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放課後の音楽室は、今日も静かだった。
カーテン越しに落ちる夕陽の斜光が、鍵盤の上に柔らかく揺れている。
その光の中で、藤澤涼架はゆっくりとピアノの蓋を開けた。
指先がそっとCの音を鳴らす。
それは、まるで誰かに語りかけるような音色だった。
最近は、生徒の前でもあまり演奏をしていなかった。
教えること、指導することばかりに気を取られて。
それ以外の時間は——そう、若井と過ごしていた。
(あいつと身体を重ねることで、埋まってたんだな……この寂しさ)
鍵盤の上で止まった手が、小さく震える。
繋がっていたものがなくなると、こんなにも心に風が吹くのか。
(……でも、戻りたいわけじゃない。もう、ちゃんと前を向かなくちゃ)
そんなことを思いながら、ふとバッグの中を覗く。
「……そういえば」
取り出したのは、銀色に光るフルート。
中学、高校、大学と——ずっとそばにあった相棒。
音楽を始めたきっかけも、この楽器だった。
「……吹けるかな、まだ」
冗談混じりに呟いて、唇を当てる。
静かに、でも真っ直ぐに息を吹き込むと——
音楽室いっぱいに澄んだ音が広がった。
懐かしい。
指が、覚えている。
心が、ついてくる。
(……やっぱり、音楽っていいな)
旋律に身を委ねるように、ゆっくりとフレーズを繋いでいく。
目を閉じれば、何もかもを忘れていけそうだった。
その時、ドアの向こうで声がした。
「……ねぇ、今の音……」
「うわ、音楽室から聴こえた!」
ガラッと扉が開く。
数人の生徒が、驚いたように藤澤の方を見る。
「あっ、先生!?フルート吹いてたんですか!?」
「えっ、ピアノだけじゃなくてフルートも!?すごい……!」
「…すごいです、先生!その音、めっちゃきれい……なんか泣きそうになった……」
急に囲まれて、藤澤は目を丸くした。
「いや、そんな大げさな……ちょっと吹いてただけ」
「ちょっと、のレベルじゃないですって!あの音、なんか心にスーッて入ってきた感じしました!」
「……先生、放課後、毎日教えてくださいよ!フルート部とか作りましょうよ!」
「先生の音、ずっと聴いてたい!!」
目を輝かせた生徒たちが次々と声を上げる。
あっという間に、音楽室の空気が賑やかになった。
「……あはは、急に人気者だな、俺」
笑いながらも、藤澤の胸の奥で何かが温かく満ちていく。
——求められる感覚。
でもそれは、これまでのような一時的な関係じゃない。
純粋に、音を通して繋がる感情。
生徒たちの目の奥にある真っ直ぐさが、
自分の空っぽだった心に、ふわりと灯を灯してくれる。
(……あぁ、やっぱり俺は、“教師”でよかった)
そんなふうに思えるなんて、自分でも驚いていた。
「……よし。じゃあ……やってみるか」
「え!?ほんとに!?」
「うん。スパルタ指導で行くから、覚悟してね?」
「キャーッ、先生こわ〜い!!」
「こわいけど、絶対上手くなりたい〜!」
笑い声が飛び交う音楽室。
その真ん中で、藤澤は少しだけ照れたように笑っていた。
(俺、まだここにいていいんだな)
寂しさを、音が。
空白を、生徒が。
ちゃんと、埋めてくれた。
それだけで、もう十分だった。