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第十二話 死の王と魔術師殺し
冬木の空に浮かぶ黒い神杯には、亀裂が入っていた。
終末。
祝祭。
裁き。
愛憎。
創造。
五つの層を越えたことで、神杯の外殻は確かに傷ついている。
だが、その傷口から溢れ出すものは光ではなかった。
黒い静寂。
音も熱もない、深い闇。
それは怒りでも憎しみでもない。
もっと根本的なもの。
死の気配だった。
◆
衛宮邸の居間に、誰も笑っていなかった。
凛の宝石板には、冬木地下霊脈のさらに深い場所が映し出されている。
そこに、これまでとは違う反応が出ていた。
サーヴァント反応。
暗殺者。
山の翁。
そして、神格反応。
冥王。
その横に、もう一つ。
人間の魔力反応。
衛宮士郎は、その名前を見た瞬間、呼吸を忘れた。
表示されていた名は――
衛宮切嗣。
「……嘘だろ」
士郎の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
凛も、すぐには何も言えなかった。
アルトリアは静かに目を伏せる。
アーチャーは壁に背を預けたまま、表情を硬くしている。
イリヤは布団の上で固まっていた。
彼女の指が、小さく震えている。
「切嗣……?」
イリヤの声は、とても小さかった。
士郎は振り返る。
イリヤは、信じられないものを見るような顔をしていた。
喜びではない。
怒りでもない。
そのどちらにも届かない、長い時間の奥に沈んでいた感情。
父。
置いていかれた記憶。
会いたかった人。
会いたくなかった人。
その名が、神杯によってまた掘り起こされた。
凛が歯を食いしばる。
「神杯……本当に、どこまで人の傷を使えば気が済むのよ」
メディアは宝石板を覗き込み、低く言った。
「完全な蘇生ではないわ。イリヤスフィールと同じく、魂の核か残響を拾っている。ただし構造が違う」
「違う?」
士郎が問う。
メディアは頷いた。
「イリヤスフィールは“生きたい”という願いを核にして再構成されていた。けれど、この衛宮切嗣は違う。彼を形作っているのは、生への願いではない」
「じゃあ、何だ」
メディアは少しだけ沈黙した。
「未完の正義。あるいは、選び続けた死への責任」
部屋の空気がさらに重くなる。
アーチャーが低く言った。
「魔術師殺しらしいな」
士郎は拳を握った。
「親父が、冥王と契約してるのか」
凛は宝石板の反応を見る。
「契約というより、死の層の番人に近い。冥王の力で存在を維持しながら、神杯の死の層に立っている」
ジャンヌが静かに言う。
「死の層は、死を否定する場所ではないはずです。おそらく、死をどう受け入れるかを問う場所」
イリヤが俯く。
「私は……一回死んだんだよね」
士郎の胸が痛む。
「イリヤ」
「でも、今ここにいる。お兄ちゃんたちが連れてきてくれた」
イリヤは自分の手を見る。
「じゃあ、死んだ人はみんな連れてこられるの? 切嗣も? それとも、私は特別だっただけ?」
誰もすぐには答えられなかった。
その問いは、あまりにも重い。
もし死者を戻せるなら、なぜ全員を戻さないのか。
もし戻せないなら、なぜイリヤはここにいるのか。
もし戻すことが間違いなら、士郎たちはイリヤを救ったのか、それとも死を歪めたのか。
神杯は、その問いを士郎たちへ突きつけている。
ギルガメッシュが不快そうに言った。
「死者を玩具のように並べるとは、黒い杯もつくづく下劣だ」
エルキドゥは静かに頷く。
「でも、死の層は避けられない。神杯の核へ行くには、この問いを越える必要がある」
アルトリアは士郎を見る。
「シロウ。行くのですね」
士郎は頷いた。
「行く」
イリヤが顔を上げる。
「私も」
「駄目だ」
士郎は即答した。
