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1853年。黒船が横浜に来船した。黒州藩は幕府に対抗するために育ててきた “ 隠し刀 “。隠し刀は二人一組で構成される。隠し刀である佐一とゆう。二人に課せられた任務は、ペリー暗殺。月のない夜の海に浮かぶ黒船で、ペリーの首に刀が触れる寸前、青鬼の面をつけた老爺が二人の前に立ちはだかる。佐一は青鬼に立ち向かい、ゆうは海へ身を投げた。佐一は左腕を切られ行方不明に。ゆうは右つ肺を銃で撃たれ死に者狂いで陸に上がった⋯。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「っぷはっ!⋯はあっ⋯はあっ⋯」
肺を撃たれたことで、息継ぎがしづらい。重い着物と身を引きづりなが砂浜へ上がった。黒船を遠くから振り向く。遠すぎて、佐一の様子は分からない。
今は、研師の待っ黒州へ戻って、任務の失敗と佐一の様子を伝えなくてはならない。重い体を動かしながら、私は研師の元へ急いだ。研師に報告した二日後。幕府の連中が黒州藩に奇襲を仕掛けて来た。幕府軍の人数は黒州の人口の約十倍。黒州の中で唯一生き残った私は、幕府に縄をかけられ、
江戸の江戸城へと連れて行かれた⋯。
「オラ!跪け!」
丸い黒い砂の上に、両腕を後ろで縛られたまま背中を押され、砂に膝を着く。顳かみから伸びる髪が揺れ、湯屋にも行っていないから、不潔だろうな⋯こんなに周りに大人数いる状態で逃げようなんぞ無謀なことは考えていないのに。江戸城に着いた頃には、太陽が上から当たる刻になっていた。木の籍に入れられて運ばれている間、かなり遠くに運ばれているなとは思ったが、まさか江戸城まで運ばれているとは…..。
黒州が幕府に対抗するために私たち隠し刀を創っていることは知っていた。しかし、あの場で殺されなかったということは、私は拷問か何かにかけられるのかもしれない。
周りの幕府の役人が、急に頭を下げだした。なんだ?周りに合わせておくか。
「征夷大将軍様の御成!」
征夷大将軍サマ?…..私はどうなってしまうんだ。やはり処罰にかけられるのか?
頭は下げたまま、瞳を右にやって考える。
征夷大将軍サマの顔など見たこともない。幕府の大将なのだから、黒州の敵に当たる。…..まぁ、私は幕府に恨みなど….あぁ、あるか。青鬼は幕府の人間のはずだ。片割れである佐一の情報を教えてもらえるなら構わないが、向こうからしたら、私は処罰すべき人間だろう。
木の板を踏む音が聞こえて、周りが静かになる。ジャリジャリと砂を踏む音がして、人の気配がひとつ近づいてくる。
バシャッ
と、頭から水をかけられた。水攻めにしては、随分と温いやり方だな。それが五回ほど続いて、水が髪からポタポタと水が滴る。….夏だというのに、水をかけられたまま放置されたら寒い。….凍え死ねということか?
「それくらいでいいだろう」
今までの幕府の役人からは聞いたことがない凛とした声がする。声に続いて、砂を踏む音が遠ざかる。私に水をかけた役人が引いて行くんだろう。
そのあと、砂を踏む音が再び近付いてきた。頭の前で足音が止まる。上様⋯征夷大将軍サマがこんなにも前にいると緊張するものだ。
「う、上様…..?!」
幕府の役人が何やらザワついている。私は頭を伏せているので何を持っているかわからないが、首の介錯を征夷大将軍サマ直々にするだろうか….。
「?!」
後頭部の髪を縛った部分をグイと上に引っ張られ、自動的に顔が上がる。
「ふぅん」
整った髷に、ハッキリとした眉。目尻がきゅうと釣り上がり、灰色の瞳と目がある。私から見て右の目の下に黒子があり、顎は細く無駄な肉がない整った顔立ちだ。もし私が、征夷大将軍サマの命を取ろうと思った時、思わず躊躇してしまう程美しい顔。
彼の瞳に写る私は、黒い髪を掴まれ、濡れた前髪の隙間から童顔と紫の瞳が覗いている。
向こうは何も言わない。私は殺されるのだろうか。
「こいつを湯あみに連れて行け」
「はっ!」
は?湯浴み?私はどうなるんだ?私の腕の下から役人が腕を入れ、無理矢理連れて行かれる。
役人は湯あみ場の脱衣場に私を放り込むと、タンッと戸を閉めてしまった。
「外には役人が待期している。とっとと湯あみをして来い。待たせるな」
向こうから聞こえる男の役人の声。私の身ぐるみを剥いでも構わないのに。湯あみをして、新しい白い肌襦神に腕を通した。
「終わったのか」
「あ、はい、」
丁寧な対応に驚きながらも、一応返事をした。戸を開けると、再び手首を縛られる。
征弟大将軍サマの前に跪くよう言われるので大人しく従う。
「少しはまともになったじゃないか」
そりゃあさっきよりはマシだろうが⋯征夷大将軍サは、なんというか、思っていた姿と違う。私のような者を殺したり、横暴だったり。または世間知らずだと思っていたのに。
「お前、今の幕府をどう思っている」
はぁ….?幕府?
