センリツに少し街を案内して別れたクラピカは、図書館に向かった。サヴァン市の市立図書館はかなりの蔵書があり、さまざまなジャンルの本が豊富に揃っている。天井まで伸びる本棚には、初めて外の世界に出たときのように胸が躍った。内部には珈琲ショップも併設されているため、1日籠っていることも可能だ。実際、そうしたことが何度かある。 気に入った本は近くの本屋や古書店で購入することもあったが、基本的には最小限にしている。自分はそう長くない。後始末を簡単にするためにも、なるべく物を持たないようにしている。現在部屋にあるのは、ベッドと物書き机、小さな本棚。あとは、一般的な生活に必要なもの。それ以外は、ゴンが昨年の誕生日プレゼントに贈ってくれた香袋と、同じくレオリオがくれたサボテン、パドキアで別れる前に4人で撮った写真のみだ。なおキルアが贈ってくれるものは、基本消え物。持ち物を最小限にしている自分を気遣っているのだろう。
借りた本を返却して、またいくつかの本を借りた。特に本のジャンルにこだわりはない。単純に知識構築が楽しいので、実用書や歴史書、小説、場合によっては児童書も読む。レオリオの部屋にある医学書もなかなか面白い。ただ、レオリオが外科手術の練習としてやっている繊細な糸結びは、自分には到底できそうにないので、医者になるのは無理だと思うが。
自宅に戻ったのは、西の空が茜色になった頃だった。レオリオはまだ病院から戻っていないようで、自分が自宅を出たときとリビングの風景は変わっていない。1人で夕食を摂り、ソファで本を読んでいると、バルコニーの方から小さな足音がした。何事かとカーテンを開けると、近所の飼い猫がバルコニーを悠々と散歩している。ちなみにここは3階。いくら猫と言えども、危険極まりない。
クラピカはバルコニーに出た。猫を抱きかかえて一旦中に避難させようとしたが、するりと逃げた猫は隣の部屋のバルコニーに消えてしまった。こうなっては、もう自分にできることはない。
嘆息して夜の街を眺める。サヴァン市は比較的大きな街で、夜でも明かりが絶えることはない。住宅地の奥には学区があり、校舎が照らされて夜の闇に浮かび上がっている。その近くにある繁華街は、目下最盛期と言わんばかりに煌々と明るい。少し遠くにはレオリオの勤務する病院も見える。
ふと、あの子守歌が浮かんできて、言葉とメロディを声に乗せた。母語などもう何年も話していない。これから先その機会もないと思っていたのに、いざ残そうと思うと自然と出てくるのだから不思議だ。ゴンに教えてほしいと言われた。センリツに託した。きっとこれから、自分がこの歌を歌うことが増えるのだろう。
想像もしていなかったと口元を緩めていると、リビングのドアが開いた。どうやら家主が戻ったらしい。
「おかえり」
「……ただいま」
振り返って家主―――レオリオを迎える。だがレオリオの声には張りがなく、目元にも隈が浮かんでいる。
「大分疲れた顔をしているが、平気か?」
「ああ……まぁ、一旦落ち着いたって感じだな。これ以上感染が広がらなきゃ、万々歳なんだが」
サヴァン市の周辺では、現在ウイルス性の風邪が流行している。かつて流行したウイルスの変異株で免疫を持たない人が多いため、病院は患者で溢れかえっているそうだ。おかげでレオリオも病院に詰めることが多くなり、あまり自宅に帰ってこない。「どんな変異株だろうと、うがい手洗いの徹底には勝てない」とは、この主治医の言であり、実際、徹底している自分が感染していないところを見ると本当に効果は高いのだろう。
クラピカはリビングに入り、バルコニーに通じる窓を閉めた。
「珈琲を入れよう。食事は?簡単なものならあるが」
「まだ……だけど、今お前の料理なんか食ったら、胃にダイレクトアタックされるわ……」
