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2話 記憶の扉と黒羽の影
夜明け前の空はまだ濃紺を引きずっていた。
浮島の縁を染める薄い光が、雲海の波頭に銀の筋を描く。
船の帆には風の精霊 ミイが戯れるように触れ、帆布はほとんど音もなく膨らんだ。
リュナは胸元で強く水晶盤を握りしめ、冷えた指先に伝う微かな振動を探した。
星の声は断片的にしか戻らないが、確かにどこかに残っているという感触があったのだ。
「どの方角へ向かうのが一番手がかりになるかしら」
ルナは小声で問いかける。
月の力を秘めた彼女の声はが聞こえた。
その声は、夜の静けさに自然に溶けるようだった。
シエルは地図を広げ、指先である一点を示した。
そこには古い記号が刻まれている。
ジュリが図書館で読み取った破片と座標がつながる場所だ。
「ここがあれよ。かつて星核の研究が行われたと伝わる小島の遺跡。地上では『忘却の塔』と呼ばれていたというの」
シエルの声はいつも通り冷静だが、瞳の奥には計算する光が揺れている。
「あそこに残る古い符号や装置の痕跡を調べれば、星の声を奪った仕組みの手がかりになるはずだよ」
ミコトは甲板にもたれ、地上の風景を遠くに見つめて話していた。
彼女の胸にはまだ、自分が他者を生き返らせるときに感じる冷たさの余韻が残る。
使用のたびに消費されるもの⋯
——それが何なのか、彼ははっきりと知らない。
それが怖いのだ。
ただ、戻ってきた者の瞳に宿る安堵は、それがどれほど怖ろしくても彼を止めはしなかった。
「誰かに見つかれば、標的にされるかもしれない」
レンは低く言った。
彼の銃は甲板の脇に用意され、錬金術で調整された薬莢が規則正しく並んでいる。
「ノクティルカは、星の力を欲する者なら誰でも排除するだろう。慎重に行動する」
「ノクティルカの幹部、ヴァルドはおそらく表に出さない」
ジュリが続ける。「彼らは名前を消す術を使う。名の抹消は、追跡手段そのものを奪う。だから、痕跡が残る装置や古い記録の断片を見つけることが重要だ」
船が忘却の塔へ近づくにつれ、空気は重く、どこか金属臭を帯びて感じられた。
遺跡は岩礁の上に屹立した黒ずんだ塔群で、かつての栄華を今は苔むした瓦礫だけが物語っている。
塔の壁面には古い模様と、きつく閉ざされた門が幾つもあった。
尾を引く彗星の影が空を斜めに横切り、塔群の輪郭を不吉に刻んでいる。
上陸すると、砂利を踏む音が響き、潮の匂いとともに古代の静寂が鼻腔に届いた。
リュナは水晶盤を掲げ、かすかな残響を求めて集中する。
水晶は冷たく、だが内部に無数のひびが光のように動くのが見えた。
それはまるで、かつての星の声が記憶として亀裂に宿っているかのようだった。
「ここは静かすぎる」
ルナが呟く。
「人の記憶が薄れていく空気があるわ」
「図書館に残る文字が示した通りだ」
ジュリが歩きながら言った。
彼女の指先が風を切ると、目に見えない文字の残像が一瞬漂う。
「星核装置は、星力を抽出するために設計された。だが抽出とは同時に、周囲の結びつきを断ち切る行為でもある。星が語るという行為は相互作用だ。どちらかを片方だけ掠め取れば、必然的に語りの齟齬が生まれる」
「なら、装置が星の声を奪った可能性が高いわけなのね」シエルが呟く。
「そしてその装置を運用できる者がいる。ノクティルカのような組織だ」
遺跡の奥に進むと、半ば崩れたホールが現れた。
天井は崩落し、外部の光が差し込むが、内部は依然として薄暗い。
床には金属の枠組みのようなものが埋め込まれ、中心には石で囲われた円形の穴が開いている。
穴の底からは、かすかな振動。それに、低い嗚咽のような音が漏れていた。
「ここが核の据え付けられていた場所かもしれない」