イリヤは少しだけ目を細める。
「またそれ?」
「お前はまだ不安定だ。死の層なんて、今のイリヤには危険すぎる」
「でも、切嗣がいるんでしょ」
士郎は言葉を詰まらせる。
イリヤの声は静かだった。
「私にも、会う権利くらいあるよ」
凛が口を挟む。
「……正直、連れて行きたくない。でも、イリヤが死の層に強く反応してるのも事実。神杯が切嗣を呼び戻した理由に、イリヤとの縁が含まれている可能性がある」
メディアも頷く。
「結界で守りながらなら、短時間の同行は可能。ただし危険になれば即撤退」
士郎はイリヤを見る。
イリヤは逃げなかった。
弱い身体で、まだ霊基も不安定で、それでもまっすぐこちらを見ている。
士郎は息を吐いた。
「分かった。でも絶対に無理はするな」
イリヤは小さく頷いた。
「うん」
◆
死の層への入口は、冬木教会の地下に開いていた。
かつて裁きの層へ繋がっていた白黒の扉。
そのさらに奥に、新たな扉が生まれていた。
黒い扉。
装飾はほとんどない。
ただ、扉の中央に一本の線が刻まれている。
それは墓標にも見え、剣にも見えた。
扉の前に立つと、空気が一気に冷たくなる。
凛が宝石を握る。
「全員、気をつけて。ここから先は精神干渉じゃなくて、存在そのものへの干渉が来る可能性がある」
メディアがイリヤの周囲に紫の結界を張る。
「イリヤスフィールは私と遠坂の結界内から出ないこと。いいわね」
「分かってる」
イリヤは素直に頷いた。
ジャンヌが旗を掲げる。
「死者への敬意を忘れないでください。この層では、敵意よりも冒涜の方が危険かもしれません」
ギルガメッシュは鼻を鳴らす。
「死者に敬意を払うかどうかは、王が決める」
エルキドゥが横から微笑む。
「ギル、今日は少しだけ静かにしよう」
「なぜ我が」
「死の王の前だから」
ギルガメッシュは不満げに黙った。
士郎は黒い扉に手を伸ばした。
冷たい。
だが、拒まれている感じはしない。
むしろ、待たれている。
扉が開く。
その先には、静かな夜が広がっていた。
◆
そこは墓地だった。
だが、冬木のどこにも存在しない墓地。
無数の墓標が、地平線の向こうまで並んでいる。
空には月も星もない。
ただ薄い灰色の光が、世界全体を照らしていた。
風はない。
音もない。
けれど、静けさの中に無数の気配がある。
死者たちの記憶。
名前を呼ばれなくなった者。
帰りを待つ者がいなくなった者。
それでも確かに、かつて生きていた者たち。
イリヤが小さく息を呑んだ。
「ここ……怖いけど、嫌な場所じゃない」
ジャンヌが頷く。
「死を侮辱する場所ではありませんね」
その時、遠くから鐘の音が聞こえた。
一度だけ。
それは教会の鐘ではない。
処刑の鐘でもない。
終わった命へ静かに告げる、区切りの音。
墓標の間に、一人の影が立っていた。
黒衣。
髑髏の仮面。
巨大な剣。
死そのものが人の形を取ったような存在。
山の翁。
暗殺者のサーヴァント。
その一歩だけで、全員の背筋が伸びた。
ギルガメッシュでさえ、軽々しい言葉を口にしない。
山の翁は、士郎を見た。
「生者よ」
その声は低く、遠く、そしてはっきりと届いた。
「死を越えようとする者か」
士郎は答える。
「死を越えたいわけじゃない」
「では、なぜここに来た」
「神杯を止めるためだ」
「神杯は死者を呼ぶ。死者の願いを燃やす。生者はそれを憎む」
山の翁の剣が、地面へ静かに触れる。
「だが問おう。生者よ。死者を戻すことは、救いか」
士郎はすぐに答えられなかった。
イリヤが隣で小さく身を震わせる。
山の翁は、イリヤを見る。
「死を越えた少女よ」
イリヤの顔が強張る。
「お前は戻った。ならば、死は敗れたか」
イリヤは震えながらも、首を横に振った。
「分からない」
山の翁は黙って待つ。