言って、レオリオがソファに身を預けた。同居を始めた当初から食事はレオリオが担当している。理由は、クラピカの料理に「加減」がないからだ。もともと調味料が手に入りにくい環境だったので、クルタ族の料理は基本的に「味付け」の概念が薄い。そのため「適量」とか「お好みで」がわからず、素材を台無しにしたり、逆になんの味もしなかったり。レオリオ曰く「お前の料理は、放送終了したチャンネルかってくらい単調」とのこと。それを自覚しているだけ、反論ができない。
サイフォン式のメーカーに珈琲粉と湯をセットする。バーナーに火を灯して湯が上がるのを待つ間に、冷蔵庫から食事を取り出してレンジにかけた。
「安心しろ。センリツが菓子折りの礼にと買ってくれたものだ」
「は?つーか、あれは俺からの礼だってのに。礼に礼ってどういうことだよ?またなんか用意しなきゃなんねぇじゃねぇか」
「次からは私が用意するから、レオリオは気にしなくて良い」
サイフォンの湯が上がってきたので、マドラーで珈琲粉をかき混ぜる。珈琲の良い香りが立ってきた。
一方で、レオリオの言葉が止まった。理由を求めて彼に視線をやると、心得顔でこちらを見ている。
「お前、自分のために念能力使ってもらってるって自覚あったのか」
「……さっきから、いちいち棘があるな。別件で個人的な頼み事もしたからな。私から礼をするのが筋だろう」
弱火にして再度珈琲粉を攪拌し、火を消した。レオリオが「ふ~ん」と、納得半分、疑問半分のように唸る。
「そういやお前、さっき歌ってなかったか?」
彼がリビングに入ったことに気付いて歌うのを止めたが、どうやらしっかり聞かれていたらしい。本来なら鍵を回す音で家主の帰宅を察するのだが、今日はセンリツと会って気を緩まされたせいか、大分迂闊だ。かといって否定するのも不自然で、クラピカは素直に「ああ」と答えた。
「初めて聞いたわ」
「だろうな。お前の前で歌ったことはないし、今も聞かせるつもりはなかった」
「もっかい歌ってくれよ」
「なぜ?」
「理由が必要か?聞きたいからに決まってんだろ」
「断る」
「あ~、はいはい。そうですか」
レオリオが肩を竦めるのと同時に、レンジが鳴った。レンジから紙パックを取り出して、レオリオの前に出す。中身は近所のレストランがテイクアウトで提供しているスープ。さつまいもと茸、豚肉がたっぷり入っており、スープと言えども十分なボリュームだ。
抽出の終わった珈琲を入れるため、サイフォンに向かおうとしたクラピカの腕をレオリオが掴んだ。
「座れ」
「なぜ?」
「バイタルチェックするって言ったろ」
座るのを促すように、レオリオは自分の傍らのソファを叩いている。医学的なことになると、彼は絶対に折れない。反抗して言い合いになり、以前のように隣室から「痴話喧嘩もいい加減にしてくれ」とクレームを入れられるのは御免だ。クラピカは深く溜息をついて、レオリオの隣に腰かけた。彼の方に体を向けると、腕を取って脈を診られた。その他眼球運動や呼吸、体温などを確認される。
バイタルチェック中のレオリオはよく話す。リラックス状態にするのと、意識レベルの確認のためと言っていた。内容は他愛もないことがほとんどだ。同僚と行ったランチの話だったり、上司への愚痴だったり。それでも患者のセンシティブな情報は一切話さない辺り、本質は真面目なのだろうと思う。
「てか、ミザイから連絡貰ったぞ。お前、遺言書、預けたんだって?」
「ああ。死後に色々として欲しいことがあるからな」
「俺に、開封に立ち会えって」
「ミザイストムにそう頼んだ。お前くらいしか、頼める人間がいない」
可能ならば、自分が亡くなるまでにすべて自分で処理したいと考えたが、現実は難しい。後腐れなく逝くためには、心残りとなるものを自分の希望通りにしたいと思った。ミザイストムに相談したところ「なら、公正証書遺言を作ると良い。俺にサポートさせてくれるなら、俺が預かろう」と言ってくれたので、彼に従って遺言書を作成した。遺言書の開封には、立会人が2人以上必要だ。「1人は預かった俺として、他に信頼できる者はいるか?」と聞かれて、真っ先に思い浮かんだのがこの男なのだから、相当絆されていると思う。
