テラーノベル
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36
夜の帳がすっかり降りた都内の一等地。遮音性の高いリビングには、テレビのバラエティ番組の音だけが小さく響いていた。
「でさ、俺が『自分で買いに行きなよ!』って言ったら、りょうちゃん耳まで真っ赤にして『やめてくれよ〜!』って。もう最高に面白かった」
元貴がソファの背もたれに深く体重を預け、手元のスマートフォンをいじりながらくつくつと意地悪く笑う。先ほどまで放送されていたのは、僕らがレギュラーを務めるラジオ番組『ミセスLOCKS!』の録音放送だった。オンエアをリアルタイムで確認し終えた元貴は、実に機嫌よさそうに瞳を細めている。その視線の先、ソファの反対側に小さくなって座っているのが、話題の中心である僕、藤澤涼架だった。
僕は大きめのクッションを胸にしがみつくように抱え込み、顎をその上に乗せて、恨めしそうな視線を元貴に送る。多分僕の頬は、ラジオの収録時と同じように、いや、それ以上に赤く染まっているだろう。
「もう……元貴、本当に容赦ないんだから。オンエアで客観的に聴いてもやっぱり恥ずかしいよ。ファンの人たち、SNSで『りょうちゃんにお友達がいてよかった』って、みんな保護者みたいなこと言ってるんだからね? 恥ずかしくて次の現場でみんなの顔見れないよ……」
「いいじゃん、平和で。みんなりょうちゃんのことが大好きなんだよ」
元貴はスマートフォンをローテーブルに置くと、画面を伏せた。そして、ふっ、と悪戯っぽく口元を緩める。
「でもさ、実際、俺もオンエア聴きながらちょっとだけ思ったんだよね。あ、りょうちゃん、俺以外の男と買い物行くんだー、って」
「えっ……」
不意に投げられた低めの声に、心臓がどくんと跳ねる。元貴はソファの上を滑るようにして、ゆっくりと僕の隣へと移動してきた。その動きは、まるでお気に入りの獲物を追い詰める肉食動物のように艶やかで、迷いがない。
二人の距離が完全にゼロになる。それはメンバーとしてのそれではなく、この部屋の中だけで許された、完全に「恋人」の距離感だった。
元貴の長い指が、僕の少し長めの金髪を優しく払う。耳にかけられた指先が、ほてった肌に触れた。元貴の瞳は、ラジオで見せる鋭いツッコミの切れ味とは裏腹に、深く、濃い熱を孕んで潤んでいる。
「なに? その顔。俺がりょうちゃんに嫉妬したらおかしい?」
「おかしくはないけど……でも、あれは本当にただの、昔からの地元の友達だし、僕が自分の服を選ぶのが苦手だから、見かねて付き合ってくれただけで……。本当に、元貴が怒るようなことなんて何もないんだよ?」
必死に弁明する。元貴の嫉妬が本気であれ、半分からかいであれ、元貴を不安にさせることだけは避けたかった。僕にとって、大森元貴という存在は人生のすべてであり、最も傷つけたくない、最も大切にしたい恋人だからだ。しかし、元貴は必死なようすの僕の顔を見て、さらに愛おしさを募らせたようだった。
「わかってるよ。りょうちゃんが浮気なんかできないくらい、俺にベタ惚れなことくらい、誰よりも俺がよく知ってる」
元貴はそう言うと、僕の手からクッションを容赦なく取り上げ、床にぽいと放り投げた。遮るものがなくなった僕の身体を引き留めるように、自分の胸元へと強く引き寄せる。僕の肩が、元貴の逞しい腕の中にすっぽりと収まった。ふわりと、元貴のお気に入りの、少しウッディで甘い香水の香りが鼻腔をくすぐる。
それは、ステージの上のきらびやかな『大森元貴』ではなく、プライベートで自分だけを抱きしめてくれる『元貴』の匂いだった。
「元貴……?」
「あのさ、りょうちゃん。服が欲しいなら、俺に言えばいいじゃん。俺がいくらでも選んであげるし、コーディネートだって全身組んであげる。なんなら、りょうちゃんに似合うブランド、お店ごと買い占めてあげてもいいのに」
低く、耳元で囁かれる声。
それはステージで何万人もの心を震わせ、熱狂させる歌声とは違う。藤澤涼架という僕一人の男を蕩けさせるためだけに用意された、酷く甘くて、独占欲の強いトーン。僕は顔を真っ赤にしながら、逃げるように元貴の胸元に額を押し付けた。上質なニット越しに、元貴の規則正しい、でも少しだけ早い心音が伝わってくる。
「だって、元貴はいつも忙しいし……僕のために時間を使わせるの、申し訳ないなって。それに、元貴と服を買いに行ったら、元貴のセンスが良すぎるし、何を着てもお洒落だから、僕、隣にいて緊張しちゃうんだもん」
「なんで恋人に緊張してんの。バカじゃないの?」
口調は呆れたようでありながら、元貴の腕はさらに強く僕の腰を抱きしめる。
元貴は僕の顎を優しく、しかし拒むことを許さない力加減で持ち上げ、無理やり視線を合わせる。僕の潤んでいるであろう瞳が、大森の端正な顔を真っ直ぐに捉える。
