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「兄ちゃん」
耳馴染みのない、幼く高い声が降ってくる。その響きに、蓮の意識はゆっくりと浮上した。
「兄ちゃん、起きてってば」
夢うつつだった蓮は、その言葉で一気に覚醒した。まぶたを持ち上げると、視界いっぱいにナギの寝ぼけ眼が映る。一瞬、状況が呑み込めずギョッとして身を引いたが、すぐに昨夜の情事を思い出し、そのあどけない顔に目を細めた。 ――だが、直後に背中を嫌な汗が伝う。
今、必死にナギの体を揺さぶっているのは、弟の海斗くんだ。 蓮は上掛けの中で息を潜めた。顔の半分を布団に埋め、ナギの背中を盾にする。こちらの存在には気づかれていない、はずだ。
「ん……いま、なんじ?」
「朝だよ、起きてよぉ。おしっこ漏れちゃう~っ」
情けない声とともに、海斗くんがもじもじと足を擦り合わせる。
「んー……先にトイレ行ってきなよ」
「やだぁ、一緒がいい! 来てよぉ」
「わかった、わかったから……ちょっと待って……」
甘えて擦り寄る弟に、ナギは眠そうに目をこすりながら重い腰を上げた。――その拍子に、隣で固まっている蓮の存在にハッと気づく。
「あ、えっと……おはよ」
「……おはよ。――それより、早くトイレに連れて行ってあげたら?」
蓮がぎこちなく促すと、ナギは戸惑い気味にこくりと頷いた。
「海斗、ちょ、ちょっとだけ待ってて! 後ろ向いて十数えてて!」
「やだぁ、漏れるってばー!」
「っ、わ、わかったよ……!」
焦った声を残し、ナギは海斗くんを小脇に抱え、ベッド脇に散らばっていたズボンと下着をひっ掴むと、バタバタと部屋を飛び出していった。
下半身を晒したまま走り去るナギの姿は、あまりにシュールだ。
――が、笑い事ではない。海斗くんがどこまで見ていたかは不明だし、子供は悪気なくすべてを口にする。実におそろしい。
蓮はひとまず布団を抜け出し、床に脱ぎ捨てられていた自分のズボンを履いて、そっとベッドから降りた。しばらくして、ナギが戻ってくる。
「はぁ、間に合ったぁ……」
「……おかえり。よかったね」
「よくないよ。海斗に『なんでパンツ履いてないの?』って聞かれて、誤魔化すの大変だったんだからな」
「ははっ、それは……うん、ごめん」
ナギはふてくされたように唇を尖らせる。蓮は思わずくすっと笑い声を漏らした。 「笑い事じゃない!」と言い合いながらも、目が合うとどちらからともなく吹き出してしまう。
「ちなみに、なんて答えたんだい?」
「っ、教えない! とにかく、お兄さんやり過ぎなんだよ……っ」
「とかなんとか言って、ナギもノリノリだったくせに」
「うるさいなぁ。だって、久しぶりだったし……」
ごにょごにょと続けた言い訳は、途中で恥ずかしくなったのか尻すぼみになった。
「兄ちゃん、おなかすいたー!」
「ハイハイ、ちょっと待って! 今行くからっ」
リビングから海斗くんの急かす声が飛ぶ。ナギは慌てて返事をし、振り返って蓮を見た。
「えっと、じゃあ俺……先に行ってるね」
ちゅっと蓮の額にキスを落とし、そそくさと寝室を後にした。ドアの向こうで、軽い足音が遠ざかっていく。
蓮の周りに小さな子供はいない。幼い頃にいちゃつく両親を見た記憶もほとんどなかった。
――それでも、今感じた空気は、悪くない。 子供を持つつもりも、家庭を持つ気もなかった。
けれど、ナギとこんなふうに過ごせる未来があるのなら、毎日が少し楽しくなるのかもしれない――そう思った瞬間、緩む頬をどうしても止められなかった。
結局その後、そろそろ帰ろうかという頃合いに、クリスマスを満喫して戻ってきたナギの両親と初対面することになってしまった。
もともと蓮のファンだったという母親にサインを求められ、蓮はいたたまれなさと申し訳なさが入り混じった複雑な心境でペンを取った。さらに「もっと話を聞きたい」という母親の強い希望に押し切られ、断りきれずに夕食を共にすることに。気づけば、もう一泊する流れになっていた。
「ごめんね、お兄さん。母さん、強引なところがあってさ」
「いや、それはいいんだ。けど、二晩も泊めてもらって本当によかったのかな」
順番に風呂を済ませ、ナギの部屋には客用の布団まで用意してもらった。ようやく一息ついた頃には、すっかり夜も更けている。
ベッドを背もたれ代わりに並んで座り、二人は指を絡めて手を繋いだ。 今日一日、母親や再婚相手だという父親ともいろいろ話したが、さすがに交際中だという事実だけは言えず、曖昧に誤魔化してしまった。
「いいんだよ。俺も、お兄さんと一緒にいたかったし……」
ことん、と蓮の肩に頭を預けてくる仕草が、どうしようもなく愛おしい。
「……っ、そういう可愛いこと言われると、辛いものがあるな」
「へ? って、さ、流石に今夜はダメだからね!? 何考えてるんだよ……っ」
真っ赤になって慌てるナギに、蓮はくすりと笑い、そっと引き寄せた。
「大丈夫だよ。ご両親がすぐそばにいるんだから、しないって。――ああ、でも。キスくらいは、いいだろ?」
耳元で囁き、くいと顎を持ち上げて視線を絡める。
「……っ、キス……だけ……だからね?」
ナギは一瞬息を呑んだが、すぐに小さく頷いて、ぎゅっと目を閉じた。
遠慮がちに顎を持ち上げていた蓮の手が、優しくナギの頬を包み込む。引き合うように唇を寄せ合い、触れるだけの密やかなキスをして、ゆっくりと離れる。
「――……なんだか、くすぐったいな」
照れたように微笑むナギに、蓮は声を殺して笑みを零した。再び触れ合うだけのキスをしようと、もう一度顔を寄せた、その時。
「ママ? そこでなにしてるの?」
突然、部屋の外から無垢な声が響き、二人はギョッとして身体を離した。油の切れたロボットのような動きで振り向くと、ナギの母親がドアの隙間から顔を覗かせていた。 ナギそっくりのつぶらな瞳が、蓮たちをじっと見つめている。蓮は心臓が止まるかと思うほど驚愕した。
(一体、いつから覗いていたんだ……っ)
「か、母さんっ! ちょっと、何してんだよ!」
「あらぁ、ごめんなさい。邪魔するつもりはなかったんだけど……。スマホ、リビングに置きっぱなしだったから届けようと思って」
ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべる母親の姿に、ナギは真っ赤な顔で口をパクパクさせている。蓮は緊張と焦りで心臓が破裂しそうになり、ごくりと唾を呑み込んだ。
「フフ、大丈夫。パパには言わないから。こっちのことは気にしないで、ゆっくりしてていいからね!」
満面の笑顔でそう言い残し、隙間からスマホを差し入れると、恭しくドアが閉じられた。 パタン、と無情にも閉まったドアを呆然と見つめながら、二人は同時に深い、深いため息を吐いた。
「もー……いつもドアはノックしてって言ってるのに……」
はぁ、と頭を抱えるナギに、蓮は力なく苦笑いを浮かべる。
「まぁ、でも……お母さん公認になれてよかったじゃないか。随分と好意的な感じだったし」
「それは……まぁ、そうだけどさ……」
ナギはもう一度深いため息を零すと、ガシガシと頭を掻いてから、複雑な面持ちで蓮を見つめた。