遺言書には、自分の亡骸は火葬して故郷の森に埋葬すること、財産は病の子供をサポートするNPO法人に寄付することを主に記載している。この辺りの地域は土葬が基本だが、仮に緋の眼が定着したまま亡くなれば、悪意のある人間が遺体を掘り起こして利用する可能性もあると考えた。緋の眼は徹底して消滅させる。2度と自分たちを弄することのないように。
NPOへの寄付は、ミザイストムからの提案だった。現状、自分を世話しているレオリオに対し、自分は何も返せていない。彼の「病気の子供を治して、その子の親に金なんか要らねぇって言ってやる」という夢を果たすには金が必要だ。だからせめて礼として金を残せればと思ったのだが、彼が相続人になると立会人になれないらしい。そこで病の子供をサポートしているNPOに寄付をすることで、間接的に彼に金を残す方法を提案された。「仮にレオリオを相続人にしても、彼はおそらく放棄するだろう。だったら、こういう残し方の方が良い」と言われて、確かにと思った。世の中金だという割に、自分が彼の厚意に対して金で返したら「そんなつもりで世話したわけじゃねぇ」と怒りそうだ。
レオリオは、不貞腐れたような目でこちらを見ている。
「……俺は、お前を極力長生きさせてぇんだけど」
「……それが嫌だとは言ってないだろう」
クラピカも同様の表情を返して、レオリオを睨んだ。むしろ長生きさせようと色々気遣ってくれることは、ありがたいと思っている。
「ただ、何事もなければ私の方が先に逝く。だが私には、血縁がいない。だから事後を任せるなら、おそらく私の最期を看取るだろうお前に頼めれば効率的だと思っただけだ」
「……その心構えは、あんまり歓迎しねぇけど」
レオリオが小さく呟く。これでも大分聞き分けが良くなった方だ。寿命を賭けていたことを知られた当初なら、自分の論理武装に対して感情の大砲で反撃されただろう。
「お前、俺が看取ると思ってんだな」
「お前は私の『主治医』だろう?最期くらい、私だって医者に頼るさ」
「普段からしっかり頼れってんだよ」
「頼っているし、言うことも聞いている」
「もうその言い草が、嫌々やってる感じじゃねぇか」
顔を顰めたレオリオが、クラピカの左袖を捲った。上腕に血圧計をセットして、スイッチを入れる。食事はどうだの、睡眠がどうだのと言うから大人しく従っているというのに、一体何が不満なのか。あまり小うるさく言われると、反抗したくなるのが人間心理だろう。
「……心理的リアクタンス、というのを知っているか?」
「知らねぇよ。俺は医者だ。心理学者じゃねぇ」
「キルアがお前を親馬鹿だと言っていたが、私は親馬鹿に育てられた子供の気持ちがよくわかる」
「誰が親馬鹿だ、誰が」
クラピカがふうと吐いた溜息に、レオリオが納得いかないという風に声を上げた。過干渉な親に育てられた子供が鬱屈した感情を抱えて反抗的になる例は多いが、今の自分の状況はもしかするとそれに似ているのかもしれない。
血圧計のモニターを眺めていたレオリオは、軽く頷いてスイッチを切った。
「……ま、安定してるし、大丈夫そうだな」
言ってクラピカの腕から腕帯を外す。チェックのために散らかしていた医療器具を丁寧にバッグに仕舞うと、ノートを広げて記録を書き込み始めた。レオリオはクラピカの「主治医」を自称しているものの、クラピカは診療代を支払っていないし、医療機関が認めたものではない。いわば「レストランが知り合いに無料で食事を提供している」ようなものだ。そのため正式なカルテがなく、レオリオはクラピカの状態を個人的なノートに記録している。一度、金を払おうとしたが「俺の勉強代だと思え。そうじゃなきゃ治験代」と言われた。