黒船が来る前から、色んな場所で攘夷だなんだと聞いたが、私自身は幕府を倒そうだなんて思っていない。….が、確実に力が弱まっているのは確かだ。だからこそ、攘夷だなんだという人間を片っ端から捕らえて斬っているのだろう。
「私は黒州の人間ですが、あなた方に恨みはありません。…..ですが、幕府が力を失いつつあるのは感じています」
「貴様!無礼な!」
「っ、?!」
後ろから役人に殴られる。後ろ手に縛られていては地面に顔が着くことも防げず、自分の右の顳辺りに石が刺さる痛みも感じた。
「良い。…..まぁ、そうなんだよな。そこでだ」
征夷大将軍サマは私の右腕と砂の間に左手を滑らせ、私の左肩に右手を置いて私を再び座らせた。
「お前、腕は立つんだろう?俺の刀になれよ」
「は……」
人間の腕ひとつ分の距離で、顔の良い征夷大将軍にそう言われた。それはもちろん驚くばかりだが、私が裏切らないという保証がどこにあるのだろうか。この人は、随分とお人好しである。
「まぁ、賢いお前ならわかるだろうが」
パッと手が離れ、征夷大将軍サマは綺麗な顔で笑った。……あぁ、逆らったら首は無い、ということか。それなら、最初から選択の余地などない。
「…..かしこまりました」
「よぉし。じゃあ〜….あー、隠し刀っていうのは名前を持たないんだったな。不便だ。そうだなぁ……」
征夷大将軍サマは縛られた私の前で無防備に空を見上げる。
「あぁ、お前のことは ゆう と呼ぶことにする。いいだろ?」
「…..は、はい…..」
トントン拍子で進む会話に何とかついていけるように頷くが、征夷大将軍サマに圧倒されてしまう。
「なら、ずっと縄に繋いでおくのも変な話だ。おい、短刀」
「はっ」
征夷大将軍サマの隣に控えていた裃を着た役人が膝をついて短刀を差し出す。
征夷大将軍サマは私の背中に覆い被さるように、私の手首の縄を斬った。
「ゆう、ついて来い」
「はっ……」
征夷大将軍サマが先導する江戸城に足を踏み入れた。中には女中や役人、洋服を着た者もいる。
「こいつに着物を」
「はい。上様」
女中の一人に声をかけ、征夷大将軍サマは隣の部屋に行ってしまった。藩命を失敗した結果、征夷大将軍サマの刀になるとは。これまた不思議な話である。黒州の中には幕府を恨んでいる者も多くいた。…..その点、私を拾ったのは世代的な選別があったのかもしれない。
女中の着せた黒い着物を身にまとう。戦闘がしやすいならなんでも構わないが、町人のような格好は慣れないものだ。まぁ、姫サマの着るような重い着物じゃないだけいいだろう。
「終わったか」
こちらの返事も聞かず、征夷大将軍サマは襖を開けた。床にひれ伏す周りと違い、私は征夷大将軍サマを立って見つめることにした。だって私は刀だ。物だ。物は動かない。ひれ伏すなんて、変な話じゃないか。
「あぁ。悪くねぇな」
征夷大将軍サマはつかつかと近づいて、真剣を持っていたら間合いだろうという距離まで来て止まった。征夷大将軍サマは私と頭二つ分違うのだな。
「ゆう、俺のことはー….そうだな。慶喜と呼べ」
「…..で、ですが」
「畏まるなよ」
呼べと言われちゃあ仕方ない….。
「…..慶喜様」
「様なんていい。あんた、俺とそう年齢変わらねぇじゃねぇか。十代だろ?元服したところか?」
童顔だからいつも若く見られるが….。
「いえ….二十歳です」
「おっ!….こりゃあ悪ぃ」
「いえ……」
意外だ。謝ったりするんだな。征夷大将軍サマ….慶喜様も、人間なんだ。
「で、ゆう。今から会わせてぇやつがいるんだ。勝」
「へいへい….。ここに」
勝つと呼ばれた人物は、黒と白の西洋の帽子を被り、肩には上着。胸元で袖を縛ってある。紫の着物の下は派手な茶色と黒の着物を着ている。慶喜様より背は低いが、もちろん私よりは高かった。齢四十はいっている顔立ちだが、男前で、鼻の下と顎に髭を蓄えている。
「こいつを使っていいぜ。腕は立つし、用心棒にでもしたらどうだ?」
「あんたの用心棒にもですぜ…..」
慶喜様はカラカラと、勝さんは苦笑いをしつつも、二人の関係は悪くないようだ。
「っつーことで。勝の指示に従ってくれ。あぁ、けどな。俺のことも放っておくなよ?」
慶喜様は私の右肩に左手を置いて、私の左の耳に顔を寄せる。
「放っておかれると、寂しいだろ?」
耳に息が当たる感覚がゾワゾワする。….慶喜様は揶揄っているつもりだろうが、貴方が嫁を娶っていて良かった….。
「じゃあ勝。よろしく頼むぜ。あっと、腰のもんだが、勝は人を斬るのを好まねぇんだ」
渡されたのは打刀の木刀。…..捕まった時に押収されたとはいえ、木刀か….。心もとないが、無いよりいいだろう。
「付いて来な」
勝さんは私に背を向けて歩き出した。慶喜様に礼をするべきか否、友人のように呼ぶ仲になったのに、それは望苦しいか⋯?ずっと黒州にいたから友んなんていなくて、こういう時どうしたら良いのかわからない。いろいろと悩んだが、左手を胸辺りで小さく左右に振ってみた。慶喜様は少し驚いた顔をしたが、パッと笑って左手を顔の横で左右に振って返してくれた。
勝さんは背の高い履物⋯多分西洋の物に足を入れて外に。私も草履を身に付ける。
「お前さん、元黒州藩の隠し刀らしいな」
「あ、はい」
勝さんば少し話しただけでも分かる程、気さくだ。私には親と呼べる存在はいない
と同じくらいの子どもの父親⋯下手したら祖父くらい年齢が離れているが変に緊張しなくていい。先程、私に親はいないと言ったが、それに変わる存在が研師だ。⋯もう死んでしまったが。殺したのは幕府の役人だ。普通は殺されたら恨むものだが、研師だって何人もの人を殺めている。だから恨む必要はない⋯と言っていたのを、今思い出した。
「黒州はなぁ⋯いや、今からお前さんを確かめさせて貰おうか。こっちだ」
勝さんは布で壁を作った空間に入っていく。私も続いた。空間の隅には初やや木薙が多く立てかけられている。勝さんは木刀を一本持つと、
「手合わせ、頼むぜ」
木刀を受け止めたり、釣縄を飛ばしたり。勝さんが体制を崩したら、初で急所を狙う。勝さんは閃光弾を使って、私がひるむのを狙ってくる。何度も閃光弾を受けるが、お返しに木刀を振る。勝さんが膝を着き、私は木刀を収めた。
「⋯、悪くねぇ腕してんじゃねえか⋯」
「ありがとうございました⋯」
私も勝さんも肩で息をしている。手加減をしたらこっちがやられそうだった。勝さんは木刀を壁にかけ、私に右手を出して来た。
「シェイクハンドっつーんだ。これからよろしく頼むぜ、ゆう」
ええっと⋯同じようにしたら良いのか⋯?私も右手を差し出した。
「よろしくお願いします、勝さん⋯」
勝さんは私の右手を自分の右手で握った。手の平と平を合わせて。勝さんの手は温かく、力強いものだった。
「それじゃあよ、早速お前さんに頼みてえことがあるんだ」
歩き出した勝さんに続いて、江戸城を出る。江戸城から見た街の景色は、人の往来と建ち並ぶ木造建築、日光が反射する川⋯ 籠で運ばれた時よりも、それはそれは美しい物に見えた。
「お前さんに渡しておく。俺の家だ。俺は先に帰ってっから、町で困ってる奴に手を貸してやってくれ」
「え」
「じゃあな」
なんて指示だ⋯。何なら、知らない土地に一人にされた私が困っている奴だ。仕方ない。歩いてみよう。町を歩いていれば片割れの情報も集まるかもしれない。橋の上には店がいくつも出ていて、客を呼び込んでいる。川には木の船が浮かんでいて、身成りの良い小太りな⋯多分金持ちが酒を呑んでいる。
「ちょっと二人共、止めておくれよ⋯」
三十路程の女性の声が聞こえて来た。何の騒ぎかと次の路地を覗くと、二人の男が真剣を使って鍔迫り合いをしている。私は二人を不安そうに見つめる女性に声をかけた。周りにも野次馬が五、六人見ているが….。
「止めた方がいいか?」
「えっ⋯止められるのかい⋯?!」
