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桃赤×黄
雨音はさらに激しさを増し、叩きつけるような音が部屋の静寂を際立たせていた。ゆうすけの病状は、夜が深まるにつれて悪化の一途をたどっていた。高熱による倦怠感に加え、胃の奥からせり上がってくる不快な波――。ADHD特有の感覚過敏が、その吐き気を何倍にも増幅させていた。シーツのわずかな皺が肌に刺さるように感じられ、枕の匂いさえも鼻を突く。
🦁「……う、……ぅぷ」
突然、胃がひっくり返るような感覚に襲われ、ゆうすけは反射的に口元を押さえた。しかし、身体に力が入らず、起き上がることすらままならない。
🐤「あにき、こっち!」
その異変を、隣室で待機していたりうらが見逃すはずもなかった。彼は瞬時にベッドサイドへ駆け寄り、ゆうすけの背中に手を回して、あらかじめ用意していた洗面器を差し出した。
🐤「大丈夫、出していいよ。りうらが持ってるから」
背中をさするりうらの手は驚くほど落ち着いていた。
ゆうすけは、自分の胃が激しく収縮する音を聞きながら、胃液混じりの苦いものを吐き出した。嘔吐という行為そのものへの恐怖と、生理的な不快感。脳内では「汚してしまった」「情けない」「りうらに見られたくない」という思考が、止めどない濁流となって渦巻く。
🦁「……はぁ、……っ、げほっ! ごめ……りう、ら……っ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、ゆうすけは震える声で謝罪を口にした。ADHDの彼は、こうした「不測の事態」に直面すると、必要以上に自分を責めてパニックに陥りやすい。
🐤「謝らなくていいって。全部出しちゃおう、その方が楽になるから」
りうらは、ゆうすけの背中を大きく、ゆっくりとしたリズムで叩き続けた。それは、パニックになりかけたゆうすけの呼吸を整えるための、無言のメトロノームのようだった。
ようやく吐き気が収まり、ゆうすけがぐったりと枕に頭を沈めると、りうらは手際よく後片付けを始めた。汚れた洗面器を片付け、口をゆすぐための水を用意し、汚れた口元を温かいタオルで丁寧に拭う。
🦁「……汚いのに、よく、そんな……」
🐤「汚くないよ。あにきが苦しいのが一番嫌だから」
りうらはそう言い切り、ゆうすけの着替えを取り出した。汗と嘔吐の飛沫で汚れたパジャマを脱がせる際も、その手つきは驚くほど優しく、そして一切の迷いがない。
🐤「腕、通せる? ゆっくりでいいよ」
まるで壊れ物を扱うような手つき。ADHDの特性ゆえに、普段から忘れ物や不注意で「叱られる側」に回ることの多いゆうすけにとって、この無条件の肯定と献身は、身体の痛み以上に心に深く染み渡った。
ようやく新しいパジャマに着替え、口の中の苦味も消えた頃。ゆうすけの意識は、熱による朦朧とした世界へと戻っていった。
🦁「……りうら、手……」
🐤「ここにあるよ」
りうらは、ゆうすけの少し震える手をしっかりと握り直した。
ADHDの脳は、寝入り際になってもなお、今日あったことや明日起こるかもしれないトラブルを検索し続けようとする。けれど、りうらの手のひらの心地よい温度が、その暴走しそうな意識を「今、ここ」に繋ぎ止めてくれる。
🐤「あにきの脳の中のスイッチ、りうらが全部『オフ』にしてあげる。だから、今はただ、りうらの呼吸に合わせて息して」
りうらがゆっくりと呼吸を繰り返すと、ゆうすけも無意識にそれに合わせる。吸って、吐いて。脳内の嵐が少しずつ凪いでいく。
🐤「……りうらがずっと、あにきの境界線になってあげるから」
りうらの囁きは、雨音に溶けて消えた。
