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桜咲かな
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「足元に気をつけて」
アルセイン皇子から差し出された手を取り、荒れた道を慎重に進んでいく。
ソルリアの中心街から少し外れ、海と隣接する崖の上に、一軒の大きな邸宅が建っていた。
エリスによると、そこにレディー・マルグリッドがいるという。
レディー・マルグリッドは、ソルリアの人間なら誰しもが知っており、彼女の噂は色々とあるようで。名家から家出してきたお嬢様だとか、騎士と駆け落ちしてきただとか、どれも根も葉もないような噂だった。
しかし、どんな噂であれ、彼女はオリジナルの香水を作り出して生計を立てている、ということだけ一致していた。
麻薬の成分が入った依存性の高い香水。
人間の思考を支配して、無理に金銭を奪って稼ぎを蓄える。
そんなことをしている人間がこの世に存在するという事実に、吐き気がする。
まあ、彼女らしいと言えばそうのかもしれないけど……。
「わっ……」
その時、突然風が吹抜け、私の長く伸びた金髪を揺らした。
「ルクレティア、大丈夫ですか」
「平気です。ソルリアは本当に綺麗なところですね。全部落ち着いたら、また遊びにきたいです」
なびく髪を抑えながら、笑ってそういうと、アルセインは「俺もです」と言って笑みを返してくれた。
テレジアン王国の王宮は海から遠く離れた場所にあった。
だから私は、幼い頃から海というものに密かな憧れを抱いていた。
もしも私に次の人生があるのなら、こんなふうに海を一望できる家に住んでみたい。誰かに監視されるような窮屈な日々ではなく、自由な人生を。
そんな呑気なことを考えていられるほど、今の私は不思議なくらい落ち着いていた。
何をするにも緊張して、いつも騒がしいほどに高鳴っていた胸が、今はまるで嘘のように静まり返っている。
ちらりと隣へ視線を向けると、私の手をしっかりと握りながら、険しい表情で前を見据えるアルセインの姿があった。
その横顔を見ていると、不思議と心が熱しられた湯のようにぐつぐつと煮えたぎる。一体何が起きているのか、自分の体なのに理解が追いつかない。
やがて私たちは、白樺とレンガを組み合わせた邸宅の前へ辿り着いた。
私よりも先に一歩踏み出したアルセインが重厚な扉を叩く。
しばらくして屋敷の中から足音が聞こえると、ゆっくりと扉が開かれた。
「ど、どちらさまでしょうか……」
扉が開かれると同時に、消え入りそうな少女の声が響く。
それと同時に、甘く濃厚な花の香りが鼻を掠めた。
「ら、来客の予定はなかったはずですが……」
私たちを出迎えたのは、赤茶色の髪を三つ編みにしたそばかすの目立つ若い女だった。
ほっそりと痩せた身体に合っていない豪華なドレスをまとい、肩を小さく丸め、警戒するような眼差しでこちらを窺っている。
そんな彼女に、アルセインは人好きのする優しげな笑みを向けた。
「レディー・マルグリッド様の屋敷はこちらで間違いありませんか?」
「そ、それは……そうですが」
赤毛の少女が戸惑いながら頷く。
まさか、こんなところで先ほど決めた設定が役に立つとは思わなかった。
エリスとセシルと話をつけた後、一度馬車まで戻った私たちは、同行させていた護衛騎士に皇宮へ引き返し、すぐに援軍を連れてくるよう命じた。
万が一に備えてのことではあるが、戻ってくるまでには少なからず時間がかかる。
彼らが勘づいて逃げ出す前に、この香水の流通に関わっているレディー・マルグリッドという人物に接触することが目的だとアルセインは言った。
レディー・マルグリッド。彼女が何者なのかを確かめるために……。
その名前を思うと気乗りしなかったが、彼と共に行きたいという気持ちの方が強かった。そして暗く荒んだ過去と決別するためにも、この選択は決して間違っていない。
「初めまして、ティア・ダンヴェールと申します」
「ダンヴェール? もしかして……」
「はい。ダンヴェール子爵家の三女です」
ヴァレンツィア帝国の貴族家から適当に名前を借りた私は、相手に少しも嘘を悟られないよう、穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。
「子爵家のご令嬢が、どうして我が家に……?」
「実は、お父様の誕生日プレゼントを買うためにソルリアに遊びにきたのですが、乗ってきた馬車の車輪が壊れてしまったんです」
胸の前で両手を合わせて瞳を潤ませてみせると、隣に立っていたアルセインがふっと笑みをこぼした。
何を笑っているの? 私は今、真剣なのに!