私は男達の手首に小手を入れると、首裏を一回ずっ殴ってやった。真剣がガランと落ち、男達が地面に突っ伏した。
「あんた、すごく強いんだね⋯!?二人とも優我すらしてないよ」
周りの野次馬にも賞賛されるが、少し落ち着かない。
「いや⋯大したことは、ない、」
慶喜様や勝さんなら、”ありがとな”って笑って返すのかもしれないが、私は愛想のない返しをしてしまった。照れ臭くなってその場を離れる。離れた先に猫が一匹。黒猫
の前にしゃがみ、小さな頭を右手で撫でた。まだ逃げる様子は無いので、腕に乗せて抱き上げる。黒猫は私の薄い胸に頭をすり寄せたが、とたんに腕から下りて逃げて行ってしまった。誰かのの飼い猫かもしれないが、可愛いものだ。⋯なんだか、目がかゆい。
「っちゅうちっ」
嚔まで出てくる。風邪でもひいたか?体の丈夫さと剣の腕が取り得なんだが。
鼻水も出て来たし⋯⋯⋯。何なんだ急に。
「おーい、誰か来てくれ!」
次は若い男の声がする。声を掛けると、
「向こうで男が暴れてるんだ!一緒に来てくれ!」
昔に刺又を持っている。男がかけ出すので、私もそれに付いて行く。二つ曲がると、両力を持った男や槍を持った男がいる。
「引っかかったな!お前らやっちまえ!」
男たちが一勢に襲いかかってくるので、木刀で応戦する。多少の傷は受けたが、これくらいは問題ない。男たちを一掃した後、こんな奴らもいるのだと思うと、やはり地治を疑うが、まぁ、輩に引っかかったところで到せるから問題ないだろう。なんとなく道を歩いていると、幕府の役人二人とすれ違う。
「吉田松陰の処刑があったらしいぞ」
「静かな最後だったんだろ?」
「聞いた話によれば、処刑早まったらしいぜ」
「ふぅん。俺たち下っ端にはそんな話来なかったからなぁ」
吉田松陰?長州の方の指導者だっけ?倒幕を促すような指導をしていたから捕まったんだろう。処刑の指示を出したのは井伊の赤鬼こと、老中の井伊直弼だという話だ。
そろそろ勝さんのところに戻るか。….そういえば、私はどこで寝泊まりするんだろうか。勝さんはあの歳だし、嫁・子どもは当然いるだろう。私の住処も勝さんに聞かないとな….。
勝さんの渡してくれた紙には、勝さんの家の場所が書かれていた。橋を渡って、三つ目の路地を曲がって…..。
目に付いたのは、大きな屋敷。町で見た家が四つくらい経つのではないだろうか。いや、門から見ただけだから分からない。もしかしたらもっと広いかもしれない。
門を潜って、私の足を広げたくらいの白い石を渡って玄関へ。玄関は不用心にも戸が開いているのでそのまま入った。
襖も全開で、縁側の向こうには三間ほどの庭が見える。池の周りに咲いているのは露草だろう。四本の柱の上には、山状にした布がかかっている。その下には異人が一人と商売品がいくつか。何を売っているのか、この距離ではわからない。
「おう。お前さんかい」
勝さんの部屋は五間程の広さの隅にいくつもの本が積み上げられていた。布団は見当たら無いので、ここは仕事場なのかもしれない。
裸足で畳を踏むと、ヒヤリとした感覚が伝わる。
「ただいま戻りました」
「おう。江戸の様子はどうだった」
どうだった、か…..。
「建造物や人の様子は穏やかでした。しかし、路地には物盗りや虚無贈もいましたね。幕府の役人ともすれ違ったので、比較的治安は保たれていると思います」
幕府の役人がいない地方じゃあ、もっと攘夷だなんだと荒れていることだろう。
「っちゅうちっ!….失礼しました」
「おう。….そうかい。ご苦労さん。お前さんに来て貰ったのは、紹介したいやつがいるからだ。風邪気味ならちょうど良かったな」
勝さんが首を後ろにやった先には、勝さんと同じように五間の部屋。だが、本が私の膝あたりまで積まれている。部屋の天井には紐で吊るされた紙。紙は私が両手を広げたくらいの大きさだ。それと、部屋の隅の丸くて支えのついた立体の….あれはなんだろうか?
「福澤くん。診てやってくれ」
「あ、はい」
福澤と呼ばれた人物は、私と同じくらいの歳だった。黒い髪をかき上げていて前髪は落ちていない。眉の下には目尻の下がった、可愛らしい印象を受ける目。私から見て右の鼻から頬にかけて、黒子がひとつ。紺色の着物を胸の辺りで切ったのか、肺から腰にかけて胸元が開いている。首元には黄色く光るアクセサリーを身につけ、灰色の洋服と白いシャツが見えている。腰には真剣と木刀、そして男性にしては派手な小物入れ。足元は濃い紫色の袴。随分と洒落たものだ。
「あ….どうも。ゆう、といいます….」
何も挨拶しないのは失礼かと思い、名乗ってみた。
「これはご丁寧にどうも!僕は福澤諭吉といいます」
福澤諭吉と名乗る人物は、気さくで真面目な印象を受ける。垂れた目も相まってまるで犬のようだ。…..まぁ、私より頭ひとつ分背が高いわけだから、大型犬だが。
「僕は西洋医学を….おや、あなた、目が充血しているじゃあありませんか」
失礼、と前置きして、福澤さんは白い手袋のまま私の頬に触れ、下瞼を軽く引いた。
「風邪ではこうはなりません。なにか、変わったこととか、こうなった原因に心辺りは?」
福澤さんの突然の行動には驚いたが、ここで首を絞められてもその手首を下から木刀の柄頭で殴ってやるので問題ない。
「さぁ….あぁ、そういえば、猫に触れてこうなった気がします。突然、目が痒くなって、鼻水も….」
「それ以外は?」
「特に….っちゅち、….失礼、」
福澤さんに嚔がかからないよう、下を向いた。猫はもういないのに、まだこうなるか….。
「体質かもしれません。頭痛や倦怠感はないですか?」
「全く…….」
「そうでしたか….。猫に触れた手で触ると、さらに悪化するかもしれません。触れたのは手だけですか?」
思い出してみれば…..。
「い、いや…抱いた、ので……」
「では着替えた方がいい。洗ってしまえば、その症状は収まるでしょう」
なるほど。
私は着物の襟を掴んでばさりと開いた。
「?!」
晒しを巻いているし、全身は見られないだろう。
「わーっ!!いけません!」
福澤さんは着ていた紺色の着物を私の肩にかけた。
「なぜここで脱ぐんです?!」
「え、だって洗うんだろう?」
「どうぞあちらに!井戸がございます!」
「あぁ」
なんだか福澤さんの顔が赤いような…..。
あぁ、女性の身体だからと思っているのか?私はたしかに女性だが、肉付きのない、可愛げのない姿だ。それに、隠し刀なんてどこで服を脱ごうか気にしたことがなかった。見るやつだっていなかったし…。
福澤さんが必死になるので、私はもう一度着物を羽織って井戸に向かった。脱いだ着物を逆さにし、上半分に水をかける。それを何回か繰り返して、絞り、多少着れるくらいにして戻った。
「お前さん、気をつけろよ…..」
さっきのを見ていたのか、勝さんが押し入れからか新しい着物と手ぬぐいを差し出してくださった。
「すみません。ありがとうございます」
手ぬぐいで身を拭いて、新しい紺色の着物に腕を通した。ちらりと目をやると、勝さんと福澤さんが何やら顔を見合わせている。……もしかして私か?私が世間知らずだからか….?着替え終わると、勝さんは縁側の上から私を見下ろして言った。
「これがお前さんの長屋だ。ここに泊めてやりてぇが、何せ職場なもんでな」
再び渡された紙には、私の住処への行き方が書かれている。
「ありがとうございます」
「今日はこれで構わねぇよ。あぁそうだ。ここから階段を降りて右に馬小屋がある。良いのを一頭買ってきな。ほら、小遣い」
「え、いいんですか?」
「おう。余ったらやるよ」
巾着からじゃらりと音がするほど銭が入っている。勝さんには長屋から馬まで色々と貰ってばかりだ。きちんと働いて返して行かねば。
「お前の長屋に着いたら、悪ぃが鍵を開けといてくれ。もし俺が野党に追われたら、逃げ込めるようにしといてくれよ」
いやいや、貴方の腕なら野党が逃げ出すと思うが….?