翌朝、目が覚めたときに、また忘れ物をして、またりうらに世話を焼かれる日常が戻ってくる。けれど、今この瞬間だけは、世界で一番静かで安全な場所で、ゆうすけは深い安らぎの中にいた。
りうらは、眠りについた親友の額にそっと手を当て、その熱が少しでも下がることを祈りながら、夜が明けるまでその手を離さなかった。
雨音はさらに激しさを増し、夜の静寂を塗りつぶしていく。
りうらが付きっきりで介抱していたところに、ドアを控えめに叩く音がした。入ってきたのは、心配そうに眉を下げたないこだった。
🍣「りうら、どう? ……あちゃ、だいぶきつそうだね」
ないこは手に、冷えピタや数種類のスポーツドリンク、そしてゼリー飲料が詰まった袋を下げていた。
りうらが「落ち着き」を与える存在なら、ないこは「安心と管理」のプロだった。
ないこは手際よく体温計をゆうすけの脇に差し込み、数値を確認して小さく息をつく。
🍣「38.5度か。あにき、しんどいよな。これ、さっきの吐き気で脱水にならんように、ちょっとずつでいいから飲も?」
ないこは、ゆうすけが飲みやすいようにペットボトルにストローを挿し、絶妙な角度で差し出す。ADHDのゆうすけは、体調が悪くなると「喉が渇いた」という感覚さえ忘れて思考の迷路に入り込んでしまうことがある。ないこはそれを熟知していた。
🦁「あ……ないこ……ごめん、二人とも……」
🍣「謝禁止! 今のゆうすけの仕事は、息をして寝ることだけ。リーダー命令ね」
ないこは茶目っ気たっぷりに笑い、ゆうすけの髪を優しく撫でた。
落ち着いたかに見えたが、不意にゆうすけの顔が再び青ざめた。喉の奥からせり上がる不快感に、ゆうすけが短く「……っ、う」と声を漏らす。
🍣「りうら、洗面器! あにき、身体起こすよ、ごめんね」
ないこの指示は速かった。
ないこがゆうすけの身体をがっしりと支え、りうらが洗面器を差し出す。再び襲ってきた嘔吐の波に、ゆうすけは震えながら耐えるしかなかった。胃の中はもう空っぽなのに、苦い胆汁だけが容赦なく吐き出される。
🦁「はぁ、っ……げほっ、……ううぅ……」
涙でぐちゃぐちゃになったゆうすけの背中を、ないこは力強く、しかし安心させるようにゆっくりとさする。
🍣「大丈夫、大丈夫。全部出しちゃっていいよ。俺らが全部受け止めるから、怖くないよ」
ないこの声は温かく、パニックになりそうなゆうすけの心を現世に繋ぎ止めていた。ADHDの影響で感覚が過敏になっているゆうすけにとって、一人でこの苦痛に耐えるのは「終わりがない地獄」のように感じられるが、二人の手が触れているだけで、その恐怖が和らいでいく。
ようやく吐き気が収まり、汚れたものを片付け終えた部屋には、加湿器の柔らかな蒸気が漂っていた。
ないこは、ゆうすけの額に新しい冷えピタを貼り、布団を丁寧にかけ直す。
🍣「あにき、頭の中うるさくなってない? 何か不安なことあるなら、俺がメモしといてあげるよ。明日のことは全部俺が調整するから」
🦁「……明日、……提出しなきゃいけない、書類……」
🍣「はい、それもメモした。もう忘れていいよ。俺が預かったから」
ないこは自分のスマホのメモ帳を見せ、ゆうすけの脳内にある「未完了のタスク」を物理的に外へ追い出してやった。これも、ADHDの人間にとって最高の看病の一つだ。
🦁「……ありがと……」
左右から、りうらとないこに手を握られ、ゆうすけは重い瞼を閉じた。
🍣「おやすみ、あにき。朝になったら、ちょっとは楽になってるよ」
ないこの穏やかな声と、りうらのひんやりとした手のひら。
最強の二人に守られながら、ゆうすけの意識はゆっくりと、今度こそ穏やかな眠りの海へと沈んでいった。二人は、ゆうすけの呼吸が完全に安定するまで、暗い部屋の中で静かに見守り続けていた。