陽斗が夜勤のバイトに出ている夜。スンホは一人で、寝付けなくて近所のコンビニに行った。
カップ麺と水を買って外に出ると、路地の先にタバコの火が浮かんでいるのが見えた。
(気のせいか……?)
振り返ろうとした瞬間、後ろから声がした。
「おい、イ・スンホ」
冷たい声。
振り返ると、そこには以前に見た顔――逃げたはずの男が、笑って立っていた。
「元気そうじゃん。ここまで逃げて……いい身分だな?」
スンホは息をのんだ。足がすくんだ。
「……もう、俺には関係ない」
「お前、まだ2億ウォン残ってんだよな? 俺らにもシェアしてくれよ。なあ?」
男はスンホの肩を掴んだ。
「やめろ……!」
「またちょっとだけ、手伝えよ。簡単な仕事だ。お前ならできる」
肩の指が食い込む。
逃げたはずの泥が、また足首を捕まえに来る感覚――
スンホは声にならない息を吐いた。
(……陽斗……助けて)
頭に浮かんだのはあの笑顔だった。
男は携帯をスンホのポケットに無理やり突っ込んだ。
「これに連絡しろ。な? 逃げんなよ。次は陽斗とかいう奴に何が起こるか……わかるよな?」
男はにやりと笑って、タバコを地面に押し付けて火を消した。
スンホは無言でアパートに戻った。
静かな部屋には、陽斗の脱ぎ捨てたパーカーと、ぬるくなった麦茶だけが残っていた。
カップ麺を台所に置き、震える手でポケットの携帯を取り出す。
(どうする……どうすれば……)
電話帳に陽斗の番号が入っている。
だが、指がそこに触れたまま動かない。
陽斗に知られたらどうなる?
嫌われるかもしれない。
見捨てられるかもしれない。
頭が真っ白になった。
スンホは携帯をテーブルに置いて、両手で顔を覆った。
「……大丈夫、大丈夫……俺1人で……なんとかする……」
小さくつぶやいても、心臓の鼓動は速くなるばかりだった。
(陽斗には、関係ない。巻き込めない。絶対に――)
スンホは何度も深呼吸して、無理やり息を整えた。
震える手でさっき押し込まれた携帯を開く。
新着メッセージがひとつだけ届いていた。
【逃げんなよ】
スンホは、陽斗の寝顔を思い浮かべた。
一瞬だけ、何かを言おうとした自分を責めた。
そして小さく笑った。
「……俺が終わらせるから……」
部屋の中で、一人きりの声が虚しく響いた。
深夜の河川敷。
冷たい川風に、スンホのフードが揺れていた。
ポケットの中には、あの携帯と、今の自分にできる精一杯の現金。
(これで終わる。全部渡せば……終わる……)
見慣れないワゴン車が止まった。
運転席から、あの男――追ってきた一人が顔を覗かせる。
「よぉ、スンホ。来たんだな」
スンホは小さく頷き、ポケットの封筒を差し出した。
「……これで……これで全部だ。もう俺に構わないでくれ」
男は封筒を受け取り、中身をちらりと確認すると、ふっと笑った。
「……お前、本当にバカだな」
「……え?」
スンホの言葉が終わる前に、背後から誰かに腕を掴まれた。
ぐっと捻られて、思わず膝をつく。
「っ……やめ――っ!」
男がスンホの耳元で笑う。
「誰がこれで終わりって言った? お前が金持ってくるって、便利じゃん。まだ働けよ。死ぬまで。」
スンホのポケットから、封筒以外の財布や携帯も奪われていく。
(終わらない……)
足元の砂利に涙が落ちた。
(俺は……俺は何してんだ……)
ワゴンのドアが開く音がした。
「おい、乗れよ。次の“仕事”、ちゃんと教えてやるからな」
終わらせるはずが、
さらに深く、夜の底へ引きずり込まれていく。
スンホは何も言えないまま、腕を引かれて暗い車内に押し込まれた。