「僕もお邪魔するかもしれませんので、開けておいてくださると助かります」
福澤さんも縁側の上から言ってきた。…..まぁ、貴方はわかる。身なりを見るにいい所のお坊ちゃんだが、腰に付いている刀は抜く時があるのか?医療やその他の分野の方が向いていそうだ。
「わかりました。では、失礼します」
「おう」
「それでは、また」
二人に礼をし、屋敷の門を潜って右へ。馬小屋には何頭か馬がいたが、私の瞳をじっと見つめてくれた黒い毛並みの馬を一頭買った。小遣いを貰いすぎたかもしれないと不安になりつつも、私は馬に跨って長屋へ向かった。途中の草原は赤い花がなっていたり木の枝があったり。時々笹もあるので、なにかに役立つかもと思い詰んで行った。
私の長屋は五畳の真ん中に囲炉裏があって、床の間がひとつ。日当たりのいい南には縁側と、ちょっとした植物が育てられる空間がある。草履を脱いで再び畳を踏む。にゃあん、と猫が鳴く声が聞こえて縁側から屋根を見上げると、黒猫が一匹乗っているようだ。付いてきてしまったのかもしれない。…..屋根にいる分には可愛いのでそのままにしておこう。
勝さんの渡してくれた紙には、勝さんの家の場所が書かれていた。橋を渡って、三つ目の路地を曲がって…..。
目に付いたのは、大きな屋敷。町で見た家が四つくらい経つのではないだろうか。いや、門から見ただけだから分からない。もしかしたらもっと広いかもしれない。
門を潜って、私の足を広げたくらいの白い石を渡って玄関へ。玄関は不用心にも戸が開いているのでそのまま入った。
襖も全開で、縁側の向こうには三間ほどの庭が見える。池の周りに咲いているのは露草だろう。四本の柱の上には、山状にした布がかかっている。その下には異人が一人と商売品がいくつか。何を売っているのか、この距離ではわからない。
「おう。お前さんかい」
勝さんの部屋は五間程の広さの隅にいくつもの本が積み上げられていた。布団は見当たら無いので、ここは仕事場なのかもしれない。
裸足で畳を踏むと、ヒヤリとした感覚が伝わる。
「ただいま戻りました」
「おう。江戸の様子はどうだった」
どうだった、か…..。
「建造物や人の様子は穏やかでした。しかし、路地には物盗りや虚無贈もいましたね。幕府の役人ともすれ違ったので、比較的治安は保たれていると思います」
幕府の役人がいない地方じゃあ、もっと攘夷だなんだと荒れていることだろう。
「っちゅうちっ!….失礼しました」
「おう。….そうかい。ご苦労さん。お前さんに来て貰ったのは、紹介したいやつがいるからだ。風邪気味ならちょうど良かったな」
勝さんが首を後ろにやった先には、勝さんと同じように五間の部屋。だが、本が私の膝あたりまで積まれている。部屋の天井には紐で吊るされた紙。紙は私が両手を広げたくらいの大きさだ。それと、部屋の隅の丸くて支えのついた立体の….あれはなんだろうか?
「福澤くん。診てやってくれ」
「あ、はい」
福澤と呼ばれた人物は、私と同じくらいの歳だった。黒い髪をかき上げていて前髪は落ちていない。眉の下には目尻の下がった、可愛らしい印象を受ける目。私から見て右の鼻から頬にかけて、黒子がひとつ。紺色の着物を胸の辺りで切ったのか、肺から腰にかけて胸元が開いている。首元には黄色く光るアクセサリーを身につけ、灰色の洋服と白いシャツが見えている。腰には真剣と木刀、そして男性にしては派手な小物入れ。足元は濃い紫色の袴。随分と洒落たものだ。
「あ….どうも。ゆう、といいます….」
何も挨拶しないのは失礼かと思い、名乗ってみた。
「これはご丁寧にどうも!僕は福澤諭吉といいます」
福澤諭吉と名乗る人物は、気さくで真面目な印象を受ける。垂れた目も相まってまるで犬のようだ。…..まぁ、私より頭ひとつ分背が高いわけだから、大型犬だが。
「僕は西洋医学を….おや、あなた、目が充血しているじゃあありませんか」
失礼、と前置きして、福澤さんは白い手袋のまま私の頬に触れ、下瞼を軽く引いた。
「風邪ではこうはなりません。なにか、変わったこととか、こうなった原因に心辺りは?」
福澤さんの突然の行動には驚いたが、ここで首を絞められてもその手首を下から木刀の柄頭で殴ってやるので問題ない。
「さぁ….あぁ、そういえば、猫に触れてこうなった気がします。突然、目が痒くなって、鼻水も….」
「それ以外は?」
「特に….っちゅち、….失礼、」
福澤さんに嚔がかからないよう、下を向いた。猫はもういないのに、まだこうなるか….。
「体質かもしれません。頭痛や倦怠感はないですか?」
「全く…….」
「そうでしたか….。猫に触れた手で触ると、さらに悪化するかもしれません。触れたのは手だけですか?」
思い出してみれば…..。
「い、いや…抱いた、ので……」
「では着替えた方がいい。洗ってしまえば、その症状は収まるでしょう」
なるほど。
私は着物の襟を掴んでばさりと開いた。
「?!」
晒しを巻いているし、全身は見られないだろう。
「わーっ!!いけません!」
福澤さんは着ていた紺色の着物を私の肩にかけた。
「なぜここで脱ぐんです?!」
「え、だって洗うんだろう?」
「どうぞあちらに!井戸がございます!」
「あぁ」
なんだか福澤さんの顔が赤いような…..。
あぁ、女性の身体だからと思っているのか?私はたしかに女性だが、肉付きのない、可愛げのない姿だ。それに、隠し刀なんてどこで服を脱ごうか気にしたことがなかった。見るやつだっていなかったし…。
福澤さんが必死になるので、私はもう一度着物を羽織って井戸に向かった。脱いだ着物を逆さにし、上半分に水をかける。それを何回か繰り返して、絞り、多少着れるくらいにして戻った。
「お前さん、気をつけろよ…..」
さっきのを見ていたのか、勝さんが押し入れからか新しい着物と手ぬぐいを差し出してくださった。
「すみません。ありがとうございます」
手ぬぐいで身を拭いて、新しい紺色の着物に腕を通した。ちらりと目をやると、勝さんと福澤さんが何やら顔を見合わせている。……もしかして私か?私が世間知らずだからか….?着替え終わると、勝さんは縁側の上から私を見下ろして言った。
「これがお前さんの長屋だ。ここに泊めてやりてぇが、何せ職場なもんでな」
再び渡された紙には、私の住処への行き方が書かれている。
「ありがとうございます」
「今日はこれで構わねぇよ。あぁそうだ。ここから階段を降りて右に馬小屋がある。良いのを一頭買ってきな。ほら、小遣い」
「え、いいんですか?」
「おう。余ったらやるよ」
巾着からじゃらりと音がするほど銭が入っている。勝さんには長屋から馬まで色々と貰ってばかりだ。きちんと働いて返して行かねば。
「お前の長屋に着いたら、悪ぃが鍵を開けといてくれ。もし俺が野党に追われたら、逃げ込めるようにしといてくれよ」
いやいや、貴方の腕なら野党が逃げ出すと思うが….?