彼を睨みつけたい気持ちを必死に押し殺し、怒りが顔に出ないよう健気な令嬢を演じながら言葉を続ける。
「今、御者が修理しているのですが、それまでの間こちらで休ませてはいただけないでしょうか?」
私の頼みに、少女は困惑したように眉をひそめ、どう答えるべきか迷っている様子だった。
それでも懇願するように瞳を潤ませると、観念したように少女は頷いた。
「で、では、その馬車の様子を確認してから……」
「いいではありませんか、お嬢様」
少女が怯えたように視線を泳がせた、その時だった。
彼女の背後から、はつらつとした若い女の声が響く。
顔を覗かせたのは、艶やかな薄紫色の髪をした女だった。
メイド服を身に纏い、いかにも愛想のよい笑顔を浮かべている。
彼女の姿が目に入った瞬間、私は全身に力が入るのがわかった。
落ち着け、落ち着くのよ、ルクレティア。
「お嬢様? それでは、あなたがこの屋敷の主人、レディー・マルグリッドで?」
アルセインの言葉に、三つ編みの少女が小さく頷いた。
細い身体に、大きすぎるドレス。怯えたような表情からは、この屋敷の主人としての威厳など少しも感じられない。
私は何も気づいていないフリをして、ふっと柔らかく微笑んで見せた。
すると薄紫色の髪を持つメイドが私を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
「ぜひ、この屋敷で休まれていくといいですわ。お嬢様もちょうどおひとりで退屈されていたようですので」
薄紫色の髪の女はそう言いながら、三つ編みの少女の肩へそっと両手を添えた。
「そうでしょう? マルグリッドお嬢様」
「は、はい。歓迎します」
私は彼女たちに視線を固定したまま、誰にも気づかれないよう足だけを動かし、すぐ隣に立つアルセインの方へとそっと距離を詰めた。
「よかったですね、お嬢様」
「ええ、本当に助かったわ」
どこかこの設定を楽しんでいそうな、今は私の護衛騎士であるアルセインに笑いかける。
私、今ちゃんと笑えているかしら。
心臓が早鐘のように打ち続け、今にも破裂してしまいそうだった。雨粒のように肌に張り付く汗が不快でたまらない。
「あら? 大変、お嬢様ったら。ドレスが汚れていますよ」
「え……」
「先ほどまで召し上がっていた紅茶をこぼされたのですね。さあ、私がお客様をご案内しておきますから、すぐに着替えていらしてください」
メイドの言葉に戸惑いながらも、赤毛の少女は慌てて頷いた。
「そうね。あなたに頼むわ。私は少し準備があるので、ま、待っていてください」
「かしこまりました。突然の訪問にも関わらず、ご丁寧な歓迎に感謝いたします」
「いえ……」
最後にそう言い残すと、少女は逃げ隠れるネズミのように背を丸くして素早く去っていった。
「助かります。馬車が壊れてしまい、お嬢様を外に立たせるわけにもいかず困っていたので」
「本当に災難でしたわね。ぜひごゆっくりしていただいて……」
「下手な芝居はその辺りにしたらどうです? セシリア嬢」
私の言葉に、彼女とアルセインの視線が同時に向けられる。
「芝居……? 何を仰っているのか私にはまったく……」
彼女の艶やかな紫色の髪を見た瞬間に、むせ返るような吐き気が襲った。
忘れたくても忘れることのできない、私のトラウマ。
花のように美しい、テレジアン王国の社交界の中心人物。
「セシリア・マルグリッド。私がその名を忘れるはずがないでしょう」
「まあ……姫様にそんなことを言っていただけるなんて光栄ですわ」
セシリアの美しい目元が甘やかに細められる。
セシリアの口から、“姫様”という呼び名が口にされた瞬間、アルセインが私を庇うように一歩前に出た。
「あら、皇子さまったら。そう警戒されないでください。姫様と私はテレジアン王国で一番の親友だったのですよ?」
「親友……?」
アルセインの視線が私に向けられる。
だけど私は、ただセシリアに視線を固定したまま固まっていた。
親友? 私の友人? 他の誰でもないあなたが、どうしてそんな言葉を口にできるの?
すぐに違うと否定したいのに、なぜか舌が石のように固まって動かない。
「大切な友人に危害を加えるはずがないではありませんか」
宝石のように鋭く輝く彼女の瞳に見つめられると、すべてを見透かされているような気分になった。
『姫様が私のことを階段から……!』
……そう。あの頃のように。
今ヴァレンツィア帝国にいて、皇子妃という華やかな立場を手に入れ、アルセインやアリステアから受けている優しさは単なるまやかしでしかないことを。
本当の、醜い自分自身を。
「ねえ? ルクレティア・フォン・テレジアン姫様?」
最低最悪の悪女。
テレジアン王国の汚点。
それこそが、真の私であることを……。
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