己が望んでいるのは弟の幸せ。
ただそれだけだと断言出来るほど10歳離れた弟に対し姉と言うよりは母に近い感情で接してきていた事を思い出した彼女は、つい先日まで二週間という期間限定ではあっても毎日見ていた弟の横顔を脳裏に描き、己の足に填っているトゥリングを撫でていた時の表情が浮かんできた時、彼があんな顔で笑う事こそ自らが望んでいる幸せの証ではないのかと自問する。
恋人や友人がが贈ってくれたものを自慢するような顔など今まで一度も見たことがなかったアリーセ・エリザベスだったが、ウーヴェの過去の大半を見てきた彼女からすればあの朝見せられた横顔は込み上げる何かを誘い、穏やかでいて贈り主を誇りに思っている、そんな表情を浮かべる弟の顔を今思い出しただけでも声を詰まらせてしまいそうだった。
自ら望む弟の幸せと、弟が望む幸せは当然ながら同じではない。
その、至極簡単でありながらも忘れがちな事へと思考が辿り着いた時、彼女の中で根雪のように残っていた何かが音もなく溶け始めていく。
リオンにも言われたが、弟とていつまでも子どもではないのだ。それどころか、社会的にも立派に自立した一人の若手医師との好評も、先日の食事会の際に友人達が何故か自慢するように教えてくれていたように、世間的にも認められているのだ。
幼い頃のように自分が手を取りながら共に歩む必要が無くなった事は寂寥感を彼女に与えているが、それ以上に共に道を歩く存在が弟にも出来た事の安堵が日を追うごとに彼女の中に芽生えていた。
その安堵がゆっくりと彼女の中に染み渡り、彼女の中にあるウーヴェの時計の針を押し進めたのか、小さな音を立てて針が時を刻み始める。
ウーヴェにはウーヴェの時間があり、その時の中で泣いたり笑ったりをしている。
アリーセ・エリザベスが守りたいと思っているのはその中心にいるウーヴェというよりは、彼を取り巻くその環境だった。
喜怒哀楽の感情のすべてを喪ったウーヴェが漸く取り戻した今の環境。それを喪わせる様な事だけはしたくなかった事にようやく気付き、これからは自分ではなく、弟の傍でいつも笑顔で周りを明るく照らす太陽のような年下の恋人がその環境を二人で作り上げていくのだろうと苦笑し、窓に手を付いて白銀の世界に目を細める。
「・・・・・・エリーは結局リオンを認めるのか」
そんな彼女の背中に己を上回るような冷ややかな声が投げ掛けられ、いつかのように顔だけを振り向けた彼女は、視線の先で長い足を組んでソファに深く腰掛ける兄に目を細めて吐息混じりにそうねと返す。
「私も最初は同性の恋人なんてと思っていたわ」
その思いは今も変わらずに心の中にあるが、あの子のあんな顔を見てしまえば反対出来ないと寂しげに首を振る。
「私たちではあの子をあんな風に笑わせたりは出来ないわ」
人としての幸せをようやく取り戻し、今その最中にいるウーヴェからリオンを奪えばどうなるか。結果的にあの子の感情を再び殺すようなことになるのではないのか。
その恐怖は彼女のどんな感情よりも優先的に行動を決定づけてしまっていた為、そんなことならば同性でも良いのではないかと思うようになったと、兄の横に腰掛けて弟と似通った横顔を見つめる。
「好きな女性と結婚し、子どもを育てる、そんな普遍的な幸せを望むのはだめなのか?」
頬杖を突きながらぽつりと呟く兄の膝の上には、今回の騒動の発端ともなった報告書が収められた封筒があり、その中からリオンと一緒に笑顔で写っているウーヴェの顔を愛おしそうに撫でる手を見つめ、女性では受け止めきれないのかも知れないと苦笑すると、兄の端正な顔が振り向けられる。
「あの子の気性を受け止めるのは・・・無理かも知れないわ」
裡に秘めた気性の激しさは間違いなくあなた譲りでしょうが、それを受け止められる女性など滅多にいるものじゃないと眉を寄せるアリーセ・エリザベスの言葉にギュンター・ノルベルトが口を閉ざし、リオンの写真を取りだして人差し指でその顔をトンと叩く。
「この男なら受け止められると?」
「ええ。・・・現にフェルの発作を受け止めていたわ」
あの夜、発作と呼んでいるが、実際は精神のたがが外れたとしか言いようのない顔で嗤いながら己を傷つけようとするウーヴェを前に、アリーセ・エリザベスはただ震えて悲鳴を上げることしか出来なかったのだ。
今まで見続けてきた姿を久しぶりに見てしまったという理由でも説明出来ない程、あの夜彼女は何も出来なかったのだ。