イリヤは続ける。
「私は、生きたいって言った。でも、死んだことがなかったことになったわけじゃない。バーサーカーが守ってくれたことも、私が終わりたいって思ったことも、全部なくなったわけじゃない」
彼女は胸元を握る。
「だから……死に勝ったわけじゃないと思う。ただ、もう一回だけ、生きる方を選ばせてもらった」
山の翁は、しばらく黙っていた。
そして、ほんのわずかに頷いた。
「良い答えだ」
士郎は驚いたようにイリヤを見る。
イリヤも少し驚いていた。
その時、墓地の奥に黒い門が現れた。
巨大な門。
その向こうから、冷たい青の光が漏れる。
門の前に、一人の男が立っていた。
黒いコート。
痩せた頬。
疲れた目。
だが、その目の奥には、かつて士郎が知っていた優しさと、どうしようもない諦めが同時にある。
衛宮切嗣。
士郎の喉が詰まった。
「親父……」
切嗣は、静かに士郎を見た。
そして、少しだけ笑った。
懐かしい笑みだった。
だが、以前よりも遠い。
「久しぶりだね、士郎」
その声で、士郎の中にあった何かが崩れそうになった。
イリヤは一歩も動けなかった。
切嗣は彼女を見る。
「イリヤ」
イリヤの唇が震える。
「切嗣……」
その声には、長すぎる時間が詰まっていた。
会いたかった。
でも、どうして来なかったのかと言いたかった。
責めたかった。
泣きたかった。
甘えたかった。
そのすべてが、一つの名前になって零れた。
切嗣は目を伏せる。
「ごめん」
たった一言。
それで許されるはずがない。
イリヤも分かっている。
切嗣も分かっている。
けれど、その言葉を言うためだけに戻されたのだとしたら。
それはあまりにも残酷だった。
◆
切嗣の背後の黒い門から、さらに巨大な気配が現れた。
冥王。
死者の国を統べる神。
黒い王衣。
静かな瞳。
手には、冥府の鍵杖。
その存在には、恐怖よりも秩序があった。
死を乱暴に奪う神ではない。
死者の国を守り、生者と死者の境界を保つ王。
冥王は士郎たちを見渡し、低く言った。
「生者が死者の領域へ踏み込むか」
ギルガメッシュが一歩前へ出ようとする。
エルキドゥがそっと袖を掴んだ。
「ギル」
「分かっている」
ギルガメッシュは不満げに止まった。
冥王の前では、傲慢でさえ少し静かになる。
切嗣が口を開く。
「士郎。僕は神杯に呼ばれた。冥王と契約しているけれど、完全な自由意思ではない」
「じゃあ、神杯に操られてるのか」
「操られている部分もある。でも、ここに立つ理由は僕自身にもある」
士郎は拳を握る。
「理由?」
切嗣は、静かに言った。
「君を試すためだ」
士郎の表情が固まる。
切嗣は続ける。
「士郎。お前はまだ、誰も切り捨てずに救えると思っているのか」
その問いが、死の層全体に響いた。
墓標の間を通り、黒い門へ届き、冥王の静寂に沈む。
士郎は答えられなかった。
切嗣は、責めるような顔をしていない。
ただ、悲しそうだった。
「僕は選んできた。多くを救うために、少ない方を切った。ひどい選択だった。間違っていたと言われても仕方ない。けれど、僕はそうしなければならないと思っていた」
士郎は黙って聞く。
「君は違う道を選んだ。イリヤを救い、終末神を止め、ランスロットを赦し、未完成のアルターエゴを助けた。立派だと思う」
切嗣の声が少しだけ低くなる。
「でも、そのたびに危険は増えた。敵に材料を与え、神杯の層を開き、仲間を危険に晒した。君が救った一人のために、別の誰かが危険に近づいた」
士郎の胸が痛む。
それは、彼自身も考えていたことだった。
凛が言ったように、間違いではない。
だが、結果として危険は増えている。
切嗣は問い続ける。
「それでも、君は誰も切り捨てないと言えるのか」
士郎は息を吐く。
「分からない」
切嗣は目を細める。
