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「空気、乾いてるのね」

助手席のマチコの髪が風にばらけると、白い首筋が見えた。

「でもそんな所、どうやって偶然見つけるの?」とマチコが聞いてきた。

健太は、住んでいたアパートの近くに小さな湖があったことから話し始めた。それは湖というには小さいが、池というには大き過ぎた。本当のところは人口の貯水池らしいが、地図にも湖として表記されている。彼は毎朝そのほとりを走るのを日課にしていた。

そこへ至る途中に緑のうっそうと茂った丘があり、通り過ぎるたびになんとなく気になっていた。ある朝、思い切って雑草をかき分けて登ってみたのがそもそもの発見だった。

「この大都会の中で緑に囲まれて、その上人影がなくってのんびりできるところってなかなかないもんだよ」

健太は、左右に流れていく街並みの中央でハンドルを握っている。道はゆるやかに曲がり、交わり、一本に束ねられ、分岐する。

よく観光バスが立ち寄るのを見かける市場が見えてきた。そこは観光客ばかりではなく近所の人も立ち寄るところで、強固そうな石造りの建物で囲まれた中央広場には天幕が張られている。健太はマチコに、そこを知っているかどうか尋ねた。

「もちろん知ってるわよ。それ、そこで買ったんだもん」

マチコは健太の首に架かる巻貝のペンダントを指差してきた。しっかりした鎖に繋がれたもので、彼の誕生日祝いにマチコがくれたものだった。

健太はハンドルから片手を離し、Tシャツから巻貝を取り出してみた。そしてマチコからこれをもらったとき、まるで義理チョコをもらったような気持ちになったことを思い出した。お礼は軽くしておいた。「本当にありがとう」なんて言えば、きっとマチコにきょとんとした顔をされたことだろう。

「でもそれ、安いからって馬鹿にできないのよ。うれしさや悲しさ、そんな気持ちが混じったときに握るといいんだって。そうするとね、明日に希望がもてるようになるんだって。店のおじさんが言ってたのよ」

何やら青臭いこという店員だね、と健太は答えた。

登り坂が終わると遠くの街並みが広がった。二つの尖塔の間にステンドグラスのある建物が見えた。この辺りで一番古い教会だ。街並みをキャンバスに喩えれば、クラシカルな色を加えている重要な建物でもある。明日からのマチコの生活には登場しない景色のはずだ。健太がちらりと見たとき、マチコの口は半分あいていた。

彼は、日本に帰ってからどうするつもりなのかと聞いた。「まだ考え中なのよ」とマチコは答えた。でも、料理関係の仕事につくんだろねと聞くと、「まだ分かんない。そんなことも含めて、帰ってからも連絡取り合えるといいね」とマチコは言った。

健太はギアをニュートラルに入れて、万有引力のままに車を転がした。

「それはある意味、ツヨシ次第だね。あいつがいつまで居候を許してくれるのか。それより、俺がいつ大家に見つかるかの方が先かな」と彼は笑った。

「いい加減、コンピューター買ったら? 中古なら安いと思うよ。そしたら健太君通してみんなとメールで連絡取れるし」

引越し代の出せない男にできることかな、と健太は答えた。

車線を端に移し、右ウインカーを立て、エンジンブレーキをかけて減速し、ブレーキペダルを数回ポンピングしながらクラッチを切って二速に落とし、ハンドルを右へ切って大通りからおさらばした。すると、人気のない一方通行の狭い急坂に出た。ギアを一速に切り下げるとエンジン音が一層大きくなった。そのまま坂の中腹まで登ると、ハンドルをめいいっぱい廻してからエンジンを切った。

「思い切り廻すのね」と、マチコがものめずらしそうに言った。

健太はこうするのがこの州の規則なんだと答えた。ハンドブレーキが壊れている車が急坂に路駐すると、車が坂を降りてきてしまいかねない。しかし道路の内側へ向けてハンドルを切っておけば、万一のことがあってもタイヤは路肩石にぶつかって留まり、災害は免れるというわけだ。急な坂のないところや整備の行き届いた車にとってはペーパールールかもしれないが、実際にハンドブレーキの甘い健太の車には実用スキルと言えた。

車を降り、坂をやや下ったあたりから草むらに入った。背後のマチコとの距離は、草の摩擦音でわかる。一本縄の道は、最初は平行に、徐々に上へ向かって伸びている。

ザワザワする音が消えた。振り向くと、マチコはサンダルのかかとを土にとられて立ち止まっていた。健太はそこまで戻って手を差し出すと、マチコはありがとと言って握り返してきた。指先から伝わってくるやわらかな感触がひどく久々なものに感じる。

飛行機が水平飛行になるときのように、道はなめらかに平原へとつながった。

緑一面の丘の上には、伸ばした両手が半径となる太さの木が一本立っている。葉が足元に影をつくっている。丘のふもとにあって見えない大通りの向こうには湖が横に広がっていて、向こう岸の緑を映し出している。

