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ひかりが自分の席に戻ったあとも、俺の心臓はしばらく落ち着かなかった。
別に、見られたわけじゃない。
スマホは伏せていたし、通知音もミュートだ。そもそも「ヨル」の名前は、画面に表示されない設定になっている。アイコンも風景写真。バレる要素はゼロ。
——なのに、なぜ。
「藤宮、顔」
「……顔がなに」
「赤い」
「赤くない」
「赤い。耳が赤い。耳が赤いやつは大体動揺してる」
「黒澤、観察やめろ」
凛は前の席で頬杖をついたまま、面白そうに俺の顔を覗き込んでいた。
短めに切り揃えられた黒髪が、首を傾けるたびにさらりと耳の上で揺れる。中学のときに「邪魔だから」という理由で肩より上にざっくり切って以来、彼女はずっとこの髪型だ。本人いわく「楽だから」。俺としては、そのボーイッシュな短さが、彼女の不愛想な目つきと妙に釣り合っていて、いっそ落ち着く。
「七瀬さんと、なんの話してたの」
「図書委員。本の返却」
「ふーん。本の返却で耳まで赤くなる男子高校生か。青春してんね」
「茶化すな」
「茶化したくもなる。あの七瀬ひかりが、よりによって藤宮陽人に話しかけてんだよ」
「……『よりによって』とは」
「だって考えてもみ?」
凛は人差し指を立てて、教室を半円に示した。
「うちのクラス、あの子と話したことある男子、たぶん全員いる。藤宮以外」
「……」
「藤宮、半年間まじで誰とも話してないでしょ」
「黒澤とは話してる」
「私はカウントしないで。私を入れたら『話してる』のハードルが下がりすぎる」
ひどい言われようだが、反論できない。
俺はもう一度、こっそり教室の前のほうを盗み見た。
七瀬ひかりは、女子三人に囲まれて、なにか楽しそうに笑っていた。手を口元にあてて、肩を揺らして、頷いて、笑い返す。教科書通りの「学校一の美少女」が、教科書通りの「朝の挨拶」をこなしている。
さっきの会話が、本当にあったのかすら疑わしくなる光景だった。
「ボカロとか、聴く?」
——あの一言だけが、俺の耳の中でやけにくっきり残っている。
「……黒澤」
「ん」
「七瀬って、ボカロ聴くと思う?」
凛の片眉が、ぴくりと動いた。
彼女は数秒、無表情で俺を眺めたあと、やや疲れた顔で息を吐いた。
「藤宮」
「なんだ」
「お前さあ。今のは、ヤバい質問だぞ」
「なんで」
「『学校一の美少女、俺と同じ趣味かもしれない』って思ってる男子の顔、本人より先に世界中の女子が察するから」
「思ってない」
「思ってる。さっきから三回くらい七瀬さんのほう見てる」
「……一回しか見てない」
「三回見た。ボーイッシュな目を侮るな」
凛は自分の短い髪を指先で軽くいじりながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「ま、いいけど。聴くんじゃない、たぶん」
「適当だな」
「適当じゃないよ。あの子、たぶんなんでも聴くタイプ。広く浅く。クラスの女子の話に合わせるために、流行ってるものは一通り押さえとくタイプ。完璧超人ってのは、そういうとこも完璧」
「……なるほど」
「だから、藤宮の好きな『ヨル』とかも、たぶん『あー、聴いたことある~』くらいの距離感で聴いてる。安心しろ」
凛のその言葉は、半分だけ俺を安心させた。
残り半分は、なぜかちくりと胸の奥に刺さった。
——「ヨル」が、誰かにとって「あー、聴いたことある~」程度のものでしかない、という想像が。
笑える話だ。
俺はずっと、「誰にも知られなくていい」と言ってきたはずなのに。
「……そうだな」
「うん、そう」
「ありがとう」
「気持ち悪いな、その『ありがとう』」
凛が席を立とうとしたそのとき、教室の前のドアが開いて、担任が入ってきた。
朝のホームルームが始まる。出席をとる声、椅子を引く音、シャープペンを落とす音。教室の音量が、ひかりを中心にした朝の喧騒から、授業前の弛緩した静けさへとゆるやかに切り替わっていく。
俺は背筋を伸ばし、机の下のスマホをポケットに戻した。
戻す直前に、画面の通知欄にもう一度だけ目をやる。
————
@yoru_no_hikariさんがあなたの投稿をブックマークに保存しました。
————
知らないアカウントだ。