「僕もお邪魔するかもしれませんので、開けておいてくださると助かります」
福澤さんも縁側の上から言ってきた。…..まぁ、貴方はわかる。身なりを見るにいい所のお坊ちゃんだが、腰に付いている刀は抜く時があるのか?医療やその他の分野の方が向いていそうだ。
「わかりました。では、失礼します」
「おう」
「それでは、また」
二人に礼をし、屋敷の門を潜って右へ。馬小屋には何頭か馬がいたが、私の瞳をじっと見つめてくれた黒い毛並みの馬を一頭買った。小遣いを貰いすぎたかもしれないと不安になりつつも、私は馬に跨って長屋へ向かった。途中の草原は赤い花がなっていたり木の枝があったり。時々笹もあるので、なにかに役立つかもと思い詰んで行った。
私の長屋は五畳の真ん中に囲炉裏があって、床の間がひとつ。日当たりのいい南には縁側と、ちょっとした植物が育てられる空間がある。草履を脱いで再び畳を踏む。にゃあん、と猫が鳴く声が聞こえて縁側から屋根を見上げると、黒猫が一匹乗っているようだ。付いてきてしまったのかもしれない。…..屋根にいる分には可愛いのでそのままにしておこう。
ゆうが屋敷から出たあと、勝は福澤に問いかけた。
「信用できねぇやつを、よくあんなまじまじと診てやるもんだな」
福澤は、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「西洋の上下のない考えに思想を抱いている者が、人を選んでどうします。貴方が私の立場であれば、彼女の様子をあのように伺うと思いますよ。そういえば、彼女の右の顬に傷がありましたね。悪化しなければいいのですが…..」
「あぁ。そういやそうだな….」
勝は顎の髭を一撫でして続けた。
「俺はこれから上様に話があるからよ。これで失礼するぜ」
「はい。それでは、また」
勝は屋敷を出て、馬に跨った。傾いた夕日と、江戸の風が勝の頬を撫でていく。江戸城に着いた勝は、まっすぐ慶喜の元へ向かった。
「おう、勝。あいつの様子はどうだった?」
「剣の腕も、人間性も問題ねぇ。弱きを助ける姿勢が、手に取るようにわかるぜ。ありゃあいい働きをしてくれそうだ」
「そうか。……俺はあいつを気に入ってるんだ。何がいいって、あの顔だな。濡れてたってわかる。遊郭にいたら、俺は間違いなく指名するね」
「あいつが遊郭にいくとしたら、人に呼ばれたか用心棒だな」
「違いねぇ。おっと、ゆうに長屋を宛がったんだろ?どこだ?」
「そう言うと思ったぜ……」
勝はゆうの長屋への道を書いた紙を慶喜にも渡した。
「夜は物騒なんでね。明け方にでも」
「おう。顔見せに行ってくる」
「奥方がまた腹を立てますぜ」
「あいつは….たしかに席は入れたが、薩摩の姫だ。上辺だけだ。それに、子を孕んだら、今の時代じゃ標的にされるだけだろ。…..俺も、考えなしじゃねぇんだぜ?」
「へいへい。失礼しました」
自由奔放に見える慶喜は、多くの事柄について考えなければならない。望まぬ婚姻をすることもある。
篤姫は気品溢れる薩摩出身の姫だが、自由奔放な慶喜を良く思っていない様子だ。現に、篤姫は江戸城ではなく、薩摩屋敷に身を寄せている。
「それじゃあ、俺は仕事があるんで戻りますわ」
「あぁ。…..気をつけて帰れよ」
「おうよ」
慶喜は桜田門で井伊直弼が討たれたことで、攘夷派の活動が活発になることを警戒しているようだ。幕府を内側から変える考えを持つ勝に反抗する攘夷派もおり、身を案じている。暗殺計画があるかもしれないと小耳に挟んだのは最近のことであったが、ゆうが暗殺を企てている可能性も捨てきれない。慶喜は沈む夕日を眺めてポツリと言った。
「美しいだけでなく、陰ることも照らすこともある….我ながら、いい名をつけたな」
慶喜はゆうの長屋の位置を書いた紙に目を落とした。
次の日、戸を叩く音で目が覚めた。
反射所に木刀を持って、戸を右手で開ける。左手の木刀を今にも抜けるという時、
「あぁ⋯なんだ慶喜様か。これは失礼ししました」
木刀を腰に収めて、おはようございます、と続ける。
「おう⋯お早う」
「慶喜様上がりますか?えっと⋯湯くらいなら出せますが⋯」
「ははは。気にすんな。今日はお前に仕事の話をしに来たんだ」
慶喜様は綺麗な草履を脱いで畳に上がる。慶喜様の生しでいる場所に比べたら祖未だろうが….。
「実はな、今月の花火に勝が行く予定らしいんだ。船酔いするっつーのに、船の上で見るんだと。だが、最近活発になっている譲夷派のやつらが、勝を暗殺するかもしねねえ。ゆうに勝の護衛をして欲しい」
「承知しました」
慶喜様は私の顔をじっを見てくる。何かまだ話すことがあるのだろうか。
「ソレ。残らないといいな」
ソレ?慶喜様の指差す先は、私の右の顬だ。自分で触れてみると皮膚の下に痛みを
感じる。昨日、江戸城で作った傷だろう。でも、傷ならいくらでもあるしな。
「…..お心遣い、痛み入ります」
慶喜は、納得していない顔で頷く。そして口を開いた。
「なぁ、篤姫は聞いたことがあるか?」
確か、慶喜様に嫁いだ藤庫の姫だ。頷くと、慶喜様は続けた。
「話し相手になりに行ってほしい。あ〜⋯猫が好きだったな。連れていくと良いかもしれん」
緑側で丸まる黒猫を見て慶喜様は思いついたように言う。しかし猫はな⋯。福澤さんの元に行けば、症状を押さえる薬を持っているかもしれない。町の薬屋に行ってみるのも良いだろう。
「分かりました。行って参ります」
昨日勝さんから貰ったお小遣いと黒い馬を連れて、勝さんの屋敷に向かう。朝方なこともあり、顔を擽る風が肌寒さを感じさせる。町に着く前から思っていたが、あの煙狼は何だろう。
もし火事なら大変なことだ。少し様子を見てこようか。何もないならそれで良い。しゃがんで草の影に隠れて進むと、煙狼の周りにいる奴らには気付かれにくい。今の無い乞食にも見える男たち。貸し、格好にわらの傘を被っているがい。
「これでたんまりだな」
「あいつらも馬鹿だ」
小屋の中で話す声が聞こえる。どうせら物盗りのようだ。生きるためかもしれないが、人の物を盗ってはいけないだろう。持ち主も困るはずだ。四つの小屋の中央にあるたき火の種狼はこれだったようだ。小屋の屋根には二人の野盗が子を持っている。
遠くから失を射られると厄介だ。音を立てず、ゆっくりと屋根に登って⋯。
「くあ….」
能気にあくびをする野盗を浸みの後うから首を締めて気絶させる。
弓を持った野盗には気付かれたが、腹を殴って気絶させた。大きな音を立てて気付かれてしまうのは困る。次は、火の周りにいる二人の野盗。一人は鉤縄を使って釣り上げ、気絶させて屋根に寝かせる。もう一人は気付かれたので木刀で。三人も同様に倒し、黒と黄色の箱を開けて中身をあさった。物は取り返したが、誰の物か分からない。とりあえず私が持っておいて、困っている本人がいたら買えそう。
馬に跨って町に向かって走る。野盗を倒すことで治悪が良くなると良いのだが。
が出て来た。もうそろそろ町人が商売の呼び込みが始まる時間だろうか。町人を馬で蹴るのは申し訳ないので、馬は町の手前に置いておいた。町を歩いていると、西洋人とすれ違う。西洋人も仕事で来ているのに殺されるなんて可家想な話だ。
「お!おまん!そこのおまんぜよ!」
