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#お仕事
#秘密
翼の差し伸べた手は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように見えた。美月は涙を拭い、小さく頷いた。
「……わかった。お願いします」
二人は放課後、使われていない旧校舎の準備室へ移動した。翼が歴史研究部の部室として半ば私物化している部屋で、中には古いソファや東洋の古い書物が雑然と置かれている。
美月は言われるがままに、使い古された革のソファに身体を横たえた。
翼は部屋のカーテンを閉め、薄暗くなった空間に一本のお香を灯した。かすかに甘く、どこか落ち着く香りが広がる。翼は懐から奇妙な紋様が描かれた数枚の古びた和紙を取り出し、美月の枕元に並べた。
「今朝見た夢の感覚を思い出して。僕の声がトリガーとして機能するように、意識の底に僕の声を沈める作業をするから」
翼は美月の枕元に椅子を引き、静かな声で語りかけ始めた。
「目を閉じて、深く息を吸って、吐いて……。もし、またあの滑り台の上に立ったら、思い出して。下を見ないで。空を見て。そして、僕の名前を呼んで欲しい。僕はいつでも、黒川さんのすぐ隣で声をかけ続けているから」
一日の極限状態の疲労も手伝ってか、美月の瞼は急速に重くなっていく。心地よい暗闇の中へ、美月の意識はゆっくりと沈んでいった。
◇
どれほどの時間が経っただろうか。
唐突に、冷たい風が美月の頬を叩いた。
「——あ」
気づいた時には、美月は再びあの場所にいた。青い塗装の剥げた、高い滑り台の最上部。
恐ろしい速度で「その時」がやってくる。美月の身体が、不可抗力によって前方に傾き、宙へと投げ出された。
視界が反転する。地面が迫る。
心臓が破裂しそうなほどの恐怖が美月を襲い、世界がねっとりとしたスローモーションへと移行し始める。
(嫌だ、やっぱりダメだ! 怖い、怖い——!)
永遠に続く落下の恐怖。美月の精神が絶望に染まりかけた、その時。
『——下を見ないで。空を見て、黒川さん!』
どこか遠く、けれど確かに、美月の脳内に届く声があった。翼の声だ。
『これは夢だ。黒川さんは落ちてなんかいない。僕の名前を呼んで!』
(真田くんの声……! でも、どうやって!?)
金縛りにあったように、身体がびくとも動かない。視線は、急速に迫り来る灰色の地面に吸い付けられたままだ。あと数センチで、激突の衝撃がやってくる。
(動いて……動いてよ……っ!)
恐怖に縮み上がる心に鞭を打ち、美月は必死に地面から視線を逸らそうとした。首の骨が軋むような感覚の中、絶望のどん底から力を振り絞って——空を見た。
そこには、どんよりとした灰色の雲ではなく、吸い込まれそうなほど綺麗な、深い青空が広がっていた。
「真田くん——!」
美月は叫んだ。
その翼間、ガラスが割れるような鮮烈な音が世界に響き渡った。
静止していた地面が霧のように消散し、美月の身体を引っ張っていた不気味な重力が、一翼にして消え去る。
「うわっ!?」
美月は激しい浮遊感と共に、目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、旧校舎の準備室の天井だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
美月はソファから跳ね起き、自分の身体を確かめるように両手を見つめた。胸を支配していたあの「底なしの恐怖」が、綺麗に消え去っていた。
「……気がついた?」
隣から、少し疲れたような声がした。
見ると、翼が椅子に座ったまま、額の汗を拭っているところだった。彼の前では、いくつかのお札のような紙が、焦げたように黒ずんで散らばっている。
「真田くん……私、夢の中で、あなたの声を聞いたわ」
「みたいだね。僕の『夢違い』の術も、少しは役に立ったようだ。黒川さんが夢の中で僕の名前を呼んだ翼間、こっちのお札が身代わりになって燃え尽きたんだ。これでもう、悪い予感のループからは抜け出せたはずだ」
翼は床の灰を指差して、少しだけ誇らしげに笑った。
しかし、美月は自分の胸の奥に、まだ冷たい澱のようなものが残っているのを感じていた。
悪夢の恐怖からは解放された。けれど、これはただ自分の心を救っただけに過ぎないのではないか。数年後にまた、誰かが傷つく「予感」が訪れたら、私はまた、こうして目を背けて誰かの身代わりを用意するだけなのだろうか。
(違う。私は……)
美月は床に散らばった灰を見つめ、それから自分の両手をぎゅっと握りしめた。
今まで、あの夢はただの「呪い」であり、自分は無力な「観測者」だと諦めていた。しかし、夢の結末を変えられたのなら、現実の結末だって変えられるかもしれない。
予感は、ただ怯えて待つためのものではない。これから起きる不幸を、未然に防ぐために与えられた「警報」なのだ。
「真田くん」
美月はゆっくりと立ち上がり、まっすぐな目で翼を見つめた。
「ありがとう。私、やっとわかった気がする。……私はもう、ただ見てるだけの観測者にはならない。もしまたあの夢を見たら、今度はその予感を使って、傷つくかもしれない誰かを全力で助けに行くわ」
翼は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの無気力な、けれどどこか優しい薄笑いに戻った。
「……そ。相変わらず生真面目な委員長だね、黒川さんは」
「生真面目で結構よ。……ねえ、でもその時はまた、手伝ってくれる?」
美月の問いかけに、翼は少し照れくさそうに頭を掻きながら、窓のカーテンを開けた。夕暮れの赤い光が、部屋の中に優しく差し込んでくる。
「まあ、気が向いたらね。お札の材料費、結構高いんだからさ」
「ふふ、善処するわ」
美月は今日初めて、心からの笑顔を浮かべた。
予感は、もう孤独な呪いではない。
隣に並ぶ少年の横顔を見つめながら、美月はこれまでにない、新しく穏やかな未来の予感を胸の中に感じていた。
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