鍵アカで、フォロー数もフォロワー数も非公開。プロフィール欄には、ひとことだけ書いてあるのが見えた。
————
「夜の、ひかりに救われた人間の墓場」
————
——なんだ、その物騒な自己紹介。
普段なら笑って流すだけの、ファンの一人にすぎないアカウントだ。
ヨルのフォロワーは十二万人。鍵アカで熱烈に布教してくれている人なんて、たぶん何百人といる。一人ひとりに反応していたら、俺の心臓がいくつあっても足りない。
なのに、なぜだろう。
そのプロフィールの一文だけが、妙に目に焼きついた。
「夜の、ひかりに、救われた人間の墓場」
夜の、ひかり。
ひかり。
——いや。
俺は心の中で、自分にもう一度言い聞かせた。
七瀬ひかり、なんて、そんな名前のオタクが世の中にどれだけいると思ってんだ。「ひかり」なんて、たぶん日本に何十万人といる。偶然だ。偶然以外のなんでもない。
だいたい、もしひかりがヨルのファンだったとしたら——あの完璧超人の七瀬ひかりが、深夜に鍵アカで「ヨル先生の新作、今日もしんどいくらい好き……」とかツイートしている、なんて。
そんなの、人生のバランスがおかしいだろう。
俺は息を吐いて、スマホをポケットの奥にしまい込んだ。
「起立、礼」
「おはようございます」
声を揃える教室のなかで、俺はちらりと斜め前のほう——ひかりの席に目をやった。
彼女はちょうど、お辞儀から顔を上げたところだった。
背筋を伸ばし、教科書を机の上に整え、シャープペンを握り、教師のほうへきれいに視線を向けている。
その横顔は、本当に絵に描いたような優等生で、絵に描いたような人気者で、絵に描いたような——「教室のいちばん明るい場所」の住人だった。
ただ、ほんの一瞬。
授業が始まる直前、ノートを開く手が止まり、指先でスカートのポケットの上を、そっと撫でた。
スマホ越しに、なにかを確認するように。
あるいは、お守りに触れるみたいに。
俺の位置からは、その指先が震えていたかどうかまでは、見えなかった。
放課後、俺は早々に校門を出た。
寄り道はしない。コンビニにも寄らない。まっすぐ家に帰って、自分の部屋にこもる。ヘッドホンをして、DAWを立ち上げて、新しいトラックの続きをいじる。それが「藤宮陽人」の放課後の、ほぼ唯一のテンプレートだ。
夕方のうちに、新曲のアレンジを一段階進めたい。サビ前のブレイクが、まだ少し弱い気がしている。フォロワーから「サビ前で一回息を止められるのが好き」と言ってもらえる、あの感覚を、もう一段だけ深くしたい。
——その「フォロワー」のなかに。
もしかしたら、今日の朝、俺の机に手をついて笑った彼女が、混じっているのかもしれない。
そう想像した瞬間、なぜか歩く速度が、ほんの少しだけ落ちた。
「別に、誰にも知られなくていい」
口の中で、いつものセリフを呟く。
呟いて、自分でも気づく。
今日のそれは、いつもよりほんの少しだけ、嘘くさい響きをしていた。
スマホがポケットの中で、短く震えた。
取り出すと、ヨルのアカウントに届いた、新しい引用リポストの通知だった。
————
「ヨル先生の新曲、ほんとうに、今日生きていてよかったって思える曲。何回聴いても、サビ前で息が止まる。世界でいちばん優しい3秒間だと思う」
————
引用元のアカウントは、鍵がついていて中までは読めない。
ただ、そのユーザーネームには、見覚えがあった。
@yoru_no_hikari
——夜の、ひかり。
俺は、信号待ちの横断歩道で、しばらくその通知を眺めていた。
「世界でいちばん優しい3秒間」。
そんな言い方、誰にされたって、たぶん俺は一生忘れない。
そういうことを、知らない誰かは、ときどき平気で言ってくる。それが、ネットの怖いところで、いいところで——たぶん俺が、ヨルをやめられない理由だった。
信号が青に変わる。
俺は画面を伏せて、ポケットにしまい、足を踏み出した。
教室の「いちばん明るい場所」と、「いちばん暗い席」。
そのあいだに、まだ細くて頼りない一本の線が、たしかに引かれた。
今日、それが引かれたことを、たぶん本人たちはまだ、どちらもちゃんとは気づいていない。
ただ、線はもう、引かれてしまった。
そして引かれてしまった線は、たぶん——これからゆっくり、ゆっくり、こちら側に向かって近づいてくる。