ジュリは低く息をついた。彼女の指が円形の縁をなぞると、触れた部分に古い文様が浮かび上がり、一瞬光った。
文様は記憶の断片を呼び覚ますかのように、周辺の空気に古いイメージを映し出した。
その映像は断片的で、色彩は褪せ、断絶が多かった。
だが映し出されたのは、無数の小さな光の粒子が吸い込まれ、一つの核へと収束する様子だった。
人々が祈りを捧げ、器具が稼働する。
だが同時に、空から零れ落ちるような言葉や夢が消えていく光景も映る。
画面の端には、黒い羽根を纏った影たちの輪郭がちらりと見えた。
──仮面の先に微かに映る笑み、そして器具へと手を伸ばす姿。
「ノクティルカか」
レンの低い声が漏れた。
映像はそこで乱れ、消えた。
代わりに、塔の壁面に刻まれたある記号が、明るく鮮明に浮かび上がる。
それは羽根をモチーフにした図像と、中心に小さな空洞を持つ円の組み合わせだった。
「この印は彼らのものだ⋯」
ジュリが言った。
「だが、最も不気味なのは、この記憶の一端が誰かの名を食いちぎっていることだ。映像の中の人々の多くは、次の瞬間にただの影へと変わる。記憶の糸が断たれている。それが意味するのは、名だけでなく、関係や役割すら抹消される可能性だ」
沈黙が落ちる。地鳴りが遠くでしばらく続くと、壁の裂け目から冷たい風が吹き込み、紙片のような灰色の粒子が舞った。
リュナは思わず息を整える。
彼女の胸の内では、星の声の痕跡が濃淡を繰り返している。
かすかなフレーズ、断片的なイメージ、誰かの笑い声の残響。
それらは彼女に問いかける。
──何が奪われたのか、誰がそれを望んだのか。
「ここで手がかりを掴めたとしても、実行者は別の場所にいるかもしれない」
シエルが言った。
「我々は追跡路を組み立てる必要がある。手段としては、装置の素材、稼働に用いる魔力の特性、そしてノクティルカの行動パターンを突き合わせることだ」
「私は地上に戻って、地元の鍛冶師や古い研究者に聞いてみるよ」
ミコトが言う。
彼女は自分の故郷の名を出さずとも、地上の人々の性格や流通の仕組みを知っている。
彼女が去ることは、仲間にとって手痛いが必要な行動だろう⋯
「ミイ、君は周囲の風と精霊達から情報を得られたりとかする?」
ルナが尋ねると、ミイは得意げに跳ねて見せた。
「風の耳はいいよ! 島の間を渡る風は、噂も匂いも運ぶからね。ちょっと聞き回ってくる!」
そして彼女は一足先に外へ飛び出した。
小柄な身体が潮風に乗り、岩の裂け目や塔の上をくるりと舞う。
仲間はそれぞれの役割に散っていった。
ジュリは遺跡の書庫へ入り、抄録や修復されていない巻物を引き出し始める。そして、古い巻物を広げ、記録に残された儀式の手順を追う。レンは装置の残骸の傍らに座り込み、特殊な薬品で金属片の成分を解析し始めた。シエルは塔の周囲に小規模な観測陣を設け、魔法の反応を探る。リュナは踵を返して、円形の穴に向き合った。
穴の底は深かった。
かつて核がはめられていたと思われる空洞は、今では黒い石と錆びた金属の層に覆われている。
リュナは水晶盤を近づけると、中から不協和音のような低い響きが返ってきた。
水晶の振動がその音と共鳴し、言葉にならない断片的なイメージが流れ込む。
「──母の手。温もり。影が来る」
それは一瞬のビジョンだ。誰かの眠る間の夢か、過去の夜の一断面のように感じられる。
次の映像は違う声だ。
「──約束。名前。消えていく」
言葉の意味ははっきりしないが、その断片は心のどこかを鋭く突く。
リュナは顔を顰め、もう一度深く集中する。
「やめてっ⋯!」
突如、遠くから叫び声が聞こえた。
声は風にさらわれ、何かが壊れる音と混ざる。
遺跡の一角で、墨のような黒い粒子が空中に渦を巻き、形を取って人型の影へと凝り固まる。
