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「あっ…… うっ⁉ う嗚呼ああああああああ…… ジン―― たっ たすけ――― 」


「レイ―――‼ 」


死の匂いが鼻腔を突き刺し、恐怖がズルリと間近に迫る。見た者の心を一瞬で溶かすその者は、魑魅魍魎と云《い》うに相応しい化け物の身体と、亡者の腐った呪怨の塊で成っていた……


全ての表皮は殻の様な外骨格に覆われ、顕著《けんちょ》に小さな棘を無数に生やした見上げる程大きな平らで幅広い甲羅。前方には一対の巨大な鋏脚《けんきゃく》を備えた前肢《ぜんし》が死を招き入れている。


その姿は一見すると記憶に新しい、甲殻類に属する十脚目の節足動物のようでもあるが、違うのは8本の歩脚《ほきゃく》と一対の鋏脚の他に、外骨格に覆われた4本の長過ぎる人の手の様な物と、本来眼があるべき場所には、断末魔の表情をした生気の無い人の顔が数え切れぬ程に埋め込まれている事だった。


人の物と思わしき顔には眼球は既に無く、ぽっかりと開いた漆黒の闇だけが広がり、涕の代わりにウヨウヨと蠢く無数の蛆《うじ》が溢れだし、その口と思われる場所からは、様々な奇怪な昆虫とおぼしき者達を、ごぼぼぼぼと泡と一緒にゆっくりと吐き出していた。


鋏脚を地面に突き刺し、ズルズルと化け物がレイへと近づいたときだった。人の顔面がズルリと滑り落ちると、まるで熟れた果実を潰したかのようにパシャンと血飛沫を巻き上げ、地面に頭蓋《ずがい》だけを残し血溜まりを描いた。


―――い嗚呼アァァァァぁ―――


レイの絶叫に間髪入れず、サイラが油の残った手桶を化け物に投げつける―――


「レイ‼ 逃げなさい――― こっちに‼ 」


―――ギュボアァァァァ―――

巨大な化け物の絶叫が、森の中に佇む静かな研究所を震撼させた。


「ジン―― 今よ、松明を投げつけて―――‼ はやく」


ジンが松明に視線をずらした僅かな瞬間に、激しい衝撃と激痛が身体を無残に弄《もてあそ》ぶ。鋏脚により薙ぎ払われた事すらも気付かぬうちにジンは、太い立木に成す統べも無く打ち付けられる。


「ぐっがぁぁぁぁぁ――― 」


「ジン―――‼ 」


失われゆく意識の中、サイラの叫びだけがジンの意識を引き留めた。巨大な鋏脚は側頭部を掠めただけに留まったが、その破壊力は、簡単にジンの右目を破裂させるのには十分過ぎる程であった。


―――いつ動いた?

まるで瞬間移動だったぞ―――


「化け物…… め…… 」

ジンは立木を背負い崩れ落ちる。


「なっ、何なんですか此奴《こいつ》――― 」

普段から冷静なサイラは、初めて恐怖に聲《こえ》を震わせた。


「こっ、此奴は多分…… 素材を結合し…… 造られた、実験体だ。地下に隔離…… ゲホッ…… していた…… んだろう」


ジンの言葉に耳を疑いながら、サイラは気味の悪い一人の研究者を思い出した。そして血の気を失った顔で最悪の叫びをあげる―――


「まさか‼ あの助手が――― こっこれが禁錬術の――― 」


化け物は甲羅の節目から強烈な瘴気混じりの腐敗臭を辺りに撒き散らすと、足元に芽吹いた草花の生気は瞬時に刈り取られ、3人は一瞬で抜け出す事の出来ない戦場へと誘われた。


「―――――‼ 」


サイラは蟀谷《こめかみ》に汗を滴らせ、長いマフラーを口元に引き上げる。しかし完全に恐怖に支配され、自分を見失ってしまったレイは、動く事すら願い叶わず、大量の瘴気を浴びてしまうと、猛毒に侵されて行く―――


