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その一
笑理のもとで酔いつぶれた事件からの一週間、梢は土曜日に控える笑理とのデートを楽しみに、仕事に打ち込んでいた。久子への対応も、都度高梨に相談をしながら一緒に行うことができたので、少し気が楽になっていた。
仕事をしながらも、頭の中に笑理のことを浮かべてしまっているのか、ある日高梨から不意に、
「何か良いことでもあったのか?」
と、尋ねられたことがあった。
笑理とデートをするなど、上司には言えなかった。
「いえ……西園寺先生の件で、高梨部長が間に入ってくださってるので、安心しちゃってるんです」
もっともらしいごまかしができたと、梢は我ながら思った。
「経験として、西園寺先生の担当を山辺君に任せようと思ったんだが、やっぱり気が重い仕事だったかな」
「そんなことありません。西園寺先生のような大物作家の担当をさせていただけて、ありがたいと思ってます」
「まあ、君がそう言うなら良いが、無理はしないようにな。これからも、彼女のことで何かあったら、俺に相談してくれ」
「ありがとうございます」
ここ数日、久子の言動は割かし大人しくなっていた。恐らく高梨が、久子に何か言ったのだろうとは梢にも想像ができていた。
「西園寺先生に、何か仰ったんですか?」
「別に。大したことは言ってないさ」
高梨は苦笑したが、上手く説得をしたのではと梢は思っていた。
先週、仕事終わりに個室居酒屋の久子のもとを訪れていた時、高梨は強く忠告をしていたのだ。
「は? 本気でそんなこと言ってるの?」
久子は呆れ顔で言ったが、高梨は動じず、
「俺は文芸部長として、『ひかり書房』の小説部門の統括をしなければならない。立場上、部下や後輩を守らなきゃいけない責任もある。だからこそ、これ以上、うちの社員を困らせるようなことをすれば、今後『ひかり書房』で、西園寺久子の小説は出版させない」
久子は一瞬ムッとしたが、すぐ鼻で笑った。
「そんな権限まで持てるようになったんだね。相変わらず、誰かを庇うためなら一人の人間も犠牲にするんだね」
かつての愛人から言われたこの言葉は、高梨にとっては耳の痛いことだったが、今は何よりも梢をはじめ、部下や後輩を守ることが最優先だった。久子の作品を出版しないとなれば、それこそ上層部から何を言われるかは大いに予想できた。しかし、久子に振り回されてまで、彼女の作品を『ひかり書房』で出版する必要はないというのは、高梨にとっては本音に近い考えであった。
その二
金曜日の晩から、梢は明日のデートが楽しみで、まるで小学生の遠足前日のように寝付くことができなかった。笑理と再会してからというもの、マンションでお泊まりをしたり、笑理の小説を借りるのを口実に公私混同で会っていたが、デートというのは初めてであった。
そして翌日。寝不足ながらも早起きした梢は、私服選びに苦戦していた。笑理とは何度も会っているが、デートとなると話は別で、街を笑理と一緒に歩いて恥ずかしくないものにしなければいけないと、使命感のようなものがあった。
髪をセットし、化粧も完璧にした梢は急ぎ足で、集合場所である駅に向かった。
改札口を出た梢は、遠目ながらも噴水の前で佇む笑理の姿に気が付いた。クリーム色のシャツに、紺色のテーパードパンツ姿の笑理は、スタイリッシュな大人コーデで、細く見えるシルエットがより魅力的だった。かたや時間をかけて決めた梢のファッションは、デコルテから肩までが出ている白のオフショルダートップスに、デニムのロングスカートである。
「笑理!」
と、梢が大きく手を振ると、気づいた笑理も微笑んで手を振り返した。
「ごめんね、遅くなって。服装どうしようかと思ってたら、時間かかっちゃって」
「可愛いよ」
笑理にそう言われると、梢の顔には思わず笑みがこぼれる。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
笑理に手を握られ、梢は一緒に街を歩き始めた。
土曜日の街は、家族連れや友人連れ、カップルなど、人ごみであふれていた。その中で、梢と笑理が手を繋いで歩いていても、決して違和感はなかった。
