「今日からこの町が新しいおうちだぞ。」
お父さんが笑いながら言った。
私は車の後部座席の窓から、見慣れない町をぼんやり眺めていた。
道は細くて、電柱が低い。家はどれも少し古くて、屋根の色もまばら。
でもどこか懐かしいような、夢の中で見たことがあるような景色だった。
「ここが、白木町。静かでいいところだってさ。」
お母さんが助手席から振り返り、にこっと笑った。
私は小さくうなずいた。
正直、あんまり実感がなかった。
友達と離れるのが悲しかったけど、もう泣きつかれて、涙は出なかった。
車が止まる。
目の前に、白い外壁の古い家が見えた。
壁のペンキはところどころ剥げて、赤い屋根には鳥の巣がひとつ。
でも玄関の前には黄色い花が植えられていて、風に揺れていた。
「わぁ……かわいいお花!」
お母さんが嬉しそうに言う。
お父さんは荷物を降ろしながら、「見た目より中は広いぞ」と笑った。
私は玄関の前で、そっと息を吸いこんだ。
少し湿った木のにおい。
どこか、古い図書館みたいな匂いがした。
家の中は想像以上に静かだった。
床はギシギシ鳴るし、廊下の壁には古い写真の跡が残っている。
誰かがずっとここで暮らしていた気配。
でもそれは、もういない誰かの気配でもあった。
「ねえ、お父さん。この家、前は誰が住んでたの?」
「うーん、さあな。空き家だったって聞いたけどな。」
お父さんは気にせず笑って、また荷物を運び出した。
私は2階へ上がった。
階段の手すりには、うっすらと埃が積もっている。
一段のぼるごとに、床が小さくギシッギシッと鳴いた。
2階には三つ部屋があった。
一番奥の部屋の扉を開けると、空気が少し冷たい。
でも、窓から森が見えた。
風が吹くたびに、木の葉が光を反射してキラキラと揺れる。
「お母さん!ここ、私の部屋にしていい?」
階下から聞こえたお母さんの「いいわよ〜」という声に、私はにやっと笑った。
荷物を運び入れ、カーテンをかけ、机を置いて、
だんだん自分の部屋になっていくのが楽しかった。
夕方になると、カラスが森の上を飛んでいくのが見えた。
家の裏には細い道があって、森へと続いている。
明日、探検してみようかな。
夕飯はお母さんのカレー。
お父さんが「やっぱり家のカレーが一番うまいな!」って大げさに言うから、
お母さんが笑いながら「もう、そんな大げさ言わないで」と軽く叩いていた。
私は笑いながらスプーンを握った。
その瞬間、家の外で「カタ…」と何かが鳴った。
風かな、と思ったけど、窓のカーテンが少し揺れていた。
「……ねえ、お父さん、この辺って、動物とかいるの?」
「うん?そうだな、うさぎとか、タヌキとか。森が近いからな。」
「うさぎ!」
私は少し嬉しくなった。
小さい頃、動物園で見たうさぎを思い出した。
真っ白で、耳が長くて、目が赤かった。
けど、なんでだろう。
その時のうさぎの目、今思い出すと、ちょっとだけ怖かった気がする。
夜。
お風呂に入って、歯を磨いて、ベッドに潜りこんだ。
外は静かで、虫の声だけが響いている。
天井を見つめているうちに、少し眠くなってきた。
でも、ふと目を閉じる前に気づいた。
押し入れのふすまが、少し開いている。
さっき閉めたはずなのに。
風かな。
私は起き上がって、そっとふすまを閉めた。
その時、奥の暗闇で——何かがかすかに動いた気がした。
心臓がどきん、と鳴る。
でも見間違いだと思って、何も言わずにふすまを閉めた。
部屋の電気を消して、目を閉じる。
コン…コン…
押し入れの奥から、小さな音。
まるで、木の箱を叩くような音。
耳をふさいで、寝たふりをした。
怖い。
でも、声に出したら、何かが返してきそうで。
どのくらい経っただろう。
音はやんで、静けさだけが残った。
眠りに落ちる瞬間、夢の中で、誰かが私の名前呼んだ。
「やっと会えるね、みなみちゃん。」







