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テラーノベル(Teller Novel)
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日中はさすがに暑さを感じる日も増えてきたある日の夕刻、いつものようにクリニックの事務を一手に担ってくれている彼女と一日の疲れを労い、明日もよろしくと挨拶を交わした彼は、この後の予定を思い浮かべて微かに笑みを浮かべる。

仕事中は患者に対してのみ見せる表情があり、それから比べると柔らかさが増している事に気付いた彼女が、重厚な木の扉を手で押さえながら振り返って茶目っ気たっぷりに目を細めた。

「今夜はデートかしら?」

「ゲートルートで食事の後映画だな」

「良いわね。楽しんできてね」

「ああ」

嫌味ではないその言葉に素っ気ない返事をした彼は、帰り支度を診察室の横にある小部屋で行いながら今映画を見るといったものの、ディナーを食べた後は恋人の家でゆっくりとしても良いと決め、診察時には必ず着用するジャケットを脱いでお気に入りのブランドのジャケットを腕に引っ掛けて小部屋を出る。

今夜は何とか仕事が早く終わりそうだと連絡が入ったのは、午後の最終の診察を終えた直後だった。

早く帰って来られるのならば食事をして映画でも見に行かないかと誘えば、嬉しそうな返事があった為、用意をして待っているからクリニックに寄ってくれとキスと一緒に伝えたのだ。

そろそろこちらに向かっているという連絡が入っても良い頃だと、窓際にあるデザイナーズチェアの肘置きに尻を載せて窓の外を見た時、実は秘かに待ち望んでいた恋人からの着信を告げる映画音楽が流れ出した為、浮かれている気分を悟られないように咳払いをした後ボタンを押す。

「────Ja」

『ハロ、オーヴェ』

いつものように陽気な声が聞こえてきて、無意識に安堵の溜息を零した彼は、肘置きから腰を浮かせて窓に手を付いて眼下の石畳を見下ろす。

「もう終わったのか?」

『ああ、うん。さっき終わった』

「そうか」

ならばそろそろクリニックを閉めても良い頃合いだろうと頷き、そろそろ着きそうだとの言葉を待つが、聞こえてきたのは意外な一言だった。

『悪い、オーヴェ。ちょっと急用が入った』

「…仕事か?」

付き合い出して半年以上は経過した恋人だが、二人で過ごす予定をキャンセルしてきた事など今まで一度として無かった為、ぱちぱちと瞬きを繰り返して思わず声を潜めてしまう。

『いや、ちょっと外せない用事が入った』

「そうか」

ならば今夜のディナーと映画は後日に延期だなと、心の内側に溢れる落胆を何とか押し隠して平静さを装って頷けば、電話の向こうから心底安堵したような吐息が伝わってくる。

『ホントごめんな。今度埋め合わせをする』

安堵したような吐息と同じ思いで謝罪をされてしまい、気にするなと何とか返すことが出来た彼は、その後の会話を何となく上の空で続けてしまい、気がついた時には通話を終えた携帯を軽く握って窓枠に尻を載せている状態だった。

「……帰るか」

今夜の予定が一気に変わってしまった事に苦笑し、気分転換に久しぶりに幼馴染みが腕を奮うレストランに出向いても良いと頷き、握っていた携帯で友人に連絡を取る。

『久しぶりだな、一人か?』

「ああ。大丈夫か?」

『お前一人なら全く問題は無いね』

だからいつでも好きな時間に来いと、忙しさを滲ませながらも笑顔を絶やさない声で告げられてしまい、言い知れない安堵の思いを抱く。

幼い頃からの付き合いのある親友の優しい声に胸の裡で感謝をし、一人で店に訪れるのだから何か手土産でも用意しようと思い立ち、今話題になっているドーナツを売っている店に向かう段取りを脳内で組み立てるのだった。