「分からない?」
「ああ」
士郎は正直に言った。
「今でも分からない。誰も切り捨てずに救えるなんて、簡単には言えない。俺は何度も誰かに助けられてる。凛にも、セイバーにも、アーチャーにも、皆にも」
彼はイリヤを見る。
「イリヤを助ける時だって、俺一人じゃ無理だった」
イリヤの瞳が揺れる。
士郎は切嗣を見る。
「だから、俺は誰も切り捨てないなんて偉そうには言えない」
切嗣は静かに待つ。
士郎は続けた。
「でも、切り捨てることを最初の答えにはしない」
その言葉に、切嗣の表情がわずかに変わった。
「最初の答え?」
「親父は、たぶん最初から計算してた。どっちを切れば多くが助かるか。俺は、それが間違いだって簡単には言えない。親父がそうやって助けたものもあったんだと思う」
士郎の声が震える。
「でも俺は、最初から切る方を選びたくない。考える。足掻く。誰かに頼る。それでも駄目かもしれない。でも、最初の答えに“切り捨てる”を置きたくない」
切嗣は黙っていた。
冥王も、山の翁も、何も言わない。
死の層が静かになる。
士郎はもう一度言った。
「俺は、親父とは違う答えを探す」
切嗣は目を閉じた。
その顔には、悲しさと、ほんの少しの安堵があった。
「そうか」
◆
その瞬間、神杯の黒い根が墓地の地面を突き破った。
冥王の門へ向かって、黒い線が伸びる。
凛が叫ぶ。
「来る! 神杯が切嗣さんと冥王を強制接続しようとしてる!」
メディアが杖を構える。
「死の層の問いが動いたことで、神杯が介入してきたわ!」
黒い根は切嗣の背後へ絡みつく。
切嗣の身体が揺れる。
冥王が鍵杖を掲げた。
「神杯よ。死者の秩序を乱すか」
黒い根は止まらない。
神杯は冥王の権能を奪い、死の層を支配しようとしている。
山の翁が剣を抜いた。
その瞬間、空気が変わる。
死を恐れさせるのではない。
死を正しく告げる剣。
「冠位の一閃は、乱れた死を斬る」
山の翁が動いた。
黒い根が断たれる。
音はほとんどなかった。
ただ、切られるべきものが切られたという結果だけが残る。
しかし根は次々に湧き上がる。
凛とメディアが術式を展開する。
ジャンヌが旗でイリヤを守る。
セイバーとランスロットが黒い根を斬る。
リチャードが墓標の間を駆け抜ける。
ギルガメッシュの宝具が根を撃ち抜き、エルキドゥの鎖が冥王の門を縛って固定する。
アーチャーは士郎の横に立つ。
「どうする、衛宮士郎」
「切嗣を神杯から切り離す」
「言うと思った」
「止めるのか」
「いいや」
アーチャーは弓を構える。
「今回は道を作る」
士郎は頷いた。
切嗣は黒い根に絡まれながら、士郎を見る。
「士郎。僕を救う必要はない」
「それを決めるのは親父じゃない」
切嗣は少しだけ苦笑した。
「君は本当に、頑固だ」
「親父に似たんだろ」
その言葉に、切嗣は一瞬だけ目を見開いた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
士郎は走る。
黒い根が迫る。
彼は投影する。
剣ではなく、鍵。
冥王の門と神杯の根を繋ぐ死の接続線。
それを開き、外すための鍵。
完全なものではない。
冥王の神器には遠く及ばない。
だが、士郎の不完全な投影は、これまでも層の隙間へ入り込んできた。
「投影、開始!」
手の中に、灰色の鍵が生まれる。
すぐにひび割れる。
だが、まだ使える。
冥王が士郎を見る。
「生者よ。その鍵は死を開くものではない」
「分かってる」
「ならば何を開く」
「死者を神杯から返す道だ!」
士郎は切嗣の背後にある黒い接続線へ鍵を差し込む。
瞬間、頭の中へ膨大な死の記録が流れ込む。
終わった命。
戻らない時間。
叶わなかった願い。
士郎の意識が飲まれかける。
イリヤの声が響いた。
「お兄ちゃん!」