そのノートを、自分は見たことがない。何となく、見るのは憚れたから。自分の状態が数値で明確に表れているのなら、レオリオはクラピカの状態を正確に把握しているはずだ。だが、仮に危険な状況にあってもクラピカに自覚がない限り、彼は何も言わない気がした。レオリオは、自分の延命のために最大限のことをしている。しかしそれでも、自分の寿命が念の影響ならば、限界はある。そこに抗う術を持ち合わせていないことを知っている。だからこそ自分は聞かないし、レオリオも話さない。それは最早、2人にとっての暗黙のルールだ。
だが、師に説教されて、友人と旅を楽しんで、同僚に託した今は、知りたいと思った。
クラピカは、捲られていた左の袖を下ろした。
「―――レオリオ。私は……あと何年くらいもつ?」
「……さあな。お前の方がわかってんじゃねぇか」
ノートにペンを走らせていたレオリオの手が、一瞬止まった。それが何を意味するのかはわからない。彼はこちらを一瞥すると、再度ノートに記録を始めた。
「なんだよ?今更死ぬのが怖くなったのか?」
「……そうかもしれない」
声は、自分でも驚くほど弱かった。それにレオリオが再度、記録の手を止める。
「何だろうな……。残されることが怖いことはわかっていたが……いざ、何かを残そうと決めると、残すことも怖くなるものなのかもしれないな……」
死は、恐ろしくなかった。それよりも、旅団に対する怒りが風化する方が怖かった。怖かったのは、狂えないからだ。少し前まで世界だった場所を、人を失って、凄愴に打ちひしがれても、理不尽が心のどこかに痞えている限り狂えない。ただ、全身から皮膚も肉も剥がされていくような沈痛に耐えるしかないのだ。自分は耐えられなかった。だから怒りと憎しみで蓋をして、全身を割くような憂悶を忘れようとした。怒りが失われてしまえば、自分はまたその苦痛に耐えることになる。だから、怖かった。
だが、新しい仲間に出会って、彼らの想いを知った。痛みは変わらないが、耐えられるものに変わった。怒りを完全に消すことはできないが、手放しても良いのだと思えるようになった。そして仲間の想いを知ったことで、今度は彼らを苦しめることが怖くなった。自分がかつて味わった身を貫くような哀絶を、残す者たちに与えることになるのかと。
レオリオが小さく嘆息して、ノートを閉じた。
「……つーか、普通だよ、それが」
伏せていた顔を上げようとしたが、頭に置かれたレオリオの手がそれを制す。目だけを動かして彼を見ると、まるで子供の我儘に付き合う親のような表情があった。
「お前はもっと、大事にされることに慣れろよ。自分を大事にしてくれた人間を残していくってのは、多分、大事にしてたもんに残されるのと同じくらい怖ぇよ」
クラピカの頭を容赦なく撫でまわして、レオリオの手が離れる。立ち上がった彼は、抽出されたままのサイフォンを取って2つのカップにそれを注いだ。1杯のミルクと1つの角砂糖を入れた方を、こちらに手渡す。
「死ってのは、正しく恐れられるもんだと思うぜ。だから、慣れろ。んで、死にたくないって、言えるようになれ」
差し出された珈琲を受け取って、クラピカは乱れた髪を撫でつけた。
「それは医者としての意見か?」
「医者としても、俺個人としても、だ」
レオリオが歯を見せて笑った。珈琲をテーブルに置き食事を始めた彼を見て、思わず眉尻が下がる。念の誓約を受け入れて、近くにある死に着実に歩いていく一方「死にたくない」と思っている自分もいる。今は言う気にならないが、それを口にしてお前たちのせいなのだと言ったら、目の前の男はきっと笑って「それで良い」と静かに自分を送り出すだろう。本当に、厄介な。
クラピカはカップを置いて立ち上がった。キッチンの隅に置いていた紙袋を手に取り、レオリオに渡す。
「土産だ。望み通り、フェリペ・マウラのナッツオイル」
「お、サンキュー。明日早速サラダにでも使うか」
「これは、ゴンとキルアから」
「おお、サンキュ―――って、なんだこれ!?」