だが、そんな彼女の前でリオンは動じる様子もなくウーヴェを守るように抱き締めるだけではなく、もう過去に囚われる必要はないのだと教えるように過去と現在の相違点を挙げ、新たな傷を作ろうとするウーヴェの手を止めたのだ。
無力で小さな己と普段は子どもじみた言動をするが、いざというときには頼りになるリオンとの違いをありありと感じた彼女は、もしかするとその夜にリオンの事を認めたのかも知れないと己の心にひっそりと問いかけ、その通りだと教えられて小さく吐息を零す。
「あなたは反対するかも知れないけれど、私は・・・・・・フェルが幸せになるのなら、リオンとの事は認めるわ」
初めて聞いた時は我が耳を疑ってしまい、確認するようにウーヴェの家に押しかけてしまったが、その時見聞きした弟の生活ぶりや穏やかな顔、そしてリオンと一緒にいる事でごく自然に笑っていられるのならば、例え彼女自身が思い描いていた未来予想図とはかけ離れたものであっても、幸せならばそれで良いと伏し目がちに呟く。
「・・・・・・リオンと言ったな」
「ええ」
「一度会ってみたいな」
「父さんも同じ事を言っていたわ」
数日前にこの家で両親にリオンに会った感想を告げたが、最後に父、レオポルドがぽつりと呟いた言葉を兄も呟き、アリーセ・エリザベスが苦笑して肩を竦める。
「同じ男として面白そうな男だと思ったんだがな」
「そうなの?少し話しをしただけでミカも会いたいと言っていたわ」
みんなリオンに興味を持つのねと、男にしか分からない何かを感じ取ったらしい家族に彼女が不愉快だというように口を尖らせる。
「・・・・・・確か刑事をしているんだったな」
「ええ。調べた結果でも分かるように仕事に関しては優秀だわ」
刑事の仲間内でも信頼も厚いと、意外だと言いたげに頷くアリーセ・エリザベスの前、ギュンター・ノルベルトがリオンの写真にもう一度人差し指を突き立てる。
「どうしようもない刑事ならばいくらでも手の打ちようがあるのにな」
「まさか、リオンの不名誉になるような事を考えてるんじゃないでしょうね!?」
「お前がそこまで庇うほどの男なのだとすれば、な」
「ノルベルト!」
お願いだからリオンに対して底意地の悪いことをしないでと、その結果が弟の笑顔を奪うことになりかねないことを危惧するアリーセ・エリザベスがギュンター・ノルベルトの手を掴んで懇願すると、さすがに兄としても妹の気持ちが理解出来るだけに唇を歪めてそうしたいのは山々だと答えるだけに止め、逆に妹の白くて綺麗な手を撫でる。
「安心しろ、エリー。そんなことはしない」
「お願いよ。・・・・・・もうこれ以上あなたがあの子から憎まれるのは見たくないわ」
20年以上も弟が兄を憎む顔を見続けてきたが、もうそんな顔は見たくないと首を振って長い髪を乱した妹に兄がお前が気にすることではないと優しく告げてその髪を撫でてやる。
「父さんと決めたことだ。それに総ては私が悪いのだからね」
お前は何も気にするなともう一度告げて妹を納得させた兄は、ウーヴェが一切の感情を無くした人形の様な姿で車椅子でこの家に戻ってきた夜、父と二人で決めた事を思い出し、その夜の決意も思い出した彼は、あの子が生きてくれるのならばどれ程憎まれたとしても構わないと苦笑する。
心を殺し生きることすら放棄したようなウーヴェの心を再び取り戻す為にはどんな苦労も厭わないと主治医に告げ、父と二人で憎まれることでウーヴェを生かそうと腹を括った夜も同じように雪が降っていた事を思い出した二人は、形は違っていても皆が願うのはただただウーヴェの幸せであることを再確認する。
「私があの子の周りに姿を見せるのは危険だろうから・・・父さんに会って貰おうか」
「そうね・・・でもどうするの?」
「そうだな・・・どうするのが良いかな」
今ではすっかりと有名企業の会長として忙しく働いている父、レオポルドだが、さすがに刑事を会社に呼びつけでもしてしまえば要らぬ疑惑を抱かれるだろうし、ライバル企業に足を掬われかねない危惧もあった。
個人的に呼び出してしまえば相手が何かを勘ぐってしまうかもしれず、そうなればリオンの為人が見えてこないだろうと肩を竦め、足を組み替えて手を組んだギュンター・ノルベルトはどうするのが一番自然にリオンと父が接触できるだろうかと高い天井を見つめる。