士郎は踏みとどまる。
切嗣が言う。
「士郎、無理をするな」
「無理じゃない!」
「無理だ」
「それでもやる!」
切嗣の目が揺れる。
それはかつて、士郎に正義の味方という夢を残した男の目だった。
士郎は鍵を回す。
黒い接続線に亀裂が入る。
冥王が鍵杖を掲げた。
「死者の国の名において、神杯の不正接続を拒む」
山の翁が剣を振るう。
「死を騙る杯に、鐘は鳴らぬ」
黒い根が一斉に断たれる。
切嗣の身体から、神杯の黒い線が剥がれ落ちた。
だが同時に、切嗣の存在も薄くなる。
凛が叫ぶ。
「まずい! 神杯との接続を切ったら、切嗣さんの霊基維持が落ちる!」
士郎の顔が青ざめる。
「親父!」
切嗣は、静かに立っていた。
消えかけているのに、表情は穏やかだった。
「いいんだ、士郎」
「よくない!」
「僕はイリヤとは違う。生きたいと願って戻ったわけじゃない」
イリヤが震える声で言う。
「切嗣……」
切嗣はイリヤを見る。
その目に、深い後悔があった。
「イリヤ。君に謝りたかった」
イリヤの目から涙がこぼれる。
「謝るの、遅いよ」
「うん」
「遅すぎるよ」
「そうだね」
「ずっと、待ってたのに」
切嗣は何も言い訳しなかった。
ただ、静かに頷いた。
「ごめん」
イリヤは泣きながら、怒ったように言った。
「許さない」
士郎は息を呑む。
だがイリヤは続けた。
「今すぐには、許さない。でも……言ってくれて、よかった」
切嗣の顔が、少しだけ歪んだ。
泣きそうに見えた。
「ありがとう、イリヤ」
イリヤは涙を拭う。
「次に会ったら、もっとちゃんと怒るから」
切嗣は小さく笑った。
「うん。それでいい」
士郎は切嗣の前に立つ。
「親父、本当に行くのか」
「僕は死者だ」
「そんなの……」
「士郎」
切嗣は優しく言った。
「死を全部否定しなくていい。死んだ者が戻らないことは、悲しい。でも、その悲しさを抱えて生きることも、生者の役目だ」
士郎は何も言えなかった。
切嗣は続ける。
「君はイリヤを生へ戻した。それは間違いじゃない。けれど、すべての死者を戻すことが救いではない。それを忘れないでくれ」
山の翁が静かに頷く。
冥王もまた、切嗣を見る。
「衛宮切嗣。お前は生者へ言葉を残した。死者の領域へ戻るか」
切嗣は頷いた。
「その前に、ひとつだけ」
彼は士郎へ手を伸ばした。
その手が、士郎の頭に触れる。
昔のように。
不器用で、優しい手だった。
「大きくなったな、士郎」
士郎の目に涙が滲む。
「親父……」
「君は僕の夢を継がなくていい」
切嗣は言った。
「君自身の答えを選びなさい」
その言葉を最後に、切嗣の身体は淡い光になり始めた。
消える。
だが、神杯に奪われるのではない。
冥王の門へ、静かに帰っていく。
イリヤが叫んだ。
「切嗣!」
切嗣は振り返る。
「イリヤ」
「私、生きるから!」
切嗣の顔に、深い安堵が浮かんだ。
「うん」
彼は静かに笑った。
「それが聞けてよかった」
そして、衛宮切嗣は冥王の門の向こうへ消えた。
◆
死の層に、静寂が戻った。
黒い神杯の根は断たれ、冥王の門は閉じようとしている。
凛は宝石板を見た。
「死の層、開いた……それに、神杯核への接続路がまた一つ安定した」
メディアが小さく息を吐く。
「代償は大きかったわね」
士郎は何も言わなかった。
イリヤも黙っていた。
けれど、二人の沈黙は同じではない。
士郎は父を見送った。
イリヤは父に怒る機会を、ほんの少しだけ取り戻した。
それは救いとは呼べないかもしれない。
でも、神杯の燃料ではなかった。
彼ら自身の別れだった。
山の翁が士郎の前に立つ。
「生者よ」
士郎は顔を上げる。
「死を拒むな。死を崇めるな。死を利用する杯を許すな」
士郎は頷いた。
「ああ」
「ならば進め」
山の翁は巨大な剣を掲げた。
