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ユカリに壊されずに済んだ無傷の檻の中で、コドーズの言うことも最もだ、とユカリは反省する。自分の弱点を晒したばかりか、置いて行こうとするなんて愚行と言う他ない。
ケブシュテラは檻の外で、ユカリのそばで、焚書官の姿ながら獣のように寝そべっている。脅しのためにコドーズに命を奪われかけてなお逃げ出すつもりはないようだった。
では、ケブシュテラがコドーズと共にいる限り、自分はコドーズに従うというのか、とユカリは自問するが、自答できない。
あれからコドーズは愚痴を垂れながらどこかへと去り、クオルはその場に残った。そしてクオルのささやかな魔術によって、狩りの業を秘めたユカリの指は細い鎖で戒められてしまった。その手は開いたままになり、魔法少女の杖をつかんで虚空から取り出すことはできない、というわけだ。たった一度杖を取り出すさまを見ただけで編み出したにしては、単純ながら勘所を抑えた良い魔法だ。
「いや、丁度良かったですよ」生気のない瞳でクオルは檻の中のユカリを見つめる。「助手が欲しかったんです。その若さで私が見たこともない魔法を使う優秀な魔法使いが助手になってくれると、とても嬉しいんですよね。お名前を聞いてもいいです?」
「……エイカ」とユカリは答えた。
二番目によく使う偽名。産みの母の名だ。
「そう、エイカさん。ミーチオンでよく聞く名前ですね」クオルは掠れた声で呟く。「それで、あの杖、どういう魔法なんです? 空中から取り出して、ただ触れただけで破壊した、ように見えた」
「こう、杖を思い浮かべるんです」ユカリは済んだ瞳でクオルを真っすぐに見つめ返し、戒められた手で手振りしながら正直に話す。「そして、あ、ここにあるなっていう気持ちでつかむと、手の中にある、って感じですね」
クオルは死にかけた可哀想な小動物を見るような目でユカリを見て小さなため息をつく。「そうですか。まあ、いいでしょう。話したくなる方法はいくらでもあります」そう言ってクオルは鱗柄の長衣のどこからか林檎を取り出し、ユカリの閉じ込められている檻の中に放る。
転がる林檎に一瞥をやってユカリは言う。「朝食なら食べましたけど」
「それは朝食ではなく契約です」クオルは細く長くやはり青白い指で林檎を指す。「私に忠誠を誓う呪いが込められています。それを自ら食べると晴れて私の忠実なる助手になれるというわけですね」
「断ったら? 林檎を食べるのを、ね」
「どちらにしても貴女は私のものですよ」クオルは長衣を撫でて皴を伸ばしながら説く。「コドーズから私が買ったんです。助手が嫌なら実験動物として働いてもらいます。とーっても痛いですよ。実験動物というのは」
身繕いするクオルを眺めながらユカリはからかう。「実験動物の御経験がおありで?」
「もちろんですよ」とクオルは微笑み返して言った。「さあ、それで? どうします?」
ユカリはばつが悪そうに押し黙る。忠誠を誓う契約の呪いなど食べるわけがないが、他にどうすべきかも悩ましい。ユカリは檻のそばにいて焚書官の姿になったケブシュテラをちらりと見る。こちらには目もくれず、地面に座ってじっとしている。
「答えてくれなくちゃ分かりませんよ」クオルはため息をついて、ユカリに背を向ける。「時間はたっぷりとあります。じっくりと考えてください。じっくりと考えるほど良い方法が思い浮かぶというものです」
そう言うとクオルは仕切り幕の向こうへと消えた。するとユカリは開きっぱなしの両手を伸ばして屈みこむと、林檎を両手で挟んで口元へ運ぼうとする。
「え? 何で?」とケブシュテラが焚書官の姿で呟いた。
その声もまたユカリの想像する産みの母の声なのだろうか、と考えたが答えが分かるはずもないのでそれ以上考えないことにした。
ユカリは開いた口を閉じて、逆に尋ねかける。「どうかした?」
「あんな大見得を切ったのに、身を売るのですか?」
「え? いや、違うよ」どう説明したものか、ユカリは思案する。「ケブシュテラは禁忌文字って知ってる?」