映画館で映画を見た後、二人はオープンカフェに足を運んだ。注文したパンケーキを食べながら、笑理がふと呟いた。
「私ね、いつか自分の書いた小説がメディアミックス化されるのが夢なんだ」
「笑理の小説……いや、三田村理絵先生の小説なら、そろそろ映像化されても良いのにね」
「まあ、世の中そんなに甘くないか。恋愛小説なんて、この世に五万とあるわけだし」
「知名度をもっと上げて、今にいろんな作品が映像化されるのが当たり前みたいになれるように、私も編集者として頑張るから」
「ありがとう。梢は、何か夢とかあるの?」
笑理に尋ねられ、梢は考え込んだ。編集者という仕事を天職と思っている梢には、具体的な夢がなかったのだ。
「何だろう……一つでも多く作品を世に出したい、かな」
「さすが編集者だね」
「まあね」
梢は微笑みながら、アイスコーヒーを飲み干した。
その三
喫茶店の帰り道、梢と笑理はアンティーク雑貨店に足を運んだ。陶器やステンドグラス、ガーデニング用品、アクセサリー等、豊富な品揃えで、二人にとっては目の保養になっていた。
商品を見ていくうち、笑理はバラの花をあしらった合金製のブレスレットを見つけた。
「これ、二つください」
と、笑理は店員に頼み、ラッピングをしてもらった。ふと振り返ると、梢は物珍しそうに、陳列されている食器を眺めていた。笑理が梢の元にやってくると、
「何か、気になるものあった?」
「可愛い食器だなと思って。せっかくだから、二枚買っちゃおう」
「二枚?」
「笑理がうちに遊びに来てくれた時、お揃いの食器があったら良いでしょ」
梢は嬉しそうに言うと、金色のステンシル柄が縁取りされた白い皿を持って、レジへ向かった。
夕方になり、梢と笑理は水族館を訪れた。水中を泳ぐイルカをガラス越しに眺める笑理の横顔が美しく見え、梢は思わず見とれていた。そんな視線に気づいたのか、笑理は梢の方を振り向いた。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
梢は慌てて首を横に振った。だが、それでも梢は、笑理の横顔を眺め続けていた。
一通り水族館を回り終わって外に出ると、辺りは薄暗くなり始めていた。
「ちょっと早いけど、夕飯食べに行こうか」
「うん」
「何食べたい?」
「ええ、何だろう。お肉かな」
梢が少し考えてそう言うと、笑理は手を一回叩き、
「肉バルとか、どう?」
「賛成!」
「ちょっと待ってね、すぐ調べるから」
マップアプリを起動させると笑理は歩いていき、梢も後に続いた。
土曜日ということもあり店は少し混んでいたが、数分待つとすぐに席へ案内された。
赤ワインで乾杯をした後、梢と笑理は注文した肉の盛り合わせやアヒージョを食べ始めた。
「美味しそうに食べるね、梢は」
「だって美味しいんだもん」
「そうやって美味しそうに食べる梢の顔、好きだわ」
じっと笑理に見つめられ、梢は照れくさそうにうつむいた。
「笑理だって、さっき水族館でイルカ見てたときの横顔、美しすぎたよ」
「そんなことないって」
「推しが尊いって、こういうこと言うんだろうなぁって」
「おんなじ言葉、そっくりそのまま返す。私にとっての推しは、梢だから」
ワインを飲んだことで、お互い饒舌になったのか、梢も笑理も雰囲気を楽しみながら食事を共にした。梢はもはや、笑理が部活の先輩であり、自分が編集担当をしている作家であることも忘れるほどだった。
その四
夕飯を終えた梢と笑理は、美しい夜景が輝く港沿いの広場を歩いていた。途中、立ち止まって、そよ風を受けながら港を眺めていると、梢は、
「そういえば、今日雑貨店行った時、何買ったの?」
と、尋ねた。すると笑理は紙袋を開け、購入したバラのブレスレットを見せた。
「これ買ったの」
「可愛いじゃん」
「手、出して」
笑理に言われ、梢が手を前に差し出すと、手首にブレスレットをつけられた。
「私に?」
笑理も自分の手首にブレスレットをつけ、
「二つ同じやつ買ったの。お揃いにしたくて」
「笑理……」
アクセサリーをもらった梢は嬉しく、じっとブレスレットを見つめた。
「写真撮ろうよ。最初のデート記念に」
「うん」
