テラーノベル
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シートに深く体を沈め、膝の上のスマートフォンを見つめる。
液晶の青白い光だけが、私の顔を照らしていた。
画面の向こう側では、慎一と笑里が絡み合っている。
私が酒を買いに行って、出て行った――ほんの少しの隙。本妻がいなくなったその事実がもたらす解放感に、二人はすっかり溺れていた。
寝室のドアは半分開いたままで、リビングにはまだ同僚たちが残っているというのに——あの男には、羞恥心というものが端からないのだろう。
慎一の口から零れる声は甘く濁っていて、私がかつて聞いた「愛してる」という言葉と、どこかで繋がっているような気がして、胃の奥に鉛の塊が落ちた。
(……汚らわしい)
心の中でそう呟いた瞬間、感情は凪いだ。
不思議なほど澄み渡った冷静さが、怒りの上に膜を張るように広がっていく。
私は二週間、あの料理の練習に費やした。指の第二関節に残る薄い火傷の痕がそれを証明している。献立を考え、食材を選び、苦手だからと一度も料理になど興味を持ったことのなかった自分が、レシピ動画を何度も巻き戻した。
すべては今日のために。
私は無言で録画したその画面を見つめた。愛人が啼き、夫がその上に覆いかぶさる。
目を背けたくなるような背徳的行為を、フィニッシュの瞬間まで、ひと言も漏らさず、ブレもさせず、ただ記録した。感情が邪魔をしないよう、奥歯を噛み締めながら。
――これは、私が勝つために必要なこと。辛いと思っちゃだめ。
時計を見た。家を出てから20分ほど。
もういいかな。あまり遅いと怪しまれてしまうかもしれない。
私は後部座席に積んでおいたシャンパンとワインの袋を手に取った。深く息を吸い、感情と共に吐き出す。よし、と気合を入れ、私は車のドアを開けた。すぐさま家に向かう。
「ただいま」
わざと声を出して存在を気づかせるようにして家に入る。玄関を開けた瞬間に作った笑顔は、おそらく完璧だったと思う。
寝室から慌てて出てきた二人の様子——乱れた髪、上気した頬、わずかに歪んだ衣服の合わせ——を私は一秒で全部確認し、なにも気が付かないふりをした。
「遅いんだよ」
慎一が虚勢を張るように言った。その声には後ろめたさが滲んでいたが、私はただ微笑んだ。「ごめんね。ちょっと混んでたから」
「もう2人とも寝ちゃったし」
「あ……じゃあ、3人で飲む?」
「いやいいよ。起こして帰らせよう」
さすがに本妻と愛人をはべらせて飲む勇気はないらしく、慎一の方からあっさり降参し、リビングで眠りこけている田原さんと森口さんの肩を遠慮なく揺すった。
「起きて」
「ん~~~~あと5分……」
「おいおい。寝すぎだろ。なんでこんなになるまで飲むんだよ……まったく」
ぶつぶつ言いながらタクシーを呼ぶ慎一。笑里の方は慎一と繋がれて満足したのか、やたらこちらを見下した笑顔を向けてくる。
やがてタクシーが到着し、手分けして3人を乗せた。
「こいつら大変だろうから、送っていくわ」
なんと慎一が送りを買って出た。もちろん笑里も同じタクシーに乗り込む。
「遅くなると思うからさ、片付けよろしくな」
そう言い残し、彼は去っていった。
しまった。今日はプライベートだから、慎一の動向が掴めない。恐らく同僚を送り届けて奥さんたちに恩を売りつけた後、愛人と第2戦を交えるのだろう。ほんと気持ち悪い男。
まあいいわ。せいぜい今のうちに楽しんでおきなさい。
どうせあなたを待っているのは、地獄なんだから――
※
翌日の午後、マカロンの扉を押し開けるなり、ユカリさんが身を乗り出してきた。
「美輪ちゃん、動画見たよ! 完璧なアングルですっごい証拠じゃん!!」
「やったね!」
「旦那クン地獄行決定~☆」
昨日のうちに撮影した証拠を、オーナーと仲間たちに確認してもらったところ、賞賛の嵐が訪れた。
生々しい証拠を尻目に、リリコさんは腕を組み、眉間に細い皺を寄せながら口を開いた。
「肉体関係の証拠としては十分ね。でも、相手は無実を言ってくると思うな。酔った勢いで一度きりだと言い逃れされるリスクがあるわ」
鋭い指摘に、オーナーが静かに頷いた。
「一度、専門家の意見を聞きましょう。あなたのレシピを、法的に有効なものへ変えるために」
そう言ってオーナーから紹介されたのは、家庭内問題に強い女性弁護士の事務所だった。
アポを取ってもらったので、早速証拠を持って出向いた。
とある駅前のビルの中にある一室。そこは空調の整った静謐(せいひつ)な部屋で、本棚には法令集が几帳面に並び、机の上には余計なものが一切ない。
アラサーのシゴデキ感満載の、黒髪のおかっぱで赤渕眼鏡がよく似合う、目力の強いクールな彼女が私に名刺をくれた。名刺には、所長 小山内聖羅(おさないせいら)と書かれていた。
彼女は私の差し出したデータを一通り確認し、眼鏡の奥の目を静かに細めた。その沈黙の長さが、すでに答えを告げていた。
「……厳しいことを申し上げますが」
先生の声は、低く、穏やかで、しかし容赦がなかった。「これだけでは、まだ弱いですね。一度きりの不貞は、魔が差したと言い逃れされるリスクが伴います。継続的な関係であることを示す――宿泊記録、あるいはより長期にわたる行動の履歴など、そういったものが必要です。今の状態では、あなたが望む離婚や、希望額の慰謝料を認めさせるのは、難しいと言わざるを得ません」
「……そう、ですか」
それだけ言うのがやっとだった。
目の前が暗くなるとはこういうことか――と頭の片隅で思いながら、それでも私は立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げた。
これでもまだ足りないなんて。
あのクズたちを、もっと泳がせなければならないんだ。腐りきった証拠を、積み上げなければならない。吐き気にも似た感情を腹の底に押し込め、私は重い足取りで事務所を後にした――その時だった。
「……あら。美輪さん?」
低く、刺すような声。どこかで聞いた、聞き覚えのある質感。
私はゆっくりと振り返った。
視線の先に立っていたのは――驚くほどに意外な人物。
義姉、だ。
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