「ええ。詳しくはありませんが、嗜む程度には存じております」
「そうなんだ? 嗜めるようなものなんだね」もっと勉強を頑張ろう、とユカリは思った。「実は、果実に【豊饒】の文字の形を刻まないといけないんだよ。たぶん林檎でも大丈夫だろうから、試してみようかな、と」
”賢しき者は果実を食む”という魔導書の衣の詩の一節を試す機会だ。自分が賢しき者に該当するかどうかは分からない。もし駄目だったならこのことはベルニージュに黙っておこうとユカリは心に決めていた。
ケブシュテラはユカリを見上げ、鉄仮面の向こうで不審げに尋ねる。「それが、今しないといけないことなのですか?」
「まあ、そうだね。とても大事なことだよ」とユカリは大きく頷き、大真面目に答える。
ユカリは林檎の表面を齧り、吐き捨てる。それを何度か繰り返すが、手が戒められていることもあって、とても上手くいきそうにはなかった。決して文字の形がうろ覚えだからではない。
再びクオルが戻ってきたのは、金の紗を纏った黄昏が紺色の街マデクタに降り立って、新しき夜を迎える準備を始める頃合いだった。マデクタの街全体が昼と夜の境の幻に接する朧げな光に包まれている。
結局コドーズは朝に姿を消した後、一度も姿を見せなかった。見世物小屋自体が今日は営まれなかった。
ユカリはこれ見よがしに檻の外へ齧りかけの林檎を放り出し、不貞腐れたように檻の中で寝転がり、戒められた両手の指をかばうように小さく丸まっている。
ベルニージュはきっと心配しているだろう。しかし逃げ出せたとしても、ユカリはもはや哀れな怪物をここに置いていきたくはなかった。駄々をこねる子供のような感情を久しぶりに思い出す。
「残念です。助手運がないですね、私」クオルは冷たい眼差しで皮の一部が剥かれた林檎を見下ろして言った。「それでは実験動物として引き取らせてもらうことにします。実験の際以外は優しくするので安心してください」
「それは困ります。何とかなりませんか」とユカリは感情を込めずに生返事をする。
クオルの後ろでケブシュテラが鼠に変身していることにユカリは気を取られる。今朝と違い、クオルの方がケブシュテラの近くに立っている。さして珍しくもないが、クオルは鼠が嫌いなのだ。しかしクオルは鼠に気づいていない。
クオルは両腕を組み、甘えた子を叱る母親のようなどこか優しい声音で言う。「嫌なら助手になってくださいよ。お給料も弾むんですから」
ユカリは鼠を視界の端の方で捉えつつ、クオルの方に目を向ける。「だってそれも嫌なんですもの。私には私の旅があって、目的があるんですから」
鼠のケブシュテラも自分の姿の変化に気づいたようで、毛並みや尻尾の艶を確認するように全身を眺めている。
クオルは水盤を覗き込むように背を曲げてユカリに言う。「エイカさんは旅をされているんですか? ミーチオンから? 御用向きは?」
ユカリは少し考えてから答える。「世界を救うんです」
「くだらないことを」途端にクオルの目の輝きが色褪せ、好奇心が消え失せたようだった。「それではあの飲んだくれに話をつけてきますかね。払う金の分、よく働いてもらいますよ」
鼠は床に落ちている林檎の方へ近づくと、齧り始める。どうやらケブシュテラは禁忌文字の協力をしてくれるらしいと分かり、ユカリはとても嬉しくなってにやつく。
クオルは踵を返そうとした足を止める。「何を笑っているんです?」
「些細なことかもしれませんが嬉しくて」
クオルがユカリの視線を追って振り返ると同時に、林檎に手足の生えたような文字、【豊饒】は完成し、白く眩い魔法の光を辺りに放つ。
「やった!」ユカリは目を細めつつ喜ぶ。
輝く果実、光、食、実り、連綿と続く栄光、大いなるものの恩恵、宝石、そして【豊饒】。ユカリは覚えている限りの読みと意味を頭に浮かべる。
光が消えた時、クオルは小さく唸りながら目を抑えてふらついていた。そして檻の前で焚書官の姿のケブシュテラが林檎をユカリの方へ差し出している。
「すごいね! 鼠の前歯でよくあの文字を彫れたね」とユカリは親切な怪物を褒めたたえる。
