の排気音にかき消されて届かない。
ただ拡張し続ける鉄と油の匂いだけが、宇宙の彼方へと広がっていくのだった。