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エルクスは背をもたれかけさせながら、壁際に設置された折り畳みの椅子に腰を下ろし、軽く笑みを浮かべつつアマリリスを見やった。
「……で、今日はここで泊まるのか?」
低く柔らかい声は倉庫内に不自然な温度を生む。普段のふざけた口調ではなく、仲間としての関心がにじみ出ているのをアマリリスは敏感に感じ取った。
アマリリスは視線を天井の梁に一度滑らせ、次いで床を踏みしめるようにして静かに口を開いた。
「そうだな。けど泊まるから家から持ってくる物があるな。」
その言葉は平坦で淡々としていたが、内に秘めた意志の強さが微かに震える声の端に宿っていた。エルクスは一瞬目を細め、何か察したのか頷くだけで、問い詰めることはしなかった。彼の観察眼は鋭く、必要な時以外に干渉しない。
倉庫の鉄扉を押し開けると、外の夕暮れの光が容赦なく目に刺さった。長い一日の終わりを告げるように、オレンジ色に染まった空が街全体を覆い、低く垂れ込める雲がその色をさらに深く沈めていた。
アスファルトに映る光は微かに揺れ、湿った路面は雨の名残か、まだ冷たい空気を含んでいる。銃をホルスターに入れ、そして背負うのはは空のリュック。軽く肩に掛けたそのリュックは、これから家で取りに行くものを収めるためだけのものだった。
無駄に重い荷物は背負いたくない、今はただ最小限で動きたいというだけの理屈である。彼は倉庫の入口に立ち、最後に振り返る。鉄骨むき出しの倉庫内部にはまだ数名の不正者狩りの仲間たちが残っており、エルクスが真剣な面持ちで棚の資料を整理していた。ミアは床に座り込んでナイフを研ぎ、キヨミは壁際に立ったまま何か書類のチェックをしている。
彼らの存在は、戦いの疲労を感じさせつつも、何かしらの安定感を与えていた。アマリリスは軽く息を吐き、振り返ることなく前へ踏み出した。冷たい風が頬を打つが、彼は気にも留めない。
街路は静かで、人通りはまばら。日中の喧騒は既に過ぎ去り、残ったのは微かに風で揺れる看板の音と、自分の足音だけであった。歩を進めるごとにリュックが肩に食い込み、金属製の銃の冷たさが手のひらを通して骨まで響く。
倉庫を出た直後、街路の片隅で紙くずが風に舞い上がり、足元でくるくると踊った。彼はそれを避けるように軽くステップを踏む。街全体に漂うのは、わずかに埃と油の匂い。戦いの後の血の匂いは倉庫内に残したままで、外の空気はまだ清冽だったが、それでも微かに戦場の余韻を含んでいる気がした。
アマリリスは拳の握る手に力を入れ、無意識に指先でその冷たさを確かめた。過去の戦いで刻まれた感覚はまだ残っており、彼の神経を微かにざわつかせる。
街灯の明かりがまだ完全には灯っておらず、長い影が路地の片隅に沈んでいる。
彼は歩幅を調整し、路面の凹凸を瞬時に計算する。暗い場所での最小限の視覚情報で、次の行動に必要な情報を脳が自動的に取捨選択する。
この習慣は、長い戦いの中で身についたもので、日常に戻ったとしても自然と体が覚えてしまうものだった。正直、自分でもだいぶおかしい事だという事は理解している。
街路を曲がるたびに視界が変わり、遠くに低く垂れ込めるビル群の輪郭が見える。倉庫から家までの道のりは知悉しているが、彼の目はそれでも一切の油断を許さず、街の微かな異変も見逃さない。
全てが彼の意識下で整理され、今後の行動に影響を与える。リュックの中身は空だが、それが彼に不必要な重さを与えず、歩行の自由度を増していた。銃の重みだけが頼りで、手に持つ感覚は戦闘中の緊張を思い出させる。歩を進めるごとに、街の匂いは微妙に変化した。