「緊張なんかさせないよ。全部俺の好みに染めてあげるだけ」
元貴の指先が、僕の唇の端をそっとなぞる。
「りょうちゃんはさ、いっつもそうやって一歩引くよね。結成したばっかりの時もそうだった。俺の顔色伺って、変に遠慮して。あの時、俺がなんて言ったか覚えてる?」
僕は目をまたたかせ、記憶の引き出しをあさった。まだお互いが十代で、バンドの未来なんて何も見えていなかった頃。いつも考えすぎて動けなくなっていた自分に、元貴は真っ直ぐな言葉をくれた。
「……『考えなくても、まずは一歩踏み出してみることを積み重ねている人の方がすごいし、先に進める』でしょ?」
「そう。よく覚えてんじゃん」
元貴は嬉しそうに目を細め、僕の額に自分の額をこつん、と当てた。
「あの時、りょうちゃんは俺の言葉に救われたって言ってくれたけど、俺もりょうちゃんに救われたんだよ。俺の音楽を、俺の言葉を、そんなに真っ直ぐに受け止めてくれる人がいるんだって。だから、俺にとってりょうちゃんは、最初から特別なの。他の誰かにりょうちゃんの色を決められるの、正直めちゃくちゃ気に入らない」
元貴の言葉が熱を帯びて僕の鼓膜に染み込んでいく。僕は、元貴がどれほど自分を必要としてくれているかを改めて突きつけられ、胸が苦しくなるほどの愛おしさに襲われた。最年長なのに、いつも元貴に引っ張ってもらってばかりだと思っていた。
「元貴……ごめんね。僕、元貴がそんな風に思ってくれてるなんて……」
「謝ってほしいわけじゃない。……ねえ、次の休み、俺と買い物行こ? 決定ね」
「……うん。元貴が選んでくれるなら、僕、なんでも着るよ」
少しはにかみながらそう答えると、元貴の顔に意地悪で、最高に甘い笑みが浮かんだ。
「よし。じゃあ、外に出る時用の格好いい服と……あと、俺の部屋で着る用の、可愛いパジャマもね。できれば、俺がすぐ脱がせやすいやつ」
「なっ、なに言ってるの、元貴……っ!」
赤面する僕の言葉を遮るように、元貴の唇が僕の唇へと重ねられた。
最初は、触れるだけの静かなキス。しかし、僕が驚いて少し開いた口唇の隙間に、元貴は滑り込ませるようにして舌を入れてきた。
「ん……む、元貴……」
鼻を抜ける僕の甘い吐息が、静かなリビングに小さく響く。元貴の手が僕の背中を、優しく、しかし確実な力で愛撫するように上下した。何度も角度を変えて貪るようなキスが重ねられるたびに、身体から力が抜けていく。クッションのなくなったソファの上で身体がゆっくりと後ろに倒れ込み、元貴がその上に覆い被さるような形になった。深いキスの合間に、銀の糸が引く。元貴は視線だけを動かし、自分の下で息を荒くしている僕を見つめた。
「ねえ、りょうちゃん。ラジオの時、ドラマの告知でさ。俺に『ちゃんと自分の宣伝することはしっかりやりなさい!』って怒られたって言ってたよね」
「え……? うん、あ、あれは……僕が照れちゃって……」
突然の仕事の話題に、思考が追いつかない。元貴はそんな僕に構わず首筋に顔を埋め、柔らかい皮膚にわざと痛くない程度に歯を立てた。
「あ、ひゃん……っ、元貴、急に噛まないで……」
「仕事の告知はちゃんと怒ってあげるけど……プライベートの、俺に対する義務をサボった時は、もっとお仕置き重いからね?」
「俺に対する義務って……なに、それ……」
「俺だけを見て、俺だけに甘やかされること。他の男に服選んでもらって喜んでちゃダメ。俺が嫉妬して、こうやってりょうちゃんをめちゃくちゃにしたくなるの、全部りょうちゃんのせいなんだから」
元貴の言葉は独理に満ちていたが、その瞳にあるのは、壊れ物を扱うような繊細な愛だった。言葉の鋭さとは裏腹に、僕の髪を撫でる手つきはどこまでも優しい。
僕は、大森の首に自ら腕を絡ませた。少しだけ身体を持ち上げ、元貴の耳元に唇を寄せる。
「……元貴のせいだよ。元貴が、僕をこんなにダメにするから……」
「へえ、人のせいにするんだ」
「本当のことだもん。……もう、服の話は終わり。今は、元貴のことしか考えてないよ」
いつもは気弱で一歩引いてしまう僕が、めずらしく元貴に見せた小さな挑発。
元貴の瞳の奥の熱い火が、一瞬で大きくなったのがわかる。
「……後悔しても知らないからね」
低く弾むような声と共に、元貴は再び僕の唇を塞いだ。今度は先ほどよりもずっと深く、激しく、互いの体温を確かめ合うような抱擁へと変わっていく。
テレビの音はもう耳には届かない。
ラジオの電波には絶対に乗せることのできない、甘くて、少しだけ不器用な僕らの秘密の時間が、夜更けが訪れてもなお、静かに、そして濃密に続いていった。
完。
コメント
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可愛いが詰まってますね😳
すごく好みです