久しぶりに一人で訪れた親友の店は相変わらず繁盛していて、席に案内してくれる店員の額にも汗が浮いている程で、案内しようとする店員を手の合図で押し止めて一人の時に使うテーブルに自ら向かい、買ってきたドーナツを置いてネクタイのノットを少しだけ緩める。

彼が家以外でこんな風にネクタイを緩めるのはこの店のこのテーブルに着いた時だけで、オープンカウンターになっている厨房の中からひょっこりと顔を出した親友がにやりと笑みを浮かべて彼にお疲れ様と労う。

「今日は車か?」

「ああ」

「じゃあアップルジュースでも飲んで待っていてくれ」

ちょっと今手が離せないと、顔中に汗を浮かべながら料理を仕上げていく親友に素っ気なく頷き、勝手知ったる何とやらと言うようにすっかりと寛いだ表情で厨房の端にある冷蔵庫からボトルとよく冷えたグラスを取りだして栓を開ける。

彼が座っているテーブルはカウンターに隣接するように置かれてあり、決して広くない店の入口からは直接見えないように、蔦が絡むデザインのパーテーションの陰になるようになっていた。

普段はオーナーシェフのベルトランや従業員がここで食事をしたり作業をしたりする場所なのだが、彼、ウーヴェが一人でやって来た時にはこのテーブルは彼専用の席になるのだ。

そのいつもの席に腰を下ろし、まるで自宅で寛ぐようにアップルジュースを飲んでいると、オーナーシェフと彼が親友である事を熟知している従業員がオーダーを運ぶついでに顔を出していき、あっという間に彼が座るテーブルの上にはプレッツェルだのピクルスだのチーズだのが何種類も並び始める。

これだけで腹が膨れそうだといつも苦笑するウーヴェに対し、チーフを筆頭にだからそんなに細いんだ、もっと食って下さいと睨むほどだった。

今夜もいつものように睨まれつつピクルスを摘んでいると、新たな客がやってきた事を告げるカウベルが鳴り響き、チーフが元気よく出迎える。

その声を何気なく聞いていたウーヴェだったが、遣り取りの合間に聞こえる声に聞き覚えがあり、思わず眉を寄せて聞き耳を立ててしまう。

それは、小一時間ほど前、急用が入った為にデートのキャンセルをしてきたリオンのものだった。

付き合い出してまだ一年は経っていないが、いくら何でも恋人の声は聞き間違えない自信があった彼は、パーテーションの蔦の合間から入口へと視線を向けて激しく後悔をしてしまう。

入口にいたのは彼の予想通りリオンだったが、その横に長い髪をさらりと掻き上げ、今夜は何を食べさせて貰えるのか楽しみだと心底嬉しそうに笑いながらリオンと腕を組む女性がいたのだ。

チーフがどうやら自分がいるテーブルからは絶対に見えない位置、つまりは入口から遠い窓際のテーブルにリオン達を案内したようで、話している声は聞こえなくなったが、彼の脳裏には一瞬のうちにいくつもの疑問が渦を巻き始める。

急用が入ったと電話で話していたが、彼女との食事が断れない急用だったのだろうか。

チーフの口振りからすれば予約を入れていた様にも感じ、自分とのデートと彼女との食事の一体どちらを先に予定していたのかと疑問が浮かぶが、今日は仕事が早く終わりそうだと連絡を寄越した時、今やっている映画を見るのが楽しみで、キャラメルと塩の2種類のポップコーンを買うとまで言い放っていたぐらいなのだ、彼女との約束を先にしていたとは考えにくかった。

だが今、恋人は自分との約束を断り、見知らぬ女性と食事に来ている。

彼女とは一体どんな関係なのかという問いがぐるぐると脳内で渦巻き、どうあっても考えたくはないが自然と思考が流れついてしまう一言を脳味噌が弾き出した時、自分を呼ぶ小さな声に気付いてのろのろと顔を上げれば、カウンターから身を乗り出すようにしたベルトランと視線がぶつかる。