その時、兄妹の話題の主である父と母が入ってきた為、家人に人数分のお茶の用意を頼んだ彼女は、一体何の悪巧みをしているんだと父に問われて兄は無言で肩を竦め、妹は悪巧みなんて失礼だわと口を尖らせる。
「父さんがリオンに会いたいって言っていたでしょう?」
だからどういう形で顔を合わせるのが自然だろうと話していたと父に不満を訴えたアリーセ・エリザベスは、母が目を丸くした後苦笑した事に首を傾げる。
「あなたも同じ事を考えていたのね、アリーセ」
「え?」
「レオも今その事で悩んでいたのよ」
さすがに仲の良い親子だけはあって考えることは同じなのねと、母、イングリッドが心底楽しそうに軽やかな笑みを零し、テーブルを挟んだ向かいのソファに腰掛けると、夫の太い腕にそっと手を載せる。
「個人的に呼び出して会ってみても良いとは思うがな」
レオポルドが丁寧に手入れをしている口ひげを指で撫でつつ呟くが、その横でイングリッドがゆっくりと首を振って夫の言葉を否定する。
「リオンがあなたに呼び出されたと知ればまた発作を起こすかも知れないわ。それに、今回の調査はあなたの指図と言うことになっているのよ。私は反対よ、レオ」
ウーヴェの神経を逆撫でするような事は極力したくないとイングリッドが苦笑しながら夫の腕を撫で、何か良い方法は無いかしらと頬に手を当てた時、ギュンター・ノルベルトが何かを思い出したような顔で家族を見渡す。
「この間買収した企業との会合と記念式典があったな、父さん」
「おお、そう言えばあったな」
自分は欠席するつもりだった為に頭の中からきれいさっぱり消え去っていたその式典とその後のパーティの予定だったが、思い出したレオポルドが顎を撫でつつ頷けば、その式典で護衛を頼めばいいとギュンター・ノルベルトが手を打つ。
「護衛?」
「刑事だからな。依頼があればボディガードもするだろう」
何しろ父さんは国の内外でも名の通った企業の会長なのだと、己の身分を思い出せと苦笑した息子に父も顎に手を当てて思案し、そう言うことならば使えるものがあると、仕立ての良いジャケットの胸ポケットから封筒を取り出す。
「これは?」
「リッドもアリーセも触るな。刃物が入っているし、指紋が付けば警察に出向いて余計な詮索を受ける事になるぞ」
「!!」
父の逞しい大きな手の中でひらりと揺れる封筒に手を伸ばした娘は、告げられた言葉に一瞬にして真っ青になり、ギュンター・ノルベルトの肩に縋るように身を寄せる。
「中身の検査は?」
「終わっている。開けた途端に爆発することはない」
これを使えば警察も動かざるを得ないだろうと太い笑みを浮かべ、封筒を息子の前に投げ出した父は、業務妨害で訴えるかと天井を見上げ、脅迫罪も追加できるだろうとの言葉に頷いて隣で不安そうに見つめてくる妻の肩を抱く。
「心配しなくて良い。どうせ何も出来ないんだからな」
「父さんはそれでも良いけれど、他の重役の人達はどうなんだ?」
同じようなものが届けられていないのかと苦笑し、慎重にペーパーナイフで封を切ったギュンター・ノルベルトは、変哲もない便せんに印字された脅迫文を読み、封筒に入っていた刃物をペーパーナイフの先で突くと、便箋を封筒に戻して刃物も元通りに戻す。
「今のところ送りつけられたという情報は入っていないな」
会社が抱えるシークレットサービスに処理させようと考えていたが、そんなことならば今回は警察に任せてみようと、腕を組んで足を組んだレオポルドに他の家族は心配そうに顔を見合わせるが、言い出せば聞かない父の性分を理解している為に具体的にどうすると顔を寄せて囁き合う。
家人が紅茶と焼きたてのビスケットを運んでくるが、家族4人が顔を寄せ合ってひそひそと話している姿は何処からどう見ても悪巧みをしている様にしか見えず、胸中で苦笑した後テーブルにお茶の用意をセットするのだった。
アリーセ・エリザベスが迎えに来た夫と共に家族揃っての食事を終え、二人が暮らす家に帰ったのを見送ったギュンター・ノルベルトだったが、彼自身も実家の屋敷ではなく街にあるアパートに向けて雪道を愛車を走らせていた。
両親は最早諦めているが、大企業の中核会社の社長であり現会長の息子でもあるギュンター・ノルベルトが運転する車は、それはそれは見事な古さを誇るビートルだった。
特徴的な空冷音をBGMに愛車を走らせるギュンター・ノルベルトの脳裏には自分が決して見ることの叶わない笑顔を浮かべ、写真の中の恋人と同じ場所で同じ時間を過ごすウーヴェの顔が浮かんでは消えていた。