左の路地から左手を上げて走って来るのは癖のある黒い髪を揺らして腰に刀を差した浪人だ。
「私に何か用か?」
「おう。写真館ちいうのは、どこにあるか分かるかえ?」
浪人はこの辺りでは聞かない訛りをしている。彼の左肩から腰にかけて、銃弾が連なったものを身につけていた。珍しいな。だが、あいにくだが私は写真館の場所を知らない⋯う〜ん⋯。
「写真館の場所は知らないが、一緒に探すことはできるぞ。あんた、この辺りの人じゃないだろう。町の者に話しを聞くなら手伝うが」
「ほんまかえ?そりゃあ助かる!」
とか言う私も昨日江戸に来たばかりだが、江戸の地理を派握するには良い期会だ。知り合いも増やせるしな。
「君はどこから来たんだ?この辺りの話し方ではないだろう?」
「わしは土佐出身なんじゃ。この日ノ本を変えたくて脱藩してきたんじゃき。土佐におったらできんことがたくさんあるきのう」
「ふうん⋯そうか」
町人に写真館の場所を聞いて周りながら、彼の事情をさぐってみた。
「私はゆうと言うんだ。最近江戸に越して来た。貴方の名前を聞いても良いか?」
「わしは坂本龍馬ちいうもんじゃ。日ノ本を変えるために江戸に来たが、仲間と反りが合わんち思いだしてのう。周りの奴らは、罪のない外国人すらも焼き討ちしよう話しよるが、わしは納得いっちょらんのじゃ。そうまでして殺さねばならんかのう」
倒募派の人間にも、意外と良い奴がいるじゃないか。確かに、今の募府のあり方は良くないだろうが、バッサバッサと人を殺せば、この世は良くなるだろうか。否私はそうそう思わない。ならばどうしたら良いのか私には分からない。幕府が正しいのか、譲夷が正しいのか。私は坂本へ思ったこと率直い伝えることにした。
「日本の在り方を考えているのか⋯坂本は私とそう変わらないだろう?その年で日本の将来を考えられるとは素晴しいな。私は、この年まで指示通り生きてきた。正しい、正しくないなんて気にせず、言われた通り剣を振るってきただけだ。坂本の考える姿を尊敬する」
「おまん….えぇやっちゃのう!おまんにそんなこと言うて貰えるがは思っちょらんかったぜよ。ゆうがどこでどう働いちょるかは知らんが、おまんの意見をもっと聞きたいのう!」
坂本は、嫌味ない顔でそう言ってくれた。
「そうか?そんなこと、はじめて言われた。ありがとう」
そこにいた町人に写真館への道をきくと、次の角を右に曲がると着くと教えてもらった。
「そうか。ありがとう」
「助かったき。ではの」
坂本と私は教えて貰った通りの道を行った。すると、行灯に”しゃしん”と書いてある店を見つけた。
「おっ!ここじゃ」
「良かったな」
「ん?いや、おまんも一緒に覗いてきい。少しくらいえいじゃろう」
坂本が私に聞かれても良いのなら良いが⋯。写真館は、土間と三畳程の畳で構成されていて、なんだか埃っぽい臭いがする。壁には布と景色の写真があった。これは高い場所から見た江戸の町だろうか。写真機は正方形の箱に布がかかり、こちらに丸いがラスが向いている。
「すまんすまん、ちょっくら聞きたいんじゃが」
坂本は人見知りとかしないのだろうか。髭もあれば、身長も周りの男性の一周り大きいというのに、なんなく話しかけ、相手もそれに答える。可愛らしく垂れた目尻が愛嬌を増しているのだろう。気さくな様子で写真機の近くにいた男性に話しかけていく。
「おう、どうした」
「その写真機、持ち運びはできるんかいの?」
「こいつかい?持ち運びは難しいと思うぜ。落として砂が入ったら壊れるし、自立させるのも大変なだ。重いし、三脚を使って支えるしかねぇんだよ」
「ほ〜。そりゃあ立派な発明品じゃきに。壊したらえらいことじゃ」
坂本は、どうやら写真機を売って貰おうとしていたようだ。銃を持っていたり、肩から右腰にベルトと呼ばれる物を身につけていたりすることから、好奇心応旺で新しい物好きなのかもしれない。意外と異国のことも悪く思っていないだろうな。
「オイ!いるんだろ!」
「出てこい飯塚!」
写真館の外がなんだか騒がしい。布の向こうから、背にカララクリを背向った男性が慌てて出てきて、
「はいはい、ただいま⋯」
と外に出て行く。飯塚と呼ばれた彼も、写真館の店員なのだろう。眼鏡もしていたし、小汚い身なりはいかにも物を作っている人間だろう。多分、写真機を発明したのが彼なのかもしれない。
「うわっ?!」
ガシャンと行灯が侄りれる音がした。油が漏れて匂いが漂う。坂本と私が面に出たのほぼぼ同じ瞬間だった。
「早く機械を作って持って来い!」
倒れた飯塚に被うように寄り添って男たちを見上げた。男二人は手に十手を持っている。身なりからして、幕府の役人だろうか。幕府の役人が、機械を手に入れるために飯塚を脅したのだろう。
男たちが去っていくのを見届け、私は飯塚に声を掛ける。坂本は行灯を通していた。
「大丈夫か?」
「あぁ⋯まだ完成していないからと言ったら、早くしろと言われてしまってね」
「そりゃあまた、災難じゃったのう。物は、作るのに時間がかかるがやろう」
「それはそうなんだけどね。僕はもう彼らに協力する気はないんだ」
「ど、どういうことじゃ?」
「幕府はね、僕に兵機を作ってほしいみたいなんだ。でも、僕は人を殺すための物なんて作りたくない。のらりくらり交わしていたがv役人を騙すのも限界なようだ。⋯そうだ!そこで君達に協力してほしい。君は中で写真機を欲しがっていたね。試作品で良ければあげよう」
「ほんまかえ?!」
坂本は嬉しそうな顔をした。
「え〜⋯君には〜……」
私か?私は特に欲しい物はないし⋯
「欲しい物ができたら教える。作ってくれ」
「承知した!それでね、僕は薬に詳しい友人に協力して貰って、役人の前で一旦毒を煽って死んでみようと思う」
「そりゃまた大胆な」
路道の右側から、見覚えのある西洋の服を着た人物が来るのを見つけた。
「おや、どうもこんにちは」
「福澤くん!今役人が来て、事情を話した彼らも芝居に協力してくれるらしいんだ」
「それは良かった。それなら飯塚さんには、薄めたフグ毒を。解毒役は貴方に渡しておきましょう。そしてちょうど良かった。貴女には、こちらを」
福澤さんは小瓶を一つずつ私たちに渡した。
「君には、猫の毛による症状を柔らげる薬です。水に溶かした方が飲みやすいでしょうから渡してしておきます」
「ありがとうございます、福澤さん」
福澤さんにも貰ってしまった。何か福澤さんのお役に立てることがあれば良いが。
「じゃあ早速行こうか!新しい薬品の実験に貢献できるなんて光栄だからね!」
飯塚さんも随分と好奇心が旺盛で。毒だとわかっていて飲んだことがある私よりも、毒だとわかっていてウキウキしながら飲む貴方の方がよっぽど….うん…出来上がっている。この後篤姫の所へ行く予定だし、私にとっても都合がいい。歩く時から福澤さんが一緒だと演技の真実味が薄れるというので、福澤さんは先に目的地に行っていることになった。
飯塚さんと坂本と一緒に向かった先は、山の中腹だった。二人の役人が、私と坂本を怪しそうに見つめる。
「やぁ。いつも悪いね。彼らは私の友人だ。それで、今日はこれを作ってみたんだ。毒薬さ。矢に塗ればたちまち敵は倒れていくだろうね。それじゃあ….」
飯塚さんは役人の前で小瓶を振ってみる。
「飲むよ」