ゆっくりと死神がレイに鎌を振り下ろす。


―――あがぁぁぁぁぁ―――


膝を立て何も出来ずに化け物を見上げるレイの全ての粘膜から血潮が溢れ出し、そして力無く地に沈んでいった……


余りの光景にサイラは目を背け、現実から逃避するほか無かった。圧倒的な力の差に、溢れ出る感情が拳を震わせ涕に濡れる。


「いつも虚勢ばかり張って、生意気で男勝りで、言う事を聞かなくて意地っ張りで、でも、いつも笑ってて、人の心配ばかりして、感情を剥きだして人の為に泣いてくれた――― 」


―――こんな私の為にも泣いてくれた―――


そんなレイはサイラを姉の様に慕い、その存在はいつしかサイラにとって掛け替えの無い妹の様になっていた。


奥歯が砕ける音が響くと同時に、覚悟を携え絶望を越えて行く。サイラは直剣を振り翳し化け物へと立ち向かう。奪われ続けて来た人生を未来を仲間達を、自らの手で取り戻すかの如く。


涕を弾く直剣が、月夜を美しく返し憂いにその残像を残す―――


「私の妹に――― 近寄るなあぁぁぁぁぁ‼ 」


高く飛び込み、一瞬の隙を突き振り被った直剣が、数多ある人の顔に突き刺さると、化け物は雄叫びを上げ、振り払おうと身体を大きく揺らす。サイラは思わず剣を手放し、地面へと叩きつけられてしまった。


―――クソッ―――


悶え苦しむ化け物を他所に転がり急ぐと、まだ息のあるレイを抱き上げる。血潮に塗れ虚空を仰いだ瞳が、憐れむサイラの頬に手を添えると、血に染まる涕を流し自嘲《じちょう》して見せた。


「ごっ…… ごめん――― サイラねぇ。また下手うった」


「レイ―――‼ 」


化け物が目前に迫り、恐ろしい程の巨大な鋏脚を振り上げた。レイは光を失ったその瞳で見上げるとサイラに告げる。


「はやく逃げて、ゴボッ アタイはもうダメだ。ホラお迎えが見える。あぁ…… つまらない人生だった。まだサイラ姉達と居たかった…… 」


サイラはレイをきつく抱きしめると顔を埋めた。


「馬鹿ね。ずっと一緒だって言ったじゃない。ずっとよ…… 」


死を受け入れた二人に審判は下される。鋏脚は慈悲を与えずに轟音と共に叩きつけられ天空を突き破ると、敷き詰められた石畳は押し寄せる波の様に畝《うね》り舞った。


「レイ――― サイラ――― 嗚呼ああああぁ」

正にジンが悲痛な叫びを上げた直後―――


「ギギギギギギ⁉ 」

異変を感じ取った化け物が僅かに退避ろぐ。


辺り一面に舞った砂塵が隠した月を露わにすると、埃立つ中から屈強な戦士が姿を現した。それは見た事も無い大きな大剣で鋏脚を受け止め片膝を着き乍らもその脅威を正面から防いでいる。


その揺るぎない強靭な鋼の様な肉体と力は最早、人の領域を超えていた―――


「―――なっ⁉ 」


「痛てててて、おう、悪《わり》ぃな。月見の所邪魔するぜ」


サイラは窮地に現れた戦士に目を奪われてしまっていた。溢れ出る涙が止まらずに、感情が爆発し声に成らない叫びを上げる……


「お願いします――― たすけて――― 助げてぐだざいぃ――― 」


「おう、そのつもりだ。丁度カニが食いてぇ所だった」


ヴェインは大剣の刀身に手を添えグググと耐えて見せると、同時に体軸を入れ替え鋏脚を弾く。反らされた巨大な爪はドドンと地鳴りを響かせ新たな砂塵を月夜に生む―――


「マルチャド‼ 二人を離れた場所へ連れてけ」


巨大な牛の口が、レイを抱いたサイラの襟首を引っ張り上げると同時に走り出す、その光景を許さんとする化け物は、恐ろしい程の雄叫びを辺り一面に轟かせた。


―――ギュボアァァァァ―――


「てめぇの相手は俺様だってぇの。いちいち癇癪《かんしゃく》おこすんじゃねぇよ、ビックリすんじゃねぇか」







賽は投げられ、漆黒の闇へと沈みぬ。足掻く者と蠢く悪意は、いずこに天命を示さんや。新たなる邂逅に、救いの手を差し伸ぶるは、その力を隠し潜む影。忍び寄る数多の悪意に、刻み続けた時は訪れ、軈て成就となす。

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