「死の層は開かれた。次に待つは、王権の層」
ギルガメッシュの目が細くなる。
アルトリアも反応する。
イスカンダルの気配が遠くで揺れたように感じられた。
王権。
英雄王。
騎士王。
征服王。
そして、神々の王。
凛が呟く。
「ゼウス……」
冥王の門が完全に閉じる直前、冥王が士郎へ言った。
「生者よ。神杯は次に王を問う。誰が願いを支配するのか。誰が世界を導くのか。誰が王に相応しいのか」
ギルガメッシュが不遜に笑う。
「愚問だな」
アルトリアは静かに剣へ手を添える。
エルキドゥは小さく息を吐く。
「次は大変そうだ」
リチャードが笑う。
「王の話ならば、私も黙っていられないな」
ジャンヌは祈るように目を伏せた。
「王権が願いを支配する時、民の祈りはどこへ行くのか……」
士郎は黒い神杯を見上げた。
父を見送った痛みは、まだ胸にある。
でも、その痛みは彼を止めなかった。
切嗣は言った。
自分自身の答えを選べ、と。
ならば進む。
神杯が願いを支配しようとするなら、それを止める。
願いは、持ち主のものだ。
死者のものも。
生者のものも。
王のものも。
名もなき誰かのものも。
◆
衛宮邸へ戻ったのは、夜明け前だった。
イリヤは疲れ切っていたが、眠らなかった。
縁側に座り、白み始めた空を見ている。
士郎は隣に座った。
「寒くないか」
「ちょっと」
士郎は毛布をかける。
イリヤは小さく呟いた。
「私、許さないって言っちゃった」
「ああ」
「でも、本当は……分かんない」
「分かんなくていいんじゃないか」
イリヤは士郎を見る。
「いいの?」
「すぐに許せなくても、すぐに嫌いになれなくても、どっちでもいいんだと思う」
イリヤはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「そっか」
朝日が昇る。
黒い神杯の亀裂から、かすかな光が漏れていた。
それは神杯の光ではない。
士郎たちが開いてきた層の奥から漏れる、人の願いの光だった。
イリヤは空を見上げて、ぽつりと言った。
「おはよう、お兄ちゃん」
士郎は少し笑った。
「おはよう、イリヤ」
今日も、彼女はその言葉を言えた。
それだけで、死の層を越えた意味はあった。
◆
同じ頃。
冬木の上空。
黒い神杯のさらに上、雷雲の奥で、一柱の神が目を開いた。
雷帝。
ゼウス。
その手には雷霆。
その背後には、王権の玉座。
神々の王は、地上を見下ろしていた。
英雄王。
騎士王。
征服王。
獅子心王。
そして、王ではないのに願いを返し続ける少年。
雷帝は笑った。
「王を問うならば、余を避けては通れまい」
雷が鳴る。
冬木全域の空が、白く裂けた。
神杯戦争、第十二夜。
士郎は父と再会し、父を見送った。
イリヤは父へ怒りを告げ、それでも生きると宣言した。
死の層は開かれ、神杯核への道はさらに深まる。
次なる層は、王権。
願いを支配する王か。
願いを導く王か。
願いを奪う神の王か。
第十三話へ続く。
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ああもう、めっちゃ重かった……切嗣が出てきた瞬間からずっと胸が痛かったわ。イリヤが「許さない」って言いながらも「言ってくれてよかった」って続けたところ、あの距離感がリアルすぎて泣きそうになった。士郎が「切り捨てることを最初の答えにはしない」って言い切ったのも、親父と向き合ったからこその言葉だよな。冥王と山の翁の存在感もすごくて、死の層の空気がちゃんと伝わってきた。次は王権の層か……ゼウス相手にどう立ち回るのか、めっちゃ気になる🔥
聖杯
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涅槃
1,281