笑理がスマホのカメラを自撮り機能にすると、梢は自分もカメラに映るように笑理にべったりと体をくっつけた。幸せそうにカメラに映る梢と笑理は、まさに付き合いたてのカップルそのものであった。
「ねえ、ここでキスしようか」
梢はハッとなった。
「え、ここで?」
「この時間になると、全然人もいないしさ」
梢は辺りを見回した。夕方はカップルが多いこの場所も、夜も九時半を回れば、人影は全く見受けられない。自分たちしかいないことを再度確認すると、
「うん……良いよ」
梢は瞼を閉じると、ゆっくりと顔を近づけてキスをする笑理を受け入れた。夜の気分ということもあるのか、梢はまだ笑理と一緒にいたい気持ちに駆られた。
「そろそろ、帰ろうか」
「笑理……。今日は、まだ笑理と一緒にいたい」
「一緒にいてくれるの?」
「うん」
笑理は一瞬何かを考えると、目の奥から真剣な眼差しとなった。
「あのさ……。私、梢と一緒に行きたいところがあるの」
「行きたいところ?」
「ひろーい!」
梢はダブルベッドにダイブした。笑理が行きたいと言っていた場所は、繁華街の中にあるラブホテルだった。
「真面目な顔するから、どこかと思っちゃったじゃん」
「梢に、ラブホテルに行きたいって言ったら、断られるんじゃないかと思ってさ」
「好きな人と一緒に行くんなら、問題ないでしょ」
梢は仰向けになると、体を大の字に伸ばした。するとその上から笑理が迫ってきた。
「梢。私、我慢できない」
笑理が勢いよくキスをしてきたので、梢は驚いて拒んでしまった。だがそれでも笑理が、梢の両腕を頭上で押さえつけ、自らの足で梢の両足も押さえ、何度も唇を重ねていくことに対して、梢も次第に笑理の積極性を受け入れてしまった。
その五
シャワーを浴びた後、梢は脱衣所にあるバスローブに身を包んだ。睡眠時はパジャマしか着たことがなかった梢にとって、初めてのバスローブだった。
ベッドのほうへ戻ってくると、先にシャワーを浴びた笑理が、同じようにバスローブ姿で小さく座り込んでいた。
「どうしたの、笑理?」
「ごめんね、さっきは」
「何で謝るの?」
梢は微笑むと、笑理の太ももの上に跨った。
「梢……」
「さっきは心の準備ができてなかったけど、今なら大丈夫だよ」
「良いの?」
「うん」
優しく梢が頷き、二人はそのままベッドに横たわった。
「梢って、前よりずっと可愛くなったね。いや、綺麗になった」
笑理に唇を撫でられて、梢は照れくさそうに微笑んだ。
「笑理といるんだもん、美意識ってうつるのかもしれないね」
笑理はまず、梢の額に一度キスをすると、そのまま唇、そして首筋にキスをした。笑理からの愛撫を受けている梢には、これまで感じたことのないゾクゾクした感触が襲い、思わず息が漏れてしまった。笑理は愛撫を続け、梢は鼻息を荒くしながらもグッとシーツを強く握りしめた。
翌朝、床には二枚のバスローブが落ちていた。
ベッドで笑理と体をくっつけて眠っている梢が、ゆっくりと目を覚ました。目の前に映る笑理は、まだぐっすりと眠っていた。梢はふと、昨晩の情事を通じて本当に笑理と結ばれたものだと実感していた。また、自分の手首のブレスレットと、笑理の手首についている同じものを見つめ、昨日のデートの余韻に浸っていた。
すると腕を伸ばして大きなあくびをしながら、笑理が目を覚ました。
「おはよう」
梢がささやくように言い、笑理も微笑んで、
「おはよう。よく寝たわ」
「朝風呂入ろうよ。ほら、浴槽大きかったじゃん」
「うん、入ろ」
浴槽の湯が溜まり、風呂に入った梢と笑理はお互いに足を伸ばした。
「あのさ、笑理。またデートしてくれる?」
「当たり前じゃん」
「やったー!」
梢は腕を高らかに上げた。これでまた、仕事をするための張り合いができたのだ。自然と笑みが顔に浮かんでくる。
「梢、ちょっとおいで」
笑理に手招きをされて梢が体を近づけると、そのまま笑理にキスをされた。
「おはようのキス、してなかったなと思って」
「じゃあこれからは、おやすみのキスもしてくれる?」
照れながらも梢が尋ねると、笑理は大きく頷いて、
「うん、ちゃんとする」
笑理に抱き着いた梢は、笑理との関係性が日に日に深まっていくことを何よりも肌で感じていた。