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先輩は床にへたり込み、佐藤を見上げていた。その目は完全に怯えていたが、佐藤はそれを何とも思わず、ただ口元だけで笑っていた。
「……ねぇ、覚えてますか?」
低い、けれど妙に柔らかい声。
静かすぎるオフィスの中、佐藤の声だけが響いていた。
「三日前のことですよ、三日前――」
「先輩、笑ってましたよね?」
ゆっくり、ゆっくりと先輩に歩み寄る。
先輩は後退ろうとするが、もう逃げ場なんて無い。
「“いい気味! あの時の苦痛を味わいなさいよ!”――そう、言ってましたよね?」
佐藤は一歩ずつ歩きながら、指を鳴らしていた。
カチ、カチ、とその音だけが響く。
「……馬鹿なんですね、ほんと。
そうやって言ったあと、腕を掴んで、痛いことたくさんしましたよね?」
先輩は首を振った。
泣きながら、震えながら否定している。
けれど佐藤の目には、それすら滑稽だった。
「あ、それとも二日前の事は覚えてます?
なんだったっけ……ああ、そうそう。
“資料なくなったのはあんたのせい”って、
で、休憩時間ずっとトイレ掃除させられましたよね、わし」
ペラペラと、止まらない口。
その裏側では、黒い自分が怒り続けている。
(許さない。絶対に。)
先輩は完全に言葉を失っていた。
周りの社員たちもただ黙り込んでいる。
「まさか、これも忘れたんですか?」
歩きにくいヒールの靴をわざと音を立てて踏みしめる。
佐藤は先輩の顔のすぐ横――
スレスレに、靴を振り下ろした。
ガンッ! と鈍い音。
床にヒビが入ったかと思うほどだったが、そんなのどうでもよかった。
「いい気味ですね、笑」
目がまったく笑っていないまま、佐藤は静かにそう言った。
その時――
「佐藤……!」
遠くから社長の声が聞こえた。
そして、夢魔とすかーが後ろから駆けつけてきた気配があった。
けれど、今の佐藤にはまったく入ってこない。
何も聞こえなかった。
「――あっ、そうそう。」
思い出したように、佐藤は机の上からコーヒーのカップを手に取った。
中身はもう冷たくなっていたが、それも関係ない。
「先輩? 覚えてます?」
コーヒーを手にしたまま、ゆっくりと先輩に近づく。
その時、夢魔が「佐藤、もう――」と声をかけたが、無視した。
「“眠気覚まし”って言って、かけてきましたよね?
わしの顔に、熱いコーヒー……あの時、火傷しましたよ」
静まり返る空間。
誰一人、声を出さない。
ただ、佐藤の言葉だけが響いていた。
「その時、先輩――笑ってましたよね?」
冷たいコーヒーを――
佐藤は無言で、先輩の頭からぶっかけた。
びしゃり、と音がした。
先輩は声を上げたが、佐藤はそれすらも面白そうに笑っていた。
「はい、“眠気覚まし”、笑」
しゃがみ込んで、先輩の顔を間近で覗き込む。
その目は氷のように冷たかった。
「で? やられた気分はどうですか? え? あぁ、まだ平気?
そうなんですねぇ――ふふ。」
周りが完全に黙り込む中、佐藤はさらに追い詰めるように言葉を重ねた。
先輩はとうとう泣きながら漏らしていた。
けれど、佐藤の心は一切動かなかった。
ただ――ただ、真っ黒な自分が笑い続けていた。
――真っ黒な自分が、自分の手を掴んでいた。
ずっと沈んでいたはずの、疲れ切った自分を、無理やり引き上げて、笑っていた。
『見てみろよこれ! 面白いだろ!?』
頭の中で、その声が響く。
ケタケタ、ケタケタと耳障りなほどに笑っている。
佐藤自身も、その声に合わせるように小さく笑った。
止められなかった。
止めたくもなかった。
目の前では、先輩が泣きじゃくりながら、何か必死に弁明していた。
「ちが、違う……だって……こんなの、おかしい!
わ、わたし、悪気は……無かった……ただ……!」
佐藤はゆっくりと笑ったまま、先輩を見下ろす。
冷たい目で。
心のどこにも温度は無かった。
「それが通じるのは……」
一呼吸。
「五歳児まで、ですよ? 先輩。」
その一言で、空気がさらに凍りついた。
静まり返った社内で、佐藤はゆっくりと立ち上がり、目を細めた。
深く、深く吐き出すようなため息をついた後、小さく呟く。
「……気持ち悪い。」
そう言いながら、先輩の髪をまた掴んで、持ち上げる。
冷たく、丁寧に、無駄な力は使わずに。
「落ちたものは汚いけれど、先輩……
“食べろ、飲め”って、言いましたよね?」
先輩は震えたまま、泣きじゃくっていたが、佐藤の手は一切緩まなかった。
「あぁ……良かった。これは覚えているんですね^^」
静かすぎる空間。
誰も動けない。
社長ですら、ただ黙っているだけだった。
佐藤はコーヒーがこぼれた床を見下ろし、ひとつ笑った。
「見ていてあげますから。
――早く、“飲んで”ください。」
先輩は顔を真っ青にしながら、涙を流し、掠れた声で、
「え……?」
とだけ漏らす。
佐藤はそこで、さらに一歩踏み込んだ。
先輩の顔のすぐ近くまで、無表情で。
「あれ? まさか……飲めないんですか?
そんなことありませんよね? あの時、わしに飲ませたくせに……
ねぇ?」
その時の笑みは、誰が見ても「正気ではない」と思うほどに冷たかった。
先輩は完全に悟ったのか、もう抵抗することなく、
床に手をつき――
こぼれた冷たいコーヒーを、泣きながら、すすり始めた。
その瞬間、佐藤は――
「っ……あはっ……あはははははははっ!!」
狂ったように笑い出した。
腹を抱えて、膝をつきそうになるほど、何度も何度も。
止まらなかった。
自分の中で黒い自分が、拍手しながら跳ね回っていた。
――その時。
社内の誰かが、ついに声を上げた。
「こ、こんなの……最低だぞ!」
「人の心は無いのか……!」
そう言った瞬間、佐藤はふっと笑いを止めた。
そして、静かに、自分のデスクへ向かい――
思い切り、手のひらでデスクを叩きつけた。
ドンッ!!!
その音だけで、また全員が黙り込む。
佐藤は冷たい声で、静かに言った。
「……わしが、された時、見て見ぬふりした君たちが言えること?」
誰も返せない。
「便乗してたのに?」
口の端をゆるく吊り上げて、さらに言葉を重ねた。
「あはは……ほんっとうに、馬鹿な脳しか無いノミ以下ですね^^」
そこで――
ついに、夢魔とすかーが本格的に止めに入った。
「佐藤!!もうやめろ!!」
「……戻ってこい、佐藤!!」
だが。
佐藤は、それすら冷たく避けた。
軽く一歩横へずれて、触れさせない。
それはただの反射ではなかった。
完全に「触らせない」という強い意志だった。
夢魔がさらに手を伸ばそうとした瞬間――
佐藤は一歩下がって、両手を広げたまま、ふわりと笑った。
「……ふふふ。」
「触れないよ。今のわしに、君たちは。」
そう言った時の目は――
もう、完全に人間のそれではなくて。
ただただ、楽しそうに笑っていた。
夢魔も、すかーも。
その場で、一歩、二歩と後ずさった。
――佐藤は、完全に自分だけの世界にいた。
それでも、夢魔とすかーは、諦めきれない目で佐藤を見つめ続けていた。