倉庫を出た直後は鉄と油の匂いが支配的だったが、街路を進むうちに、古いコンクリートの匂いや湿った土の匂い、遠くで焚かれたゴミの匂いが混ざる。これらの匂いを脳が自動的に認識し、何が安全で何が危険かを瞬時に判断する。彼は何も言わず、ただ歩き続ける。途中、路地の奥から微かに足音が聞こえる。
イカかタコの足音かどうかを判別するために耳を研ぎ澄ませる。音の反響から距離と方向を計算し、脳が即座に警戒モードに切り替わる。しかしそこには誰もいなかった。小さなクラゲが物陰から顔を覗かせ、視線を交わすと素早く逃げ去っただけだった。
彼は軽く肩をすくめ、気にせず先に進む。家までの道は複雑で、いくつかの分かれ道を通る必要がある。視界の端に捉えた影、窓越しに見える微かな光、全てが彼の判断材料となる。歩くたびに足元のアスファルトに小石が当たり、カツカツと乾いた音を立てる。
風が一瞬吹き、落ち葉を舞い上げる。それが微かに肩に当たる感触すら、彼は察知する。家に近づくにつれ、街の匂いはさらに生活感を帯びてくる。洗濯物の匂い、路地で揚げ物をしている匂い、遠くで焼かれるパンの香り。これらの匂いは、戦闘で研ぎ澄まされた感覚に対して、逆に心を落ち着かせる役割を持つ。
彼は虚無を持った手を軽く揺らし、歩幅を微調整しながら、家の位置を頭の中で確認する。家は通りの突き当たりにある二階建てで、外観は平凡だが、彼にとっては必要な物を取りに行く場所であり、かつ戦闘用の装備を補充する拠点でもある。
家の扉に近づくと、窓から漏れる夕陽の光がフローリングの上に斜めの線を描く。そこを避けるようにして玄関前まで歩く。鍵は既にポケットに用意してあり、リュックを肩から下ろし軽く調整する。
扉を開けると、静寂が中に広がる。家具や調度品は最低限で、彼の動線を邪魔するものはほとんどない。銃を握った手をそのままに、空のリュックを背に掛けて、必要な物を棚から選び始める。
ナイフや追加の銃弾、通信機器、簡単な食料、医療品、地図や戦況資料、全てを手際よくリュックに詰めていく。動作は素早く正確で、無駄がない。手順は既に体に染みついており、頭で考える必要すらない。
家の中の静寂は、外の街のざわめきと対照的で、彼の集中力を高める。動作一つひとつが戦場でのそれと同じ意味を持ち、何をどこに置き、何を持ち出すかの判断は一切の迷いなく進む。必要な物をリュックに収めた。リュックを肩に掛け直し、銃を握った手を確認すると、静かに家の扉を開けて外へ出る。
夕暮れの光はまだ低く、街全体を橙色に染める。歩き出す前に深く息を吸い、肩の力を抜き、軽く前傾姿勢を取る。街路に戻ると、冷たい風が彼の頬を撫で、リュックの重みを肩に感じさせる。銃はホルスターに入れたまま、視線は街路全体を俯瞰しつつ、道の先を確認する。安全な距離を保ちながら、必要な物を背負ったまま倉庫へ戻るための最短ルートを脳内で再計算する。夕暮れの空は徐々に暗さを増し、街灯が一つずつ灯り始める。彼の影が長く伸び、壁に沿って揺れる。
歩行のリズムは自然でありながら、緊張の糸は途切れない。時折、風で揺れる看板や、遠くの窓から漏れる光が目に入り、脳が瞬時にそれを安全な情報として処理する。通りを曲がり、路地を抜けるたびに街の空気は変化するが、アマリリスはそれに適応する。
周囲の音、微かな匂い、光の反射、すべてが彼の感覚下に取り込まれ、潜在的な危険や人の動きを予測する材料となる。歩を進めるごとにリュックの中身が体に馴染む。
街の風景は日常に見えるが、彼にとっては次の戦場の情報であり、備えを整える場所でもある。やがて倉庫が視界に入る。建物の輪郭が夕陽に照らされて浮かび上がり、鉄骨の影が長く伸びている。
アマリリスは足を止めず、銃を構えた手を微かに調整しながら、倉庫の正面へと歩を進める。冷たい空気が肺に入り、心臓の鼓動を静かに感じながら、彼は次の行動の準備を整える。