「……ヴェ、ウーヴェ」

「何だ?」

「あいつがここに来ることを知らなかったのか、お前?」

ベルトランからすれば当然の問いに沈黙で答えたウーヴェは、どういう事だと問われてそっくりそのままその言葉を返すと冷たく言い放って親友を沈黙させてしまい、心配で声を掛けてくれる友にさえもそんな態度を取ってしまう己に内心嘲笑する。

「おまかせが二つとアプフェルヴァインが二つです」

「了解」

チーフの言葉に気分を切り替えたベルトランが返事をし、オーダーの準備に取りかかる前に素早くカウンターの中からテーブルへと回り込んだかと思うと彼の横にしゃがみ込む。

「車は明日にでもクリニックに持って行ってやる。裏口から出ろ」

「────バート…」

冷たい言動を取ろうとも呆然とした顔を見せたとしても、彼の心の奥底にある思いをしっかりと見抜いているベルトランに口早に告げられた事に咄嗟に返事が出来なかったウーヴェの口から出たのは、幼い頃舌足らずに呼んでいた懐かしい呼び方だった。

それに頷いたベルトランがウーヴェの肩を撫でた後に厨房へと戻る姿をぼんやりと見送り、栓を開けてしまったアップルジュースを飲み干すと、愛車のキーをテーブルに残して親友の忠告に従って裏口から店を出る。

従業員や仕入れ業者だけが通るドアを潜る直前、楽しそうに見知らぬ女性と笑うリオンの声が聞こえた気がしたが、名付けることの出来ない感情と痛みと、生まれて初めて感じる類の恐怖から振り返ることが出来ず、震える手でドアを閉めるのだった。




今まで付き合ってきた彼女達には感じたことのないものが胸の中に溢れかえり、苦い何かを伴って喉元を迫り上がってくる。

それを何とか飲み下すが、その痛みなのかそれとも別のものなのか、痛みが広がった後にじわりと苦みが広がっていく。

胸に広がる痛みと苦みを堪えるように歯を噛みしめ、白とも銀ともつかない髪を苛立たしげに掻き上げて握りしめる。

今までこんな思いを抱いた事は無かった。

経験した事のない感情に囚われてしまう、その思いが脳裏を過ぎった瞬間、親友の店を出る時にも感じた恐怖が全身を襲い、無意識に身体を震わせてしまうと同時に別の言葉が浮かんできて消えることなく脳内でしつこいぐらいに谺する。

何時かの時、冗談で自分以外に付き合っている女性がいれば紹介してくれと告げたが、今夜見たあの女性がもしそうだとすればどうする。

自分といる時にはあまり見ることのない、おそらくはリオンが全く意識することのないごく自然な表情で仲が良さげに腕を組んでいたが、あの彼女ならばどうすると、聞いた事の無いような、だが確実に己の声が囁きかけてきて、きつく目を閉じて頭を抱え込むように身を丸める。

あの時は冗談で言ったが、まさか本当に二股を掛けているのだろうか。

普段であれば考える事すらバカらしい言葉が次々に浮かんでは消えることなくこびり付いていき、いつしか気がつけば脳裏に溢れかえる言葉の総てが彼女に対するものになっていた。