キュポンと小瓶を開けて、中の毒を煽った。飯塚さんは膝をついて、地面にバタンと倒れ込む。
「飯塚さん!しっかりせい!」
「大丈夫ですか?!」
私と坂本の演技に、役人は慌てる。
「おい、本当に倒れたのか?!」
「福澤さんだ!呼んでこい!」
呼ばれた福澤さんは倒れた飯塚さんを診て、
「だめですね….亡くなってる」
「そうか…..」
「仕方ないな…..」
幕府の役人が立ち去ったあと、坂本が解毒薬を飲ませた。目を覚ました飯塚は咳き込みながらもピンピンしている。
「これで僕は死んだことになった。ようやく自分の好きな開発を続けられるよ。今回はご協力どうもありがとう。坂本くんは、試作品を渡すからついてきてくれ」
「楽しみぜよ。ほいじゃあ、ゆう。また縁があったら会おうぜよ」
「あぁ。またな」
福澤さんは役人が立ち去った方向へ。飯塚さんと坂本は路地を右に。私は左に。篤姫に挨拶するため、長屋に戻って黒猫を連れて行こう。帰路の途中で思ったが、坂本、坂本と呼んではいたが、どう見ても私より年上なんだよな、彼。次にもし会う機会があったら、年齢を聞いてみよう。
長屋から黒猫を連れて薩摩屋敷へ。
「何用だ」
二人の見張り役が槍を向けて来た。猫が怖がってしまうじゃないか。
「征夷大将軍様の命で、篤姫様に用がある」
「う、上様の….?!」
「通れ、」
薩摩屋敷は、勝さんの屋敷よりさらに広い庭だった。見張りがいる方向に歩いては行くが、一人では迷子になってしまうだろう。所々に、この辺りでは見られない植物が植えてあった。姫の趣味かもしれない。
建物の前の役人に同じように伝えると、篤姫に確認をとって貰えた。篤姫とは初めての対面で緊張する。猫が私の腕から降りようと身を捩るので、解放してやった。猫は畳に軽快に着地すると、私の足元についてきた。どうやら暑かったらしい。
「そちが遣いか」
「!」
座敷の奥の屏風から見えた着物は、赤を使った派手なもの。畳に着物が擦れる音を立てながら、ゆっくりゆっくりと歩み寄る篤姫。金色の飾りを髪につけ、凛とした佇まいであらせられる。こちらを射抜くような瞳と、腕には三毛猫….三毛猫?
あ、いけない。挨拶が遅れてしまった。
「ゆう、といいます」
「あの人が遣わしたからどんな者かと思へば….」
篤姫はまじまじと私を見つめる。見苦しいと言われるだろうか。
「私と同じくらいのおなごではないか!話し相手ができて嬉しいぞ!お、お主も猫を連れておるのだな?よしよし、可愛らしいのう」
……拍子抜けだ。姫といえば、もっと嫌味ったらしい、冷酷な存在だと思っていたのに。
「ずっと城にいては、同じくらいの年頃の友人が出来んのだ。あ、いや、話し相手がおらぬわけではないぞ?だが、女性は初めてだ。其方はどこ出身なのだ?」
「わ、私は黒州から参りました。今は慶…上様の刀として、勝さんの元で働いております」
「ほう。勝の。勝はのう….最近暗殺の噂が立っているから、心配じゃ。しかしまぁ、あやつの刀となれば苦労するじゃろう」
苦労?
「篤姫様は、上様をどうお思いで?」
「あやつは好かん」
ハッキリ言った…..。
「大奥にぱったり顔を見せんと思い、何をしているのかと問えば、一日賭場に行っていたとか、遊郭に行っていたとか。名義上旦那ではあるが、私は私の好きにさせてもらう。私の声は薩摩の声じゃ」
あの人が…一日賭場や遊郭に?なんか想像できないが、この方が仰るならそうなんだろう。
「なるほど…..」
「こんな世の中じゃ。自分の立場はわきまえておる。けど、異国は好きな者と婚約を交わすことができるらしい。そんな夢のような話、あるはず….」
へぇ。身分差がないのか。それは、
「それは素敵ですね」
「なっ…?!」
篤姫様は驚いたようだが、私は続けた。
「身分差別がないのでしょう?自分の好きなように学んで、自分の好きな相手と結ばれて。素敵じゃありませんか」
まぁ、私のような人殺しの刀は、その世界でも誰とも結ばれないだろうが。
「…..そうじゃのう」
「私は江戸に来て日にちが浅いので、なんとも言えませんが、篤姫様とこうしてお話ができることは大変光栄にございます」
「…..お主が、良ければじゃが」
篤姫様は手すりに手を置いて、江戸の町を見下ろした。いや、本当はどこかもっと遠くを見ていたかもしれない。
「はい」
「また、こうして話しに来て欲しい。お主とたらればの話をするのは、心地が良い」
….驚いた。
「喜んで」
「うむ。この三毛猫はサト姫というのだ。サト姫にも、また会いに来ておくれ」
「はい」
長居するのは見張りたちに怪しまれるからと今日はお暇する挨拶をしたが、少し名残惜しい。私だって、同じ年頃の女性と話す機会はそうなかった。篤姫とお話するのは、私だって楽しい。また来たい。…..もし、攘夷派が篤姫の命をも狙っているなら、私は篤姫をお守りするだろう。
そうだ。勝さんの元で働いていると言ったが、大して仕事を頂いていない。勝さんに次のお役目を頂かねば。
私は馬に跨って、薩摩屋敷のある山から勝さんの屋敷まで駆け出した。
江戸の風を切って、勝さんの屋敷へ。
馬から降りて、ありがとうの意を込めて首を撫でる。馬は嬉しそうに私に頭を擦り寄せた。勝さんの屋敷の門を潜って、部屋に向かう。相変わらず、勝さんの屋敷は埃ひとつ落ちていない。庭の植物の緑も青々としているが、綺麗に整って育っている。
「おう。お前さんか。戻ったんだな」
「はい」
戻ったんだな、か。黒州が奇襲にあって以来江戸に来たが、自分の居場所と呼べるものはなかった。戻ったことを受け入れてくださる主がいるのは、とても喜ばしいことだ。この感情に見合った働きをしなければ。
「今から出れば….ちょうどいい頃だろう」
勝さんは頭の帽子を右手で抑えて、剣を床の間から腰に刺した。
「お出かけですか」
「おうよ。花火が上がるんだ。お前さんも来るだろ?」
花火、か。そりゃあ見た事はあるが…..。いや、あれは爆発物の類だったな。今回は慶喜様からの依頼で、勝さんの護衛のために必要だ。
「はい。お供します」
勝さんは西洋の履物を履いて屋敷を出た。私も勝さんに続く。昼間はバタバタしていて気づかなかったが、もう日が傾いている。勝さんの顔にも西日が差して、橙がかった頬になっている。
「お前さんは、幕府を恨んじゃいねぇのかい?」
私はその問に驚いて、少し考えて答えた。
「…..たしかに黒州は、対幕府のために兵器を作っていました。私もその一部です。師を殺したのは幕府ですから、何も思っていないわけではありません。ですが、私は近いうちに脱藩をして浪人となり、片割れを探そうと思っていました。….なので、いつかは立ちはだかる師を斬らねばならなかった。私でなかったのは、むしろ幸いかもしれません。…..師は、私に斬られた方が良かったかもしれませんが」
「そうかい。…..いや、俺ぁずーっと考えてたんだよ。上様がお前を生かした理由を。たしかに心が広い方だが、自分の命を狙う藩の輩だぜ?いくら腕が立って顔が気に入ったからってよぉ…..」
勝さんは足を止め、私を振り返った。
「……。お前さんが純粋だからか」
「純粋?…..まさか。私は何人もの命を殺めてきました。純粋なんて言葉、私からとうにかけ離れております」
「お前さんの、心の話をしてんだ」
「………」
心の、話….?