ゴンとキルアから預かった土産を見て、レオリオが瞠目した。木材で作られた手のひら大の仮面は、大きく吊り上がった目に左右に割けた口。藁で作られたらしい髪には、鮮やかな色をした鳥の羽が髪飾りと言わんばかりに無造作に刺さり、目の周りには渦巻き状の模様が濃い青で無数に描かれている。一方口元は、まるで売春婦のように真っ赤に塗られており、青との対比でより不気味さを醸し出していた。
「セコ地方に伝わる装飾を施した仮面だ。魔よけの効果があるらしい」
「ホントかよ……むしろ魔を呼びそうな感じじゃねぇか、これ」
「あと、恋愛成就の効果もあるとか」
「こんな禍々しいのに恋愛成就って……どういう恋愛を成就させるつもりだよ……。つか、余計なお世話だわ」
レオリオが仮面を袋ごとソファに投げつけた。魔を持って魔を払う風習は各地にあるが、恋愛成就は自分も初めて聞いた。おそらく、観光客受けするように取ってつけられたのだろう。
食事を再開したレオリオを見て、クラピカは珈琲の入ったカップを持ち上げた。
「良い人はいないのか?」
「あのな、俺は一応まだ研修医だぞ。頭に入れること多すぎて、恋愛にキャパなんか割けねぇよ」
「私が同居していることで女性を連れ込みにくいなら引っ越すが」
「……お前、都合の良いこと言って、俺を撒こうって魂胆じゃねぇだろうな」
頭が良くない割に、自分の不満を察するのだから性質が悪い。顔を背けて小さく舌打ちすると「てめ、今舌打ちしやがったな」と詰められた。
「お前こそ、いねぇのかよ。その御尊顔なら、さぞおモテになるでしょうに」
「いない」
「センリツとか、どうなんだよ?」
「彼女はただの同僚だ。それに、私には過ぎた相手だろう」
センリツには非常に感謝している。だが、それ以外に特別な感情はない。「過ぎた相手」というのも本音だ。温厚で棘がなく、女性らしい細やかな気配りができ、余程のことがなければ声を荒げることもしない。一方で自分の意見を持ち、芯があって人の間違いを正すことができる。一般的な男性から見れば、非の打ち所がない理想の女性だろう。旅団の件で、何か礼をしたいと申し出たときも「私が協力したくてやったことだから気にしないで」と言われた。それに対して、自分の負い目が顔に出てしまったのだろう。少し考えた彼女は「じゃあ、新しくできたショコラカフェに付き合ってくれないかしら?気になっているのだけれどカップルが多くて1人じゃ入りにくいの」と笑った。支払いは自分にさせてほしいと言えば「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えるわね」と、大人しく財布を引っ込めて自分に恥をかかせない。かと思えば「美味しかったから皆にも食べてほしくて」と、自費で組への土産を買う。深い思いやりを持ち、相手の事情や気持ちを考えられる。
彼女の容姿を揶揄する者もいるが「慣れているから」と取り合わない。本当は気にしているのかもしれないが、それを噫にも出さない。今考えると、彼女に呪いがかかっていて良かったのかもしれない。あれで豊頬の美人なら、組の事務所は彼女宛の花で埋め尽くされていたことだろう。
そんな女性の相手が自分など、恐縮に過ぎる。彼女を同様の思いやりで癒し、共に目的を追っていけるような相手が相応しいだろう。
女性の話になって、ふとゴンの行動を思い出した。
「そういえば、ゴンは随分女性の扱いに慣れているようだったな」
「え?何?女でもできたか?まぁ、ゴンも18だもんなぁ」
「……下世話だな」
「別に普通だろ。むしろ18の男なら健全だぜ。いつまでも子供扱いしてやるなよ」
レオリオの言に「そういうものか」と首を傾げる。自分がそういったことに疎いので気付かなかったが、確かに、一般的な18の青年なら恋人くらいいてもおかしくはない。よく考えたら、マフィアの若頭だったころは、他の組の重役が娘を自分に宛がおうとすることがあった。あれも、自分が10代終盤の「そういう時期」だったからだろう。傾国で国が亡ぶ話はある。女で篭絡すれば、組を乗っ取れると考えたのかもしれない。すべて丁重に断ったことで「ノストラードの龍陽君」などという野卑な呼び名を付ける連中もいたが。