「【豊饒】に関しては目をつぶっていても書けるかもしれません」ケブシュテラは照れ臭そうに呟く。「それより、さあ、どうぞ。どうするのか存じ上げませんが、これを使って早くお逃げくださいな」
ユカリは開きっぱなしの両手で林檎を受け取るが、もうこの林檎に使い道はない。しかし焚書官の鉄仮面の向こうから何かを期待するような眼差しを感じる。
「ええっと、ごめん。ケブシュテラ。どうやら勘違いさせたみたいだけど。これは別に脱出のための魔法じゃないよ。とても大切なことではあるんだけど」
そういえば禁忌文字の完成形、ベルニージュ曰く元型の文字、の話などケブシュテラに少しもしていなかったとユカリは気づく。
焚書官の姿のケブシュテラは何も言わなかったが、鉄仮面で表情が読めなくても、呆れていることはユカリに伝わった。
「一体なんですか? 今の光は」クオルがユカリとケブシュテラを交互に見る。「林檎から【豊饒】の形に光が溢れ出しましたね。私は見逃しませんでしたよ。観たことのない現象です。興味深い。ケブシュテラ、貴女がやったのですか? しかし、ううむ、勝手に連れて行ったら、あの守銭奴、怒るでしょうね。まあ、いいか」
どうやらクオルはユカリだけではなくケブシュテラも連れて行く気になったらしい。
次の瞬間、クオルの体が横ざまに吹き飛ばされる。燃え上がる炎の獣がクオルに体当たりし、床に組み伏す。
クオルの悲痛な叫びなど気づかないかのように平然としたベルニージュが現れた。
「何してんの? ユカリ。こんな檻、出て行けるでしょ?」
「これ見てよ」細い鎖で縛られ、開きっぱなしで戒められた可哀想な両手をベルニージュに見せる。
「なるほど。考えたもんだね」とベルニージュは呑気に感心した。「それはそうと魔法少女になれば良かったのでは?」
「そこまで追い詰められてないもの」とユカリは答える。
ベルニージュは焚書官の姿のケブシュテラをちらと見て距離を取りつつ、檻の格子の扉を呪文で開く。そしてユカリの手を戒める呪文も解きほぐし、解放されたその手をつかんで檻から連れ出す。
「さあ、行くよ。ユカリ」とベルニージュが言うと、
「うん」とだけユカリは答えた。
去る前に、ユカリがケブシュテラを見つめると、ケブシュテラもユカリを見つめ返した。そしてユカリは焚書官の姿のケブシュテラの冷たい手を握って、有無も言わせず引っ張り、走る。
「どこ行きやがんだ! ケブシュテラ!」
ケブシュテラの足が止まり、つんのめりつつユカリとベルニージュの足も止まる。
コドーズ団長が酒と怒りで顔を赤くして、仕切り幕の向こうから現れた。手にはあの魔法の鞭を握っている。クオルは炎の獣に追われて天幕の反対側から逃げ出していた。
「なあ、ケブシュテラ。どうやって外で生きていく?」コドーズは聞き分けのない子供に言い聞かせるように高圧的に言う。「嫌われざるをえないお前が、どうやって生きていくんだ? ケブシュテラ。どんな獣だって助け合って生きていくんだぜ? だがお前はどうだ? ここ以外のどこでもお前は求められちゃあいないんだよ」
ケブシュテラの手が震えている。縫い付けられたように動かない足が震えている。しかし、ユカリの手を決して離すまいと強く握っている。それは強張りではなく、自分自身の力で求めるものをつかみ取る力だ。ケブシュテラの中で二つの考えがぶつかっているのがユカリにも分かる。
それならば、とユカリは同じくらい強く握り返す。
「行くよ。ケブシュテラ」
ケブシュテラはユカリを見つめ返すだけで、肯定も否定もしなかった。
しかしユカリは無理やりケブシュテラの手を引く。ユカリの中の駄々をこねる子供は望みを聞き入れられて喜んでいた。再び踵を返し、コドーズの怒鳴り声を背に受けて、振り切るように、天幕を出て、走る。
次の瞬間、天幕が吹き飛んだ。幕が崩れ、骨組みが瓦解する。コドーズの魔法の鞭が暴れているのだ。
三人は走る。暴れ狂う鞭から逃げ、掻い潜り、風で払い、炎で焼いて見世物小屋から逃げていく。
ケブシュテラが小さく笑うのをユカリは聞いた。それはユカリの想像上の母親の声ではなく、確かにケブシュテラの心から溢れる喜びの声だった。