マチコはそれらを見渡して、深呼吸一つしてから、根っこの上にハンカチを敷いて足を前に伸ばした。健太は隣に座ると幹に寄りかかった。

対岸の丘に家が点在する姿は、さながら季節はずれのクリスマスツリーだ。健太は、マチコ達の住む家があの中にあることを教えた。

「ってことは、あの湖はバス停に下りる途中に見えるやつなのね」

小鳥がピッコロフルートのような高い音で鳴いている。

マチコはふぅ~っと長い息を吐いた。

「この三ヶ月、ミエには本当に世話になったわ」

マチコとミエは調理の専門学校時代の友達だということを、このとき初めて知った。特にミエが、料理は好きではないと言っていたのを一度聞いたことがあるので、それは意外でもあった。但しマチコについてはうなずけた。マチコが自作ドレッシングを披露したときの自慢げな表情や、イカ墨スパゲッティをテーブルに置いたときに皿を少し回転させる姿を健太は思い出していた。それは、マチコが去ったあとのマラソン邸には決して現れ得ない映像だった。健太は顔の向きをマチコの向こう側へと変えた。

「あの橋、見えるかな? 蛇行してる川の近くの。あの銀のスプーンのような橋。その向こうに、マッチャンがツヨシ達と行ったっていうショッピングモールがあるんだよ」

マチコはそんな最近のことを、いかにもなつかしそうな目で見ながら、ツヨシのこと、ミンのこと、そして彼らにどれだけ感謝してるかについて静かに語った。

健太は、マチコがなぜ留学することにしたのか、しかもなぜわざわざこの街を選んだのかについて聞くと、彼女は町の上に浮かぶ白い雲を目で追いながら、去年の秋まで三年間ほど調理学校で事務をしていたことを語り始めた。その間、なんとなく海外に行ってみたいと考えていた。去年の春にミエが二年間の語学留学に旅立ってからは、一度遊びに来るようにと何度か誘われていた。仕事を辞めたとき、機が熟したのだと語った。

健太は、英語を学んで料理の勉強に生かしたいのがその理由なのかと聞くと、マチコは首を横に振った。

「実は、料理はもういいと思ってるのよ。その世界だけしか知らない人にはなりたくないの。これからは、他に何ができるのかを探していきたいのよ」

健太は、この国にいる間にそれは見つかったかと尋ねた。

「まだ日が経ってみないと分からないよ。それに、日本に帰ったらすぐ職探しも平行しなければならないし」とマチコは言った。

仕事については、ツヨシが元いた映画会社の連絡先を教えてくれたというが、今はまだ連絡するかどうかは分からないという。

「今度こそ、ケンタ君の話聞かせて」マチコは橋向こうの町を包む遠い空から健太に視線を変えた。

今度こそって、それどういう意味だよと彼は言った。

「前に同じ質問したときに一度はぐらかされてたことがあるわ」と言ってマチコは横を向いた。健太にはそれがいつのことなのか思い出せないまま、マチコへ視線を落とした。

これまでそう思ったことは一度もなかったけれども、横顔がどこか似ている。それは、耳や鼻や歯の形が似ているというわけではない。微妙な一瞬、例えば後頭部に手を充てるときのしぐさや、そのときの表情がどこか似ている。健太は急いで視線を外した。湖と目が合った。

「そういえば、あの周りを毎朝走ってたんだよ。普通に走って、一周三、四十分くらいはかかるね」

緑の湖面を見つめているうちに、最後にこの風景を眺めた日のことが蘇ってきた。あのときも、人の夢ばかり聞いていて自分のことは話さないと非難されていた。

「何黙ってんのよ。ねえってば。私だけ話してずぅるぅいぃ」

マチコは健太の腕をつかんで揺すっている。そこに、普段は大人びて見えるマチコの中の少女が見えた。

「話すことなんて何もないよ。どうしてそんなに知りたがるんだ」

マチコは一呼吸置いた。

「それは、ケンタ君に魅かれてるから」

健太はマチコの顔を見た。彼女はそろえた自分のつま先を見つめている。

鳥の鳴く声が聞こえる。風が葉を揺らす音が聞こえる。

「そんなの、全然気付かなかったよ」

「そりゃそうよ。私も気持ち、見せなかったもん」

木の葉と葉の間から漏れる陽が、マチコの脱げかけた白いサンダルの素足に揺れている。

「だって、君はツヨシやミンとも仲がいいし」

「でもね、それはあなたとは意味が違うのよ」

丘の下から車の走る音が聞こえる。少しずつ大きくなり、少しずつ小さくなって消えた。

「このこと、誰も知らないよね」

「ミエ以外はね」

湖面は静かなたたずまいで、ひっそりとしたままだ。

「かなり悩んだわ。あのコ、よく話聞いてくれた」

マチコは風になびく髪を耳の後ろで押さえた。

「何て言ってた?」

「初めはそれはよくないとかいろいろ言ってたけど、最後はしょうがないんじゃんって、向こうが折れた」

マチコは笑ったが、その表情が消えたとき彼の瞳を覗いた。

「もちろん何度も気持ち消そうとしたわ。でも、だめだったの」

マチコの頭が健太の腕にじんわりよりかかっていく。健太は彼女の肩にそっと手を廻した。彼女の細い体から力が一気に抜けるのを腕の中に感じる。

肩幅が違う。その感触が違う。

腕の柔らかさが違う。太さが違う。

前腕の長さが違う。

手首の細さが違う。

手のひらの形、しめりけ、大きさも違う。指の長さ、太さも違う。

マチコが健太の胸に埋まっていく。

頭の形が違う。大きさが違う。髪の手触りが違う。長さが違う。シャンプーの香りが違う。全て、奈々と違う。

マチコは顔をあげると、健太の口元に視線を向けた。

「ミエに言ったの、彼がいるのに好きな人ができちゃった。いいのかなって」

健太はマチコの頭のてっぺんからゆっくり髪をひとなでして、その手をそっと離した。

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