それは仮面と羽根を纏った一団の気配だった。
「ノクティルカだ」
シエルが叫ぶ。
その呼び声は甲板にまで届くほど鋭い。
塔群の裂け目から、黒い衣を翻した者たちが静かに這い出してくる。
彼らの動きは滑らかで、まるで影が自らの意志を持ったかのように振る舞っている。
仮面は鳥のくちばしのように尖り、羽根は暗闇の中でひっそりと蠢く。群の先端には、薄暗い光を放つ星のような宝石を胸に嵌めた者が立っていた。その視線は冷酷で、周囲の空気を凍らせる。
「退くぞ」
レンが低く指示し、仲間は一列に並ぶ。
緊張が体に張りつく。
だがノクティルカの者たちは待っているだけのようだった。
彼らは器具の残骸に触れると、手早く何かを取り出し、器具へ向けて儀式めいた動作を始める。
「奴らは来るべき場所を知っている」
ハルトが呟く。
「星核装置の残響を辿る術を知っているのかもしれない。あるいは、狙いは我々ではなく、この場所そのものだ」
仮面の一人が近づき、指先を円形の穴の縁に触れた。
接触すると、空間が鋭く震え、塔の壁面に刻まれた文様が黒く燃えるように浮かび上がった。
記憶の断片が再び踊り出し、だが今回は彼らの意思に従うかのように映像が変容する。
黒い羽根の者たちは、映像を拾い上げると、その断片を器具の小さな容器へ移していく。
移された断片は容器の中でしぼみ、色彩を失い、最終的には単なる煤のような塊となる。
「その手法は……記憶の抽出か⋯」
ジュリの声は静かだが震えていた。
「彼らは名や関係を封じるために記憶を刈り取っている。記憶が抜かれれば、記録から消え、追跡の痕跡も消える。恐ろしい術だ」
「放っておけない」
リュナは決然と言った。彼女は水晶盤を掲げ、星の断片に向けて集中を高める。
星の声は弱まりながらも、彼女の中で断片的に繋がり始めた。
映像は浮かび上がり、言葉は破片となって脳裏に突き刺さる。
だがリュナの意志は揺るがない。
彼女はその断片を喚び戻す。
それに器具の容器へ向かう意図を持つ者たちの手を阻まねばならなかった。
戦いは静かに始まった。
レンの銃聲が空気を切り裂き、魔法の紋章を描くシエルの指先から青白い光が迸る。
ミイは風とともに飛び回り、敵の視界を遮り、ルナは人々の心に静けさを送って混乱を抑える。
一方でノクティルカの仮面が放つ術は、触れるものの記憶を奪うように作用し、道具や壁に刻まれた痕跡を次々と薄めていく。
リュナは中心に立ち、水晶盤を掲げて叫ぶように声を出した。
「星よ、私に囁け! あなたの記憶をこの胸に預けさせて!」
一瞬、空間が光に満ちた。
水晶は内部から光を放ち、ひび割れの間に宿る断片が一斉に震え始める。
そこには昔の歌声、遠い約束、名前の連なりが見え隠れした。
だが同時に、ノクティルカの者が投げた小さな黒い瓶が水晶に迫った。
それは悪意と記憶の腐食を凝縮したようなもので、接触すればリュナの喚び出した断片は再び塗り潰されるだろう。
「やめて!」
ミコトが走り、杖を振るって小瓶を叩き落とした。
破片は砂利に砕け、黒い粉が風に舞う。
ミコトはその一瞬で力を使い果たし、額から汗が流れ落ちる。
彼の肌は普段よりも白くなり、呼吸が浅くなるのが仲間には分かった。
「ミコト!」
ルナが駆け寄る。ミコトは首を振り、立ち上がろうとするが、足元がふらついた。
彼は自分の力を引き出すことの代償を思い、仲間に迷惑をかけたことを悔やむ表情を見せた。
戦闘は混沌の内に終息を迎えた。
ノクティルカの兵たちは撤退し、残されたのは砕けた器具と塗り潰された記憶の跡だった。
だが最も深刻なことに、撤退の際に一人の村人の記憶が部分的に消されてしまった。
彼は自分の名前を忘れ、家族の顔を思い出せないまま茫然と佇んでいた。
「これが最悪の事態だ⋯」
ジュリが呟く。
