「────何ですって?」
穏やかな中にも隠し果せない焦りを滲ませた様な声が背中に投げ掛けられ、背の高い掃き出し窓からバルコニーに静かに降り積もる雪を見ていた女性が顔だけを振り向ける。
「もう一度言ってちょうだい。今何と言ったの?」
私の聞き間違いでなければ彼氏がいるようだと聞こえたのだけれどと、柳眉に愁いを帯びさせた顔だけではなく、身体全体で振り返った女性が肩を竦め、部屋の中央のソファにゆったりと足を組んで腰を下ろした男性の傍に歩いていく。
「間違い無くそう言ったんだよ」
「・・・・・・あの子に彼氏がいる、ですって・・・?」
マイセンか何処かの白く繊細なカップで最高級の茶葉を用いた午後のお茶を喉に流し込み、ソファの肘置きに手を着いて身を屈める女性の言葉に無言で頷いた男性は、丁寧に撫で付けてある金髪に手を宛がった後、茶封筒にしまっていた数枚の写真を取りだして女性の鼻先に突きつける。
男性の横に長い足を組んで腰掛けた彼女は、その写真を一枚ずつじっと見つめ、最後に添付された報告書を読み進める。
嘆息混じりに写真と報告書に目を通す女性だが、そこに映し出されているのは穏やかな表情で隣で笑う青年の髪の乱れを整えている姿や、街の何処かのカフェらしき店先で二人連れ立って出てくる姿、くすんだ金髪を首筋の後ろで一つに束ねただけの、一見しただけでは職業などが想像出来ない青年が煙草を咥えて人待ち顔でぼんやりとカフェの椅子に腰掛けている姿で、報告書に書かれているのは、くすんだ金髪と驚くほど澄んだ青い瞳でこの写真を撮った人間が見えているのではないのかとつい訝りたくなる程真っ直ぐに見つめている青年の職業が刑事で、ソファに腰掛けた二人にとっては掛け替えのない青年の恋人という文字だけだった。
「信じられないわ」
「私も最初は信じられなかったよ」
女性の言葉に男性が微苦笑混じりに肩を竦め、彼女の手から写真を受け取ると同時に僅かに困惑の色を顔に浮かべて身体ごと彼女に向き直る。
「その報告書に間違いは無いの?」
「間違いであって欲しいとは思うけれどね」
恐らく間違いは無いだろうと、己の希望的観測をいとも簡単に覆した男性に女性が真っ直ぐに伸びた見事なブロンドを左右に振って何てことと呟き、白く長い指で口元を覆い隠す。
「何てこと・・・!」
己がたった今見聞した事実が信じられないが、もしそれが事実ならば耐えられないと頭を振った彼女は、隣に座る彼の腿に手を着いてどうするつもりと詰め寄る。
「直接確認するのが一番だろうね」
ただ、私はあの子の顔を見るどころか声すらロクに聞かせて貰えないのだから手出しできないと、この時ばかりは悲哀を滲ませた顔で首を振られ、彼女も似たような顔で唇を噛みしめる。
今自分達の話題に上っている青年と男性の間に横たわる、深くて広い溝の存在は彼女が誰よりも知っていて、その溝がいつか消える事を最も強く願っているのもまた彼女だった。
その為、告げられる言葉と表情が彼女の胸を締め付け、苦しそうに眉を寄せた後、意を決したように顔を上げて目の前の端正な顔にそっと手を伸ばして目を細める。
「分かったわ。私が行って確認してくるわ」
「こんな事は他に頼めないのでね。────頼むよ、エリー」
私たちの大切な子がこの先不幸な目に遭わない様に、どうか確かめてきて欲しい。
彼女の慈愛に満ちた目に僅かに目を伏せた彼、ギュンター・ノルベルトは、分かっているわと囁きながら腕を回して抱きしめてくる妹、アリーセ・エリザベスの細い身体をしっかりと抱き寄せて目を閉じる。
「年が明けてからになるけれど、お友達同士で集まろうと決めたのよ。ホテルの予約をしなければって思っていたから、あの子の家に泊まらせて貰うわ」
「・・・決して無理強いはするんじゃないよ、エリー」
何はさておき、無理強いはあの子が最も嫌うことだと妹に念を押すように告げた兄は、分かっているわと返されて安堵の吐息を零し、自分と妹の為に紅茶のお代わりを持ってくるようにと家人を呼んでお願いをする。
「そう言えば、ミカの調子はどうなんだい?」
「このシーズンは調子が良かったからちょっと浮かれてるって。でもあまり浮かれていると怪我をすると自分でも言っているわ」
新たな紅茶が運ばれてくると兄妹は話題を切り替え、ラリードライバーであり妹の夫であるミカの調子に一頻り花を咲かせる。
「シーズンはまだ始まっていないし、少しぐらいなら離れていても大丈夫よ」
紅茶の湯気に目元を緩めた後、その芳香を楽しみながら楽しそうに笑う彼女に彼もよく似た表情で笑みを浮かべ、今回は優勝は逃したものの、どのレースでも上位に食い込んでいた事を思い出し、次のシーズンで優勝すれば何か贈り物をしなければならないねと、いつからか浮かべるようになった穏やかな笑みで妹に頷く。
「そうね・・・でも贈り物よりも、休暇の時にクルージングに付き合って欲しいって言っていたわ」
もしあなたさえ都合が良いのならば北海のクルージングに付き合ってあげてと夫の為にお願いをし、紅茶を飲み終えた彼女はそっとソファから立ち上がると再度背の高い掃き出し窓の前に向かう。
朝から降り続いた雪は止む気配がなく、屋敷を取り囲む木々の上に白く重く降り積もっていく。
時折ばさばさと音を立てて落ちる雪の塊に目を細め、つい昔を懐かしむように目を細める。
あの事件さえなければ、自分達の間にはいつも笑顔を浮かべて楽しそうにしていた、何よりも大切な弟がここで一緒に暮らしていたはずだった。
だが事件に巻き込まれた結果、弟と兄と父の間には深くて広い溝が口を開けてしまい、事件から20年以上が経過する今もそれは口を閉ざすことを激しく拒絶しながら存在していた。
どうあっても閉ざされない溝から吹き付ける冷風と、その風を生み出している弟の冷たい碧の目を思い出し、身体の周りの空気が一気に冷え込んだ様に感じて己の身体を抱きしめる。
「・・・・・・寒いわね」
「そうだね。風邪をひかないように気をつけなさい、エリー」
「ええ。あなたもね、ノルベルト」
優しい声に同じく優しく返したアリーセ・エリザベスは、再びばさばさと落ちる雪を見つめ、少し先の未来に思いを馳せてくっきりと眉間に皺を刻むのだった。
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