そんな事など経験した事のないウーヴェにしてみれば、今この瞬間の己がとても大の大人の取る行動ではない気がしてしまい、形の良い唇を自嘲に歪める。

例えば彼女との食事が本当に外せない急用だというのならば、最初にそう言ってくれれば良かったのだ。

友達づきあいもそれなりに理解しているつもりだから、女友達や同僚と食事に行こうが飲みに行こうが口を挟むこともないし嫉妬することもない。

ただ、教えて貰えなかった、その一事がウーヴェから日頃の冷静さを奪い取り、また考える事のない事ばかりを思案させてしまっていた。

己に苛つき自嘲しながら何度も何度も寝返りを打っていたウーヴェの耳が、その時になってやっと脳内で響く声以外の音を聞き分ける。

それはサイドテーブルに置いていた携帯が鳴らす映画音楽だった。

ただ一人を示すその音にびくりと肩を揺らし、音の方へと寝返りを打って手を伸ばそうとするが、胸の奥に居座っている痛みが手を押し止めてしまう。

何時かの夜も居留守を使ったことがあったが、未だに鳴り続ける映画音楽を初めて疎ましいと思いつつ携帯を何とか手に取る。

「…Ja」

『悪い、寝てたか、オーヴェ?』

聞こえてきたのは、数時間前に思いもかけない場所で聞いてしまった陽気なそれと何の変化もない、いつしか聞き馴染んでしまった明るい声だった為、腹の前で拳を握ってしまい、眉根をきつく寄せて口を閉ざす。

『オーヴェ?』

「…ああ」

『そっか。今日はごめんな』

断れない急用が入ったと、心底申し訳なさそうに告げられた瞬間、伏せていた身体を勢い良く起こし、枕に拳を叩き付ける。

『オーヴェ、どうした?』

「……何でもない…」

『本当に?』

心配だけを滲ませたその問い掛けに、今まで堪えていた何かが堰を切って溢れ出す。

自分との約束を断り、見知らぬ女性とデートをしても黙ったままでいられるその心境が理解出来なかった。

彼女の存在は自分には教える必要がない、または黙っておきたい関係と言う事なのだろうと結論づけ、その苛立ちを抑えることが出来ずに肩を揺らし、唇の端を嫌な角度に持ち上げてしまう。

「何も無いと言っただろう?」

聞こえなかったのかと、まるで出逢った当初のように冷淡に言い放ち、もう寝るから電話を切るぞと告げると、小さな小さな溜息が聞こえた後、お休みという毎日聞いている言葉が流れ出し、いつものように小さなキスも伝わってくる。

通話が切れた携帯を握りしめていたが、ボタンを押してサイドテーブルに戻したウーヴェは、ベッドから抜け出すと裸足のままキッチンへと向かい、冷凍庫でよく冷えているウォッカのボトルを取りだして乱暴な手つきでグラスに注ぎ、一息にそれを飲み干して矢継ぎ早に二杯目を飲み干す。

グラスをシンクに置きウォッカを冷凍庫に戻した後、力なくベッドルームに戻ったウーヴェの耳に飛び込んできたのは、着信を告げる機械音だった。

「…Ja」

『まだ起きてたか?』

電話を掛けてきたのがベルトランだと気付き、ベッドではなくソファにどさりと座ったウーヴェは、偶々起きただけだと気怠げに返す。

『偶々起きてやけ酒でも飲んだのか?』

「……寝るから切るぞ」

ベルトランの総てを見抜いているような言葉にも気怠そうに返し、先程リオンに告げたように電話を切ると言えば、やけ酒なら付き合ってやるぞと返されて沈黙する。

「バート…スパイダーは」

『ああ。ちゃんと家にあるから安心しろ』

ベルトランと呼ぶのが面倒で、幼い頃ずっと呼んでいた愛称で呼べば、いつもどんな時も傍にいて自分を見守ってくれていた親友が変わらない雰囲気で教えてくれる。

幼い頃からずっと感じていた安心感に尖っていた心が自然と丸くなり、深々と溜息を吐いたウーヴェに安堵感丸出しの笑い声が届けられ、何だと首を傾げる。

『久しぶりにお前のそんな声を聞いたと思っただけだ』

「……うるさい」

哺乳びんを咥えていた頃からの友人にはさすがに隠し事は出来ないようで、もう一度溜息を吐いたウーヴェがのろのろと起き上がり、ソファからベッドルームに移動し、そっとベッドに寝転がる。