「記憶の一部が抜かれれば、名も役割も消えゆく。取り戻せない部分もあるかもしれない」
リュナは膝をつき、荒い呼吸を整えながら水晶盤を胸に押し当てた。
彼女の内部では星の断片がもだえ、だが同時に薄い光の糸が繋がり始めている感覚もあった。
取り戻せるものと、永遠に失われるものがある。
彼女はその境界線を目の当たりにし、自らの力の重さを深く実感した。
「我々は次に何をすべきか」
シエルが問う。
皆の顔は疲弊しているが、決意は消えていない。
「記憶を失った者たちを救う手段を探さないと⋯」
ジュリが答える。
「星の記憶を守る古文書がまだどこかに隠れているはずだ。だがそれを見つけるには、さらに危険な場所へ赴かなければならない」
ミコトは杖をしまって、仲間の顔を順に見た。
彼女の瞳には決意と不安が交差していた。「私は行く。地上に戻って、古い研究所の名残を洗い出してくる。誰かが装置の材料を動かしているなら、流通の痕跡は残るはず⋯」
「私は図書館に残って作業を続ける」
ジュリが言う。
「消えかけた記憶の断片を繋ぎ合わせ、失われた名前を呼び戻す術を探す。だがこれには時間が必要だ」
「ミイは島々を巡って風の耳を働かせる」
ルナが付け加える。
「情報網を広げれば、ノクティルカの動きを掴めるかもしれない」
「レンは装置の残骸を詳しく解析して」
シエルが命じる。
「私は空の観測を続ける。彗星の軌道、星力の乱れを追うの。リュナ、あなたは星の残響を辿り続けて。君の力が今、一番多くの可能性を持っているの」
リュナは静かにうなずいた。
誰かを救うための道は遠く、そして険しい。
彼女は仲間がそれぞれ背負うものの重さを胸に刻み、船へと戻る準備を始めた。
忘却の塔の遺跡を後にする際、彼女はふと足を止め、円形の穴を振り返った。
そこにはまだ、かすかな光が眠っている。
取り出されたわずかな記憶の残滓が、夜風に混ざってかすかに歌うように聞こえた。
「必ず、取り戻す」
リュナは小さくつぶやく。
その声は誰にも届かないかもしれないが、彼女自身にははっきりと響いた。
仲間たちはそれぞれの任務に別れ、薄曇りの空を渡って帰路についた。
だがノクティルカの影は深く、今回の衝突で彼らの狙いは一層鮮明になった。
空が薄紅に染まり始める頃、セリオスへ戻る船の甲板で、ミコトはひとり遠くを見つめていた。
彼女の手には小さな銀貨が握られている。
それは幼い頃、母から渡されたものだという。
だが彼女はその母の顔が完璧には思い出せないことに、密かな恐れを抱いていた。
もし記憶がさらに侵されるなら、彼女の大切なものもまた消えてしまうのだろうか。
「大丈夫⋯」
ルナがそっと肩に手を置いた。
「忘れてはならないものは、心の中で守るの。私が手伝う」
ミコトは小さく笑って首を振ったが、その目には光が宿った。
仲間の支えは、どんな記憶よりも強いと彼女は信じたかった。
沈黙の夜はまだ続く。
だが仲間たちの中に小さな灯は残り、星の声が再び語るための糸を織り直すために動き始めている。
忘却の塔での衝突は、彼らに多くの代償を強いたが、それと同時に確かな情報と、敵の術式の断片をもたらした。
ノクティルカは星核を用い、記憶を刈り取ることで名を消し、世界の運命を書き換えようとしている
──という輪郭が、少しずつ浮かび上がったのだ。
船がセリオスの灯りに近づくにつれて、リュナはふと空を見上げた。
黒い彗星は再び尾を伸ばし、星の輪郭を薄くしている。
だがその横には、かすかな新しい輝きが一つ現れていた。
それは小さく、しかし確かに存在していた。
リュナは胸の水晶に手を当て、その光を信じることにした。
次に何が来るかは誰にも分からない。
ただ、皆は立ち上がった。
星の沈黙に抗い、忘却に抗い。
そして、名前と記憶を取り戻すために。旅は続く。
2話 記憶の扉と黒羽の影 End