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#心霊
#地下アイドル
#ブラックコメディー
#探偵
僕は男から引ったくったタモ網を、水槽の闇に投げ入れた。
激しい水音が響き、黒い液体が飛び散る。静寂の中、水槽の奥からかすかに音が聞こえてきた。
――トントン、トントン。
包丁が、まな板を叩く音。母の後ろ姿。夕飯の匂い。温かい部屋の空気。
その瞬間、僕の体からすべての「重み」が消えた。
「あ……れ?」
地面を踏みしめていたはずの足の裏から、感覚が失われる。自分が立っているのか浮いているのか分からない。声を出そうとしたが、喉という器官がもうそこにないようだった。
僕は致命的な勘違いをしていたのだ。
何でもない退屈な日常。無言の台所。つまらない授業。それらは決して無価値なゴミなどではなかった。
それこそが、僕を「人間」としてこの現実に固定していた『錨』だったのだ。日々の退屈な積み重ねがあるからこそ、僕は僕として存在できていた。
それを自ら切り離してしまった僕の体は、もはや現実に留まることができず、水槽の黒い闇へと沈み始めていた。
助けて、と叫ぼうとしても、音にならない。闇が視界を覆い尽くし、僕は意識を手放した。
そして現在。夏祭りの夜、境内の奥。
ハッと息を吹き返すと、僕は喧騒の中に立っていた。目の前には、浴衣姿の黒川さんがいる。
「ずっと、私のこと、見てくれてたよね? 真田くんのそういう優しいところが……好きです」
ドン、と遠くで花火が上がる。彼女の潤んだ瞳が、僕を真っ直ぐに捉えている。
しかし、僕の心は空洞だった。
(黒川さん……?)
名前はわかる。彼女がクラスメイトであることも、知識としてはわかる。でも、彼女と過ごした時間の『実感』が、まるでない。
彼女がどんな声で笑うのか。どうして僕が彼女に惹かれていたのか。そもそも、僕はどんな人間だったのか。
記憶という土台を失った僕の感情は、すでに干からびていた。
「真田くん……? どうしたの?」
僕が何も答えないことに不安を覚えたのか、彼女が一歩近づいてくる。
そのとき、花火の光に照らされた自分の右手が、透け始めているのに気づいた。記憶を失い、存在を保てなくなった体が、夜の闇に溶けるように少しずつ透明になっていく。
「ごめん」
僕の口から出たのは、ひどく平坦な、他人のような声だった。
「君が誰なのか、もう、思い出せないんだ」
彼女の顔が、驚愕と絶望に染まる。手からラムネの瓶が滑り落ち、境内の石畳で鈍い音を立てて割れた。
彼女が何かを叫ぼうとした瞬間、僕の意識は再び深い闇へと沈んでいった。
冷たい雨の匂いで、目が覚めた。
周囲を見回すと、そこはあの祭りの路地裏だった。いつの間にか雨が降り出しており、提灯の明かりが濡れた地面に反射して揺れている。
立ち上がり、自分の手を見た。衣服はボロ布のような黒い浴衣に変わっていた。袖から伸びる指は、異様に細長く、白く変色していた。
空間ごと闇に落ちたあの日、僕は現実世界から完全に消滅し、いつの間にか「次の案内人」に作り替えられていたのだ。
でも、不思議と悲しみや絶望はなかった。頭の中が空っぽになった分、遠く離れた場所にいるクラスメイトたちの「小さな願い」や「秘密」が、心地よいノイズのように響き続けているからだ。
(黒川さんは、本当は今日、あの靴を履いていきたかった)
(先生は、明日の小テストの準備が終わらなくて焦っている)
僕の存在は、彼らの秘密を集めて誰かに分け与えるための、単なる『装置』としてこの路地裏に固定されていた。
遠くから、祭りのざわめきと雨音が混ざり合って聞こえる。
ふと見ると、その喧騒から逃れるようにして、一人の高校生が路地裏を覗き込んできた。肩を落とし、世界のすべてに馴染めず、ひどく寂しそうな目をしている。
かつての自分と、よく似た目だった。
僕は、自分の意思とは関係なく動く細長い指を、その若者へと向けた。喉から出てきたのは、生気のない、しかしどこか優しげな声だった。
「一回やるなら、きみの『価値のない、退屈な記憶』を貰うよ」
若者が、ビクッと肩を揺らしてこちらを見る。
「この水の底にあるのは、きみが本当に欲しがっているものさ。みんなに優しくしてもらえる、温かい居場所だよ」
雨は、まだ降り続いている。
僕の足元の黒い水槽の中で、無数の秘密が、次の持ち主を待つように蠢いていた。