『明日は電車通勤か』

「仕方ないだろう?」

もう一台の愛車は実家に置きっぱなしにしているし、何しろ店の入口に近い場所に今夜はスパイダーを停めていたのだ。裏口から出てのこのこと取りに行ける訳もなく、愛車のキーをテーブルに残してウーヴェは店を出た為に明日は電車で通わなければならなくなったのだ。

『そりゃそうだな』

「明日ガソリンを入れてきてくれ」

『は!?』

「そろそろ給油しなければならなかったんだ」

丁度良かったと今夜初めての笑みを浮かべれば、何て人使いが荒いんだお前はと呆れたような声が聞こえてきて、何か言ったかと問い返す。

『領収書はお前の名前で良いんだな?』

「受け取らないから好きにすればいい」

『このアクマ!!』

「……うるさい、ぽよっ腹」

ベルトランの低い呟きに思わず素直に言い返せば、誰がぽよっ腹だ、まだそこまで出てないと電話口で騒がれてしまい、携帯を耳から離して顔を顰める。

「…なぁ、ベルトラン」

『何だ?』

はぁはぁと荒い息を繰り返す親友に苦笑し、他愛もない話をしていたウーヴェだったが、本当に聞きたい事はもっと他にあった。

それを聞こうかどうしようか思案しつつ名を呼ぶが、今まで己が忌避してきた態度そのもののように思えてしまい、どうしてもその問いが喉から出なかった為、溜息交じりに何でもないと告げると、心底呆れた声が返ってくる。

『そんな声で何でもないなんて言って信じるヤツがいるか?それともお前のキングは信じるのかよ?』

「…………うるさい」

『すぐにうるさいって言う癖を何とかしろよ、ウー』

ウーヴェの心が引っかかりを覚えていること、またそれを問い掛けようとして止めた事をしっかりと見抜いたベルトランが、こちらもまた幼い頃にずっと呼んでいた呼び方をするとさすがにウーヴェが沈黙してしまう。

『キングに言えない事でも俺には言えるだろ?言えよ、ウーヴェ』

嫌らしい意味でも何でもなく、文字通り素っ裸の付き合いをしてきた自分にまで隠すような事かとウーヴェを心底慮る声に促され、問い掛けようとしては押し止めていた言葉を躊躇いがちに伝えれば、返ってきたのはお前が心配するような関係ではないのではないかという疑問符付きのものだった。

『どうも昔の彼女って雰囲気じゃなかったな。当然今のって感じでもなかった』

どちらかと言えば親戚の姉と言った感じがしたと言われて目を瞠るウーヴェの脳裏、断片的に聞かされた恋人の生い立ちが思い出される。

クリスマスイブの夜、まだ臍の緒がついていた姿で教会に捨てられていたそうで、大きくなった今まで彼は己の肉親を捜したことはないと言っていた。

どんな事情があるにしろ、まるで犬猫のように自分を産むだけ産んで捨てた親の顔など見たいとも思わないし、正直なところ見たら何をするか分からない。

その言葉を聞かされたのは、市内を流れる川も凍り付きそうな真冬の夜だったが、ぽつぽつと語る恋人の顔と声には感情らしきものは全くなく、外気の低さに負けず劣らずのそれに身体を震わせ、そんな冷たい世界に一人になる必要は無いと、つい大きな背中に腕を回してしまった事もあった。

そんな恋人がやるせない出来事に遭遇した時に折に触れ話すのは、己は独りだと言う聞かされるウーヴェにとっても辛い言葉だった。

ホームで世話をしてくれたマザー・カタリーナを筆頭に、シスター達は家族のようなものであっても家族にはならないし、決してなれなかった。

自分は家族のような存在に囲まれていたとしても孤独なのだと、淋しさよりも底知れない深くて昏い闇を覗き込んだ時のような恐怖を滲ませながら目を細める恋人の顔は、常日頃の様子からは全く窺い知ることの出来ないもので、さすがにその顔を見せられた時はウーヴェの全身から血の気が引いてしまうほどだったが、お前は独りではないと、有りっ丈の思いを込めて囁くことしか出来なかった。