倉庫の扉を押し開ける直前、異様な金属の響きが遠くから耳に届いた。それは小さな振動ではなく、地面に鎖を引きずるような重い音。彼は瞬時に視線を暗がりの奥へと向ける。そこにいたのは鎖のチーター。
影の中で体を揺らし、長く垂れた金属の鎖を自在に振るわせている。鎖が触れた壁や地面は、微かに金属音を反射させ、この街全体に響くような不気味なリズムを作り出す。アマリリスの手は無意識にホルスターへ触れるが、まだ抜かない。まずは相手の動きを観察する。鎖のチーターは口を開き、低く、鋭い声で笑った。
「久しぶりだな……待たせたか?」
その声は冷たく、響き渡る倉庫の空気を振動させる。
「いや。」
アマリリスは足を一歩前に出し、体重を微かにかけて重心を調整する。鎖は鋭利な先端が光を反射し、ゆっくりと空中で旋回する。アマリリスはその軌道を瞬時に計算する。壁際に逃げ場は限られている。狭い通路での戦闘は、自分の自由度を極端に制限するが、彼はそれを理解した上で戦う準備を整える。
鎖のチーターが一歩前に踏み出すと、鎖が揺れ、床にカチリと微かな音を立てる。その瞬間、アマリリスは腰を落とし、背筋の感覚で鎖の全体の位置を把握する。息を止め、手を微かに動かして、最適な抜け道を確認する。ホルスターの銃はまだそのまま、握れば即座に応用可能な位置にある。
鎖のチーターが次の動きを予告するわずかな肩の傾き、手首の角度、鎖の反動……全てを一瞬で読み取り、次の行動に結びつける。振り下ろされる鎖が床に叩きつけられ、鋭い音を立てる。アマリリスはその軌道をかすめるように一歩横へ回避する。足元の地面を蹴り、体を反転させる。
鎖が床に叩きつけられた瞬間の反動を利用して、彼は距離を取りつつ、右手でホルスターの銃を掴む。金属の冷たさが手に伝わり、瞬間的に指先で重量と装填を確認する。次の瞬間、鎖のチーターは攻撃の形を変える。鎖を回転させながら壁に叩きつけ、跳ね返りを利用して複数の方向から攻撃を仕掛けてくる。
アマリリスはその軌道を読み、床を滑るように前後左右に動き、最小限の回避を行いながら銃を構えた。狭い空間では一瞬の判断ミスが致命的になる。彼は呼吸を整え、心拍を制御し、集中力を全て目の前の鎖に注ぐ。鎖のチーターが不意に跳躍し、鎖の先端を空中で旋回させる。
アマリリスはわずかに体を低くし、跳躍の軌道を正確に見極め、銃口をわずかに動かす。跳躍と鎖の回転に合わせて引き金を引くと、銃弾が鎖に直撃し、金属が弾ける音が響く。鎖は軌道を変え、金属片が飛散する。だが鎖のチーターは微動だにせず、再び回転を続ける。アマリリスは素早く反転し、床を蹴って後退、さらに銃弾を追加で発射。弾丸が鎖の動きを抑制し、わずかに防御の隙を作る。
その瞬間、アマリリスは前に踏み込み、ナイフを手に取り、鎖の先端に斬りかかる。鎖は空中で炸裂するように散り、鎖のチーターの腕に一瞬の動揺が走る。再び跳躍し、ホルスターの銃を握り直す。金属の冷たさが手に伝わると、彼の意識は再び研ぎ澄まされる。
次の一撃は避けられないかもしれない。鎖が壁に叩きつけられ、床に反響する音が連続する。アマリリスは体を低くして前後に揺れ、次の振り下ろしをかわす。銃口をわずかに前に向け、次の瞬間、跳躍して斬撃を仕掛ける鎖の先端に銃弾を集中させる。弾丸が鎖に命中すると、金属が歪み、鎖のチーターは驚くような低い唸り声を上げた。
「やっぱやるね……。」
「同じ事を何度も言うな。」
その声に応じるように、アマリリスは体を低く保ちつつ、全身の重心を微調整し、攻撃のリズムに合わせて動き続ける。狭い倉庫の空間は戦場として最適ではないが、彼はそれを逆手に取り、鎖のチーターの攻撃の反動や跳ね返りを計算して、最短距離での回避と反撃を繰り返す。銃の引き金を引く手が微かに震えるが、呼吸を止め、心拍を抑える。
