テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
4月の空は、嘘みたいに青かった。 始業式の体育館は蒸し暑くて、
並べられたパイプ椅子が軋む度に、
誰かの緊張が音になって漏れてるみたいだった。
新しいクラス。新しい担任。新しい人間関係。
新しい自分だけが、どこにも居なかった。
「ねぇ、消しゴム貸して。」
右隣から小さな声がした。
振り向くと、知らない女の子がいた。
前髪が少し長くて、目の奥がよく見えない。
でも声は、思ったよりもはっきりしていた。
「あ、うん」
筆箱を開けて差し出すと、彼女は少し驚いた顔をした。
「新品じゃん。いいの?」
「使うためのものだし。」
そういうと、彼女はふっと笑った。
笑い方が、なぜか少し寂しそうに見えた。
「ありがと。返すね」
それが、全ての始まりだった。
彼女の名前は雨宮 澪というらしい。
目立つタイプじゃない。休み時間に騒ぐこともないし、
誰かの中心にいるわけでもない。
けれど、いつの間にかクラスのどこかにいて、
いつの間にかいなくなる。
まるで、水みたいだった。
昼休み、俺はいつも屋上に行く。
立ち入り禁止の札が下がっているけど、扉は完全に閉まらない。
少し力を入れれば開く。
誰にも邪魔されない自分だけの場所、のはずだった。
扉を押し開けた瞬間、先客がいることに気づいた。
柵の向こうを見つめて、彼女が立っていた。
「……あ」
同時に声が出た。
逃げようとしたが、彼女が口を開いた。
「大丈夫、追い出さないよ。」
風で前髪が揺れて、やっと目が見えた。
思っていたよりもずっと、真っ直ぐな目だった。
「ここ、好き?」
「……静かだから。」
「わかる、笑」
彼女は少しだけ笑った。
それから、2人で何も話さずに弁当を食べた。
いつも苦しいはずの沈黙が、なんだか不思議と苦しくなかった。
遠くでサッカー部の声が聞こえる。
体育館からはバスケットボールの弾む音。
空はどこまでも青いのに、ここはやけに狭く見えた。
「ねぇ、」
彼女が口を開いた。
「高校ってさ、もっと自由だと思ってた。」
「俺も。」
「なのに前より息苦しい。」
その言葉が、ちくりと刺さった。
同じだ、と思ってしまった。
それから、昼休みはほとんど一緒に屋上へ行くようになった。
特別なことは何もない。
好きな音楽、昨日見た夢、テスト勉強。
そんな、どこにでもある話。
でも、そんなどうでもいいはずの会話が、なぜか救いになっていた。
「将来何になりたい?」
ある日、彼女が聞いた。
「特にない。」
「いいな」
「いいのか?」
「だってまだ何にでもなれるってことでしょ」
彼女はそう言いながら空を見上げた。
「私はもう決まっちゃってるから。」
「何に?」
少し間があった。
「つまらない大人。」
冗談みたいな声で言ったのに、笑ていなかった。
六月の終わり、梅雨が続いた。
屋上には行けない。
教室で過ごす昼休みは、どこか息苦しかった。
クラスメイトの笑い声が遠くに感じる。
自分だけが、ガラス越しに見ているみたいだ。
その日、彼女は来なかった。
次の日も、その次の日も。
「雨宮、体調不良だって。」
誰かが言っていた。
理由はそれだけ。
けれど、嫌な予感は消えなかった。
一週間後、放課後の昇降口で彼女を見つけた。
制服が少しぶかぶかに見えた。
「久しぶり。」
なんでもない声で彼女が言う。
「大丈夫なのか」
「うん。」
嘘だ、なぜかそう思った。
でも、何がどう嘘なのか、聞けなかった。
外は雨だった。
傘をさして並んで歩く。
水たまりを避けながら、ゆっくりと。
「ねぇ、」
彼女が言った。
「もしさ、急にいなくなったらどうする?」
心臓が変な音を立てた。
「探す」
即答だった。
彼女は少し驚いて、それから笑った。
「そっか、笑」
その笑顔は、今までで一番綺麗で、一番遠かった。
夏休みが来た。
けれど、彼女は学校に戻ってこなかった。
誰も詳しいことは知らない。
転校したという噂も、入院したという噂も、どれも確かじゃない。
屋上の扉は、もう開かない。
扉に手を当てると、あの日の風の感触を思い出す。
「ここ、好き?」
「……静かだから。」
声が残っているような気がした。
秋になって、空が高くなった頃。
机の中に一枚の紙が入っていた。
見覚えのある字。
屋上、好きだったよ。
君といたから。
もしまた会えたら、今度はちゃんと友達になろう。
名前、まだ読んでもらってないし。
澪。
胸がぎゅっと締めつけられた。
そうだ。
俺は一度も、彼女の名前を呼んだことがなかった。
放課後、校舎の裏へ回る。
屋上を見上げると、フェンスの向こうに空がある。
あの日と同じ色。
風が吹いた。
ただそれだけなのに、なぜか涙が出た。
声にならないまま、空に向かって言う。
「雨宮。」
名前は風に乗って消えた。
でも、なぜか届いた気がした。
あの時間は、多分もう二度と戻らない。
どれだけ強く願っても、同じ空も、風も、距離も、
全部、あの日のまま止まっている。
置いていかれたのは、きっと俺の方だった。
言えなかったことは消えない。
何もしなかった瞬間ほど、後で鮮明になる。
あの時伸ばさなかった手の重さだけが、今も残っている。
屋上の風の匂い、帰り道の並んで歩く速度。
名前を呼ばなかった距離。
どれも、特別な出来事じゃない。
ただそこにあっただけの、どうでもいいはずの時間。
なのに思い出すたび、峰の王が静かに痛む。
きっと。何かが終わったからじゃない。
何も始められなかったまま、止まってしまったからだ。
もし、もう一度会えたとしても、
同じように何も言えない気がする。
同じ場所で立ち尽くして、同じ沈黙を選んでしまう。
それでもあの空の下にいた自分は、本物だった。
不器用で、弱くて、どうしようもなく未完成で、
それでも確かに、誰かと同じ時間を生きていた。
忘れられないのは、特別だったからじゃない。
そこに、たった1人でも大切な人がいたからだ。
だから今日も、ふと空を見上げてしまう。
あの日と同じ色をしているか、確かめるみたいに。
そして、もしどこかで同じ空を見ているなら、
今度こそ、ちゃんと名前を呼べる気がする。