そんな恋人に親類縁者がいて互いに名乗り合ったとしても、あのような自然な雰囲気で食事をする事が出来るだろうか。いつの日か和解できる日が来るのかも知れないが、今はまだ到底考えにくい事だった。

その思いから苦笑混じりに問い返せば、自分と姉のアリーセ・エリザベスのようだったと返されて口を閉ざすと、だから親戚の姉か何かかと思ったと、頭を掻きながら告げている事を彷彿とさせる声で言われ、天井を見上げて思案する。

ホームのシスターならば親友が感じ取った雰囲気になったとしても不思議はなかった。

だが、それは有り得ないと即座に己の問いを否定する。

事情の有無は兎も角、シスターならば服装を見ればすぐに分かることが多いのだ。

あの時、少しだけ見た彼女の身なりでシスターだと一目で分かる様なものは何一つ無かった。

『お前とうちに来る時ともちょっと何か違ってたぜ、キング』

「………分かった」

明日聞いてみると辛うじて伝えたウーヴェは、酒の力なのかそれとも友の力なのか、やっと訪れそうな睡魔に気付いてそろそろ寝ると伝えれば、明日ガソリンを溢れんばかりに入れてクリニックのあるアパートに突っ込んでやると笑われて鼻で笑い返す。

「バカな事を言ってないでちゃんと入れて来い。特売のレギュラーなんかを入れてくるなよ」

『それが物を頼む時の言葉かよ!』

「耳元で騒ぐな」

『携帯で喋ってるんだから耳元で騒いで当たり前だろうが!全く…!朝一番に持って行くんだからな、朝飯食わせろよ!』

「……インビスのカリーヴルストとゼンメルで良いか?」

『オーゴット!信じられないねっ!』

ああヤダヤダ、キングにならば朝一番で最高に美味いメシを作ってやる癖にと天を仰いで嘆息する顔が思い浮かぶ声に何故行動が読まれているのか訝りながらもついくすくすと笑い、ありがとうと伝えればどういたしましてと真剣な声が返ってくる。

「────ダンケ、バート」

『あまり深く考え込むなよ、ウー。お前は一度考え込んだら反動が大きいんだからな。しっかりと体調を整えてから出勤しろよ』

「ああ。そうする…」

じゃあな、お休みと告げて通話を終え、使い心地の良い枕に頭を預けて天井を見上げる。

電話だけで総てを察してくれる幼馴染みの心遣いがただありがたくて、コンフォーターの上で手を組んで無意味に天井の模様を目で追い掛けると、脳裏に浮かぶのはベルトランが感じたあの女性と恋人との関係だった。

昔や今の彼女とは違う雰囲気だと教えられたが、パーテーションの隙間から垣間見た彼女の表情は好きな男を前にした女の顔だった。

リオンほどではないにしてもそれなりに女性との付き合いをしてきたウーヴェは、女性があのような表情を浮かべる場を何度となく見聞しており、これに関しては確信があった。

だが親友が感じ取ったのはまた違う雰囲気だったようで、彼の人を見る目も侮りがたかったが、己が見た彼女の表情と親友が感じ取ったものとの相違を埋める言葉も情報も持ち合わせていない苛立ちについ舌打ちをし、寝返りを打って頭を抱えるように腕を上げる。

脳裏を巡るのは恋人の笑顔と女性のそれと親友の言葉、そして酷く傷付いたような小さなお休みの声だった。

最後の声が響くと同時にずきりと胸が痛み、上体を折るように身を丸めて頭を抱え込む。

出来るのならばあんな声を聞きたくなかった。否、言わせたくなかった。

己の言動の結果、恋人の声から陽気さを奪い取り、居たたまれなくなるような声を発させてしまった事に今更ながらに気付き、臍を噛むように歯を噛みしめ、何とか眠りに落ちようとするが、この夜は彼に眠りが訪れる事は無いのだった。

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