ゴンが手慣れている一方で、キルアはまだ12歳のころと変わらず初心な面があった。レオリオにそれを話すと眉を顰められたので、キルアを抱きしめたら盛大に照れて振り払われたことを伝えた。詳細を聞いたレオリオは「お前、純真な青少年の性癖を歪めるのは止めろよ」と言った。
レオリオとの会話は目まぐるしく変化する。話題が途切れそうになると、レオリオから何かしらの質問が飛び、クラピカがそれに答える。その話題をまた掘っていく、の繰り返し。今回も行った場所のこと、泊まったホテルやスーベニアショップのこと、食事のこと、ゴンやキルアの様子など、さまざまなことを話した。正直、生産性はない。ただ自分の話をレオリオが聞くだけ。
質問に答えていると、レオリオが目元を緩めて自分を見ていることに気付いた。
「……何だ?」
「いや……楽しかったみてぇで、何よりだと思ってよ」
クラピカは目を瞬いた。嬉々として話したつもりはない。だが、久しぶりに友人との時間を過ごして、興味のあったものを見られて、大切にされていることを知った。残すことを覚えた。それが表情と声に滲み出たのかもしれない。
「……そうだな。楽しかったよ」
目を伏せてふと笑うと、レオリオが「そういうの、良いと思うぜ」と答えた。
「残りの人生、楽しかったって言えるような経験を積み重ねてけ。そうすりゃ、死ぬのがもっと怖くなるから」
「……そうだろうか」
「そうだよ」
食事が終わったらしいレオリオは、空になった紙パックに向かって「ごっそーさん」と頭を下げた。続けてカップを取って珈琲を飲み干すと、ふうと一息吐く。
クラピカも珈琲を一口喉に通した。すでに慣れた中挽きのブルーマウンテン。当初、珈琲にはレオリオがこだわっていたが、後にひょんなことから純喫茶を手伝うことになったクラピカが拘泥するようになり、落としどころを見つけた結果これに落ち着いた。ちなみに隣室から「痴話喧嘩」とクレームを入れられたのは、全自動の珈琲メーカーかサイフォンかで揉めていたときだ。思い返せば、本当にくだらないことだった。
だがそのくだらないことが「楽しい」と思えている。何の目的も、生産性もない。興味のあることに少し心を向けて、愛おしい人たちと、ただ時間が過ぎるのを待つことを。
「……ひとつ、余計なことを言っても良いか?」
自分の呟きに、レオリオが不思議そうにこちらを見やった。
「お前と過ごすのも、割と楽しいと思っているよ、レオリオ」
「……そういうのは、余計なことじゃなくて、必要なことって言うんだよ。声を大にして、じゃんじゃん言えや」
一瞬目を見開いたレオリオが、にやりと笑みを浮かべた。シンクに向かった彼が「そういやこないだちょっと良いワイン貰ったんだよ。一杯やろうぜ」と言うので、クラピカは「なら1杯だけ」と答えた。
すべてを失ってから、死は怖くなかった。だが、今は死が少し怖いと思えている。理由は失えないものができたからだ。それらと共に過ごす今の生活を楽しいと思えているからだ。いつか自分に訪れる最期のときまで、恐怖は少しずつ大きくなっていくのだろう。楽しいことが積みあがるたび、失えないものが増えるたび。何も持っていない方が怖くないとは、なんて、残酷な。
だが、約束をした。つい最近まで憎悪で閉じた想いの底に沈んでいた、もういない親友との約束。確実に歩み寄ってくる最期の時を待ちながら、果たすことを誓った。彼らと一緒なら果たせるとわかっているから。
パイロ、オレはそう遠くない未来に、そちらに行くよ。そして胸を張って答えるから、聞いてほしい。
―――「楽しかった?」
なんてね。
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