自ら選択した道とは言え、やはり20年以上も憎まれ続けるのはさすがに疲れを覚えるが、ウーヴェが経験した苦痛を思えばそれぐらいどうという事はないと己を戒める声も聞こえてくる。
幼かった己が取った-当時はそうは思わなかったが-、今からすれば短絡的で幼稚な行動の結果が時を経て彼に向かってしまった事だけは、どれ程後悔してもしきれるものではなく、決して許される事はないとも思っていた。
だが、こんな風に己の手の届かない場所で穏やかに笑っていると知らされれば、この目で直接見てみたいと思うのも当然と言えば当然だった。
アリーセ・エリザベスが自分たちには出来ないと寂しそうに笑いながら告げた言葉を思い出した彼は、会社への通勤も便利で住環境も良いアパートの前で盗難にも遭わないような古い車から降り立つと、封筒を片手にアパートの最上階の自宅へと重い足取りで向かう。
途中ですれ違った同じ階の女性に笑顔で日常的な会話をし、ドアを開けて静けさに沈む部屋に入り、慣れた手付きで壁のスイッチを探って明かりを付ける。
その部屋はウーヴェの部屋や実家の屋敷を思えば悲しくなるほど小さな3LDKで、メインのベッドルームが一つとリビングが一つ、そして仕事用に使っているもう一部屋とさして広くもないバスルームと同じく狭いキッチンがあるだけだった。
リビングのソファに封筒を投げ出し、コートも放り出したギュンター・ノルベルトは、バスタブに湯を張った後ベッドルームで着替えると、サイドテーブルの写真立てに目を向けて拳を握りしめる。
幾つかの写真立ての中で満面の笑みを浮かべたり涙を浮かべたりしているのは10歳になるまでのウーヴェだったが、妹夫婦の結婚式の写真と並んで両親の結婚30周年だか40周年だかの写真の後ろ、隠れるように一人の女性が控え目な笑みを浮かべてじっと彼を見つめていた。
特徴的な瞳の色と笑顔は間違いなくその女性の血を受け継いだウーヴェにも流れているが、事件から20年以上を経てもまだ許せないと、いつか悲痛な声で叫ばれた事を思い出し、その写真立てを手にベッドに腰掛ける。
ベッドを置けば他にものが置けなくなる程の狭い寝室で一人写真を見つめるギュンター・ノルベルトは、いつかウーヴェの許しを得られる日が来るだろうかと語りかけ、穏やかに微笑まれてきつく目を閉じる。
幼かった自分たちが取った行動の結果、暴力によって命が奪われていくのを目の当たりにしなければならなかったウーヴェの苦痛を思えば、許してくれと言えるはずも無かった。
いつか誰かが許してくれるのだろうかと思案し、そんな夢のような日が自分たちに訪れる筈が無いと苦笑した彼は、その写真立てをそっと元の場所に戻し、大好きだった犬と一緒にフレームに収まっているウーヴェの写真を手に取る。
彼が今までの生涯で本気で愛した女性の面影が残る顔を指で撫でたギュンター・ノルベルトは、女性の写真も手にとって二つの写真を膝の上に並べる。
「ジーナ・・・あの子にボーイフレンドが出来たそうだ。きみはどう思う?」
こうして亡き女性に語りかけるのも随分と久しぶりだと思いつつ、なあどう思うともう一度問いかけて目を細めた彼は、私たちの大切なあの子が女性ではなく男と付き合う事になるとは思わなかったと本心を吐露し、あの子にとっては一体何が幸せなんだろうなとぽつりと呟く。
己の膝の上で無邪気に笑うウーヴェと穏やかに笑う女性だったが、当然ながら二人はどんな類の言葉も発することはなく、己で考えなければならない事だと苦笑して写真立てを元の場所に戻す。
バスタブにゆったりと浸かって熱めのシャワーを浴びて、寝る前にバーボンを二杯。
ここ数年の変わらない毎日を締め括る行為を今日も行おうとベッドルームから出て行った彼は、肩越しに振り返った先でウーヴェの写真に目を細め、いつかお前の恋人の顔を直接拝ませて貰うよと告げて部屋を出るのだった。
雪が止んだ夜空は急速に雲が晴れ渡り、冬の星座が顔を出して瞬き始める。
同じ街に暮らす兄弟の上に等しく静かな夜が訪れるが、20年余りを経てその関係が変化する日が訪れるまではまだ日数を要する事を知る者はおらず、ただ静かに月だけが等しく皆を見守るように白く輝き続けるのだった。
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