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井浦結は頭に白いヘアキャップを被り、革靴には足カバー、マスクとエプロンを着け蓮根畑男の検死に立ち合っていた。
河北潟は石川県金沢平野の北部にある農業用の干拓地で海にも近い。そこでは酪農、西瓜、キャベツ、加賀野菜の一つ「加賀れんこん」の大規模栽培が行われている。
その男は蓮根を栽培する泥の中から脚を出していた。外気と長期間遮断された死体は腐敗する事なく蝋状になり、殺害された当時の状態を保っていた。
「全身が屍蝋化していますから、最低一年以上経過していますね」
「気味が悪いな」
「ビニール製の人形みたいですね」
「井浦警部補、どうされたんですか?」
井浦は検死台の縁に片手を掛けたまま、水で濡れた緑色の床に目を落としていた。眉間には皺が寄り骨張った頬は真っ青、もう片方の手でマスクの口元を押さえている。
「見なくて宜しいんですか?」
「いや、靴紐が」
「靴紐なら足カバーの中、に」
そこまで言い掛けたところで自分を見上げた井浦が鬼の形相だったのでその刑事は目を背けた。生々しい死体だと聞いてはいたがここ迄とは想像していなかった。しかもマスクを通して微生物満載の泥水の臭いが鼻に付く。
(や、もう勘弁してくれ)
屍蝋化した遺体は男性、年齢不明、ガッシリとした体格で身長は約183cm、歯型治療痕などから行方不明者リストに該当者がないか照合中との事だった。死因は首周辺に紐状のような物での圧迫痕、失血死との見立てだ。
「局部をめった刺し、性的倒錯者の犯行でしょうか」
「生活反応あり」
「痛かっただろうなぁ」
蓮根畑男に薄緑色のビニールが被せられたところで井浦が立ち上がった。
「痛えもクソもあるか、チンポ切られた男の立場になってみろ!さっさと現場行くぞ!」
マスクとエプロンを剥ぎ取りゴミ箱に勢いよく捨て革靴の音を鳴らして逃げるように立ち去ろうとする井浦に部下が声を掛けた。
「警部補!頭!頭!」
指摘されて気が付き、白いヘアキャップを掴むと蛍光灯の明かりが映るビニールの廊下に叩きつけた。グレージュの髪はボサボサに逆立っていた。
そして2日後、新しい遺体が発見された。
街灯も疎らな真っ暗な河北潟干拓地を突っ切る直線道路。細い用水路に掛かった段差のある橋にスピードを緩めず飛び上がる一台のタクシー、ガコンと音を立て車体の底をアスファルトへとダイブした。
白いボディには北陸交通、ルーフには緑色の行灯、バックドアガラスには101とオレンジ色のステッカーが貼られている。
助手席で激しく跳ね上がり、シートベルトで押さえ付けられ激しく腰を打つ。井浦のグレーのスーツからダークグレーのネクタイが宙を舞った。
「てんメェ!何考えてんだ!」
「ひゃつはー!」
「タクシードライバーならドライバーらしい運転しろよ!アクセル踏むな、踏むなー!」
「営業時間外です、か、らー!」
シートベルトにしがみ付き、片手でダッシュボードを押さえる。この猫はベッドの上とハンドルを握らせると大虎に変化するようだ。
「足、踏ん張ってください!」
「まてまてまてまて!」
ハンドルを大きく左に切りブレーキを踏む。左に振られパワーウインドに頬が吸い付く。タクシーは砂煙を上げ、閉店直後のソフトクリーム販売所の芝生の上に停まった。
「おまえ、普通に停まれぇのか!!」
「停まりましたが」
「何しれッとした顔してんだ、免停にするぞ!」
ブルンブルンと低いエンジン音が静けさの中に響き、助手席にポッと小さな灯りがついた。
「車内は禁煙です」
「一本くらい良いじゃねぇか」
「お断りします」
「チッ」
砂利を踏む音、ボンネットに寄り掛かった井浦が煙草の煙を燻らす。次いで現次郎がその隣に立ち、腰に手を当てて背中を反らせた。
「で、なんでまた僕の車タクシーで来るんですか?」
「刑事と来ると落ち着かねえ」
「それだけが理由ですか?」
「捜査車両でウロウロすりゃ、来るものも来ねぇ」
「来る?」
「来るさ、やった奴がな」
「やったとは」
「殺っただよ。新しい死体がこんにちは。泥の中からな」
「え」
「出来上がってホカホカなのがな」
井浦の革靴が砂利の上で煙草の煙をすり潰した。
そのまま捨て置くのかと思えば胸からシルバーの丸い携帯灰皿を取り出しピンセットで摘んで入れた。
「なんでピンセットを使うんですか」
「指紋が付くだろうが」
「何か罪を犯すご予定でもあるんですか」
「ねぇよ」
一服を終えた井浦は、カントリー調のソフトクリーム販売所と背の高いトウキビ畑の谷間を暗闇に向かって進んだ。サイロで蒸した牧草の生臭さがあたり一面に広がっている。夜に馴染んだ目に浮かび上がる低いトタン屋根の小屋は”ふれあい広場”と看板が掲げられた家畜の寝床だ。生き物の気配、ブルルルと低い鼻息が聞こえる。
「井浦さん」
「なんだ」
「気を付けないと、そこ、ウサギの糞、落ちてますよ」
そういえば先ほどから何やらふにゃりとした感触が革靴の底にあった。
片膝を上げ、手でくるぶしを掴んで鼻先で嗅ぐ。最悪だ。
「そういうことは先に言えや!」
「や、普通、農場に来ればそれくらい分かると思ったんですが」
「使えねぇな!」
「僕は井浦さんの部下じゃありませんからね」
「似たようなモンだろうが」
下弦の月明かり。
コオロギが鳴き止み、農道の奥から草を踏み締める音が近付いて来た。