私は刀だ。物だ。心なんて…..。
「お前さん、自分がほんとに道具だと思ってんのかよ。人生つまらねぇぜ」
人生….つまらない….。
「やっと黒州から開放されたんだ。自分の好きに生きなきゃ損ってもんだろ」
好きに、生きる…..。
「それで俺の命を狙われたら、たまったもんじゃねぇけどな。お前さん相手にはちときちぃ」
勝さんは、ははは、と笑って再び歩きだした。好きに生きる、か。好きに….。私は慶喜様や勝さん、坂本のように、日本をどうしたいとか全く決まっていない。生きている片割れを見つけて、人を殺さない世界で生きていきたいだけだ。あとは….なんだろう。….特に思いつかない。私は、少し駆け足で勝さんの横に並んだ。草履の下から、ザッザッと音がする。私は勝さんを覗き込むようにして話した。
「勝さん」
「おう」
「私は、まだ日本をどうしたいとか決まっていません」
「おうよ」
「ですが….勝さんや福澤さんにはお世話になっております。そのご恩を返したいです」
「そうかい」
「今はまだ….それしか思いつきませんが、自分のやりたいようにやってみようと思います」
「おうよ。それでいい。俺も上様も、お前さんの剣の腕に期待してら。けど、それだけじゃねぇのはわかってんだろ?例えば〜….」
勝さんの話を聞いていると、ぶんという嫌な羽音が聞こえた。
「っひ、」
慌てて勝さんの左の袖を掴んで後ずさると、蝿か何かが私の前を横切る。
「…び、びっくりした…..」
「…..なんだいお前さん。槍を持った大男にも怖気付かないっつーのに、虫がダメかよ」
「…..お、お恥ずかしながら…..」
「……っふ、あっはっはっは!!」
勝さんは顎の髭を揺らしながら、体を仰け反って大笑いした。
「剣豪の、弱点が、っは、色男じゃなく虫かよ!あっはっはっは!傑作だなこりゃあ!」
……そんなに笑わなくてもいいじゃないか。
「っは〜っ….笑った笑った。お前さんに期待してんのはそういうことだよ。人間味って奴だ」
「……..」
「おいおい、そうむくれるな。美人が台無しだぞ?まぁ俺の好みじゃあねぇがな」
勝さんは私の機嫌を取ろうとしているようだ。…..別に笑われたことに怒っちゃいない。…..恥ずかしいだけだ。
「そら、着いたぞ」
隅田川の河原には、酒を片手に持った町人や、橋の上で花火への期待の声を上げる女性がいた。人が多く、色んな声がする。川の流れる音も相まって、奇襲に持ってこいの場所になってしまっている。
「勝さん、ここはさすがに…..」
「俺だって馬鹿じゃねぇぜ?やすやすと命をやったりしねぇさ」
勝さんが歩き出した先は、川に浮かぶ船の中でも一番大きい屋形船だった。船の館部分はお偉いさん方が酔っ払って踊っても余る広さだが、さらに広いのは船の甲板で、四間以上の広さがある。畑にでもなる広さだ。
船ばかり見ていると、火薬の匂いが風に乗って漂ってきた。ひゅるひゅると力ない火の玉が天に上がったかと思へば、ばんと弾けて夜空に花が咲く。
「たーまや〜」
甲板を西洋の靴で踏んで空を見上げる勝さんはなんとも無防備だ。
「俺は花火を堪能してるからよ、お前さんは周りの警戒を頼むぜ」
言われなくてもそのつもりだ。
町の行灯は、花火のためかほとんど消してある。明るいものといえば、夜空に咲く火の花か、屋台船の灯り。あとは川沿いの宿屋の部屋から漏れる火くらいか。人の声と川の音、花火が弾ける音で耳は頼りにならん。おまけに、当たりはすっかり日が落ちて一瞬だけ咲く花火を背にする人の影が見づらい。勝さんはできるなら屋台の中に….いや、私から離れない方がいいか。そんなことを思っていると、カッとなにかが引っかかる音がした。頭上を見れば、何者かが銀に光る鉤縄を使って、舳先に侵入して来たではないか。
「下がってください!」
私は木刀をスラリと構え、勝さんを背中で庇った。花火のせいで侵入者の顔が見えない。
バンッ バンッ と弾ける音と火薬の匂い、赤色の弾を反射的に弾いたあと、銃が使われたのだとわかる。花火と水面に反射した銀色の刀。剣先が僅かに揺れているのを見ると、相手は手練だろう。刀の光の太刀筋は平青眼。北辰一刀流だろうか。
相手が甲板を蹴る音がし、影がこちらへ向かって来る。太刀筋を見て木刀で受け止めると同時に、花火がいくつも上がる。侵入者の影が薄れ、目に入ったのは見覚えのある顔。太い眉に、本人から見て右目に波打った顎までの前髪。鼻下から頬、顎にかけて、口を囲むような髭。束ねてあれど左右にふわふわと動く癖のある髪。胸に銃弾が連なった珍しい物をつけていて、本人の左肩から右腰にかけて、西洋でベルトと呼ばれる物をつけている。そして私に対して真剣を向け、鍔迫り合いをする者は…..。
「坂本?!」
「お、おまん….なんでこがなところにおるがじゃ?