次の瞬間、鎖のチーターがさらに速度を上げ、鎖の先端を回転させながら、倉庫の柱に叩きつける。金属音が反響し、空間全体が振動する。アマリリスは一瞬の静止、跳躍の頂点を見極め、反動を利用して距離を詰め、ナイフで鎖の中間部を斬る。鎖は空中で裂け、鎖のチーターの片腕がわずかに暴れる。
金属の反響音と低い唸り声が鳴り響く中、アマリリスは再び銃を構え直す。全神経を集中し、次の攻撃の予測と回避の軌道を計算。彼の目は冷たく光り、鎖の動きを一瞬たりとも見逃さない。鎖のチーターが口を開き、低く呟く。
「……面白いな……だけど、これで終わりだ。」
その言葉に応じるように、アマリリスは体を前に踏み込み、銃口をわずかに上に向け、鎖の振り下ろしの合間を縫って発砲する。銃弾が鎖の先端をかすめ、金属が散る。鎖のチーターは片腕を振り上げ、ナイフで迎撃しようとするアマリリスに対し、再び跳躍。だがアマリリスは体を翻し、微妙に角度を変えながら反撃のタイミングを計る。
再び銃を構え、鎖の反動を利用して横に回避しつつ、短い距離で集中射撃。鎖のチーターの片腕に深い傷が走り、金属の鎖は微かに歪む。鎖のチーターは低く唸り、金属の鎖を引き寄せ、再び振るう。アマリリスは床に足を滑らせ、体を低くしつつ銃を握った手を微妙に前後に動かし、鎖の軌道を避けながら反撃を続ける。金属音と銃声で満ちる中、アマリリスの全神経は鎖に集中し、呼吸は止まったまま、次の一撃に全てを賭ける準備を整える。
鎖が金属の悲鳴を上げて再び振られる瞬間、アマリリスは深く膝を折り、体重を一点に集中させて反動を受け流した。地面が震え、散った鎖片が光を跳ね返す。だが鎖のチーターは、単なる振り回しだけでは終わらせない。彼は短く笑い、鎖を鋭く巻き上げると、天井の梁に向かって一閃。鎖が梁に絡みつき、その勢いを利用して宙に舞った。その動きは狡猾だった。
梁に引っかかった鎖が回転を作り、チーターはそのまま軸にして速やかに上方へと移動する。外の暗がりを背に、彼の姿は一瞬だけ鋭く浮かび上がり、そして視界の隙間へと消えた。アマリリスは反射的に銃を構え、引き金に指をかける。しかし鎖の動きを利用した飛翔は一瞬のことで、銃声を放っても的確に捉えきれない。
弾丸は梁を叩き、埃と小さな破片を舞い上げるだけだった。消えた先には通路の出口があり、そこで鎖のチーターは一瞬足を止めた。雨のように小さな金属片を振り落としながら、彼は低く囁くように言った。
「また会おう、狩人。」
その声は冷たく、しかしどこか遊び心を含んでいた。アマリリスは前に出ようとしたが、倉庫の構造と残った鎖の残骸が追撃を困難にしていた。何より、鎖で引き裂かれた床や倒れた棚のせいで最短距離が塞がれている。アマリリスは一瞬だけ冷たい怒りを内に燃やし、だがすぐに理性でそれを抑えた。
追えば罠に嵌る可能性がある。相手は逃げる術をきちんと持っていたのだ。彼は静かに銃をホルスターに収め、床に落ちた鎖の一片を蹴りながら唇を引き結んだ。鎖のチーターの足跡は浅く、鉄の香りだけが残り、彼がどの通路を選んだかを示す手がかりはほとんど残らなかった。
ただ、天井に残された鎖の擦れと、梁に刻まれた小さな火花の痕、それと低く響いたあの声音。それがわずかな確証だ。アマリリスは拳を固め、短く息を吐いた。
「逃げられたか。」
声は低く、しかし諦めではない。倉庫の影が長く伸びる中、彼は振り返らずに出口へ向かう。外では街の空が薄く明るみ、遠くに人の喧騒が戻りつつあった。だが彼の胸には冷たい空虚が残る。相手は逃げた。だが傷は浅くない。鎖のチーターがどこへ向かったか、それを確かめるための時間は限られている。アマリリスは暗闇に残された痕跡を目に焼き付け、次に動くべき相手の輪郭を頭の中で組み立て始めた。鎖の金属の余韻がまだ耳に残る。彼はその余韻を追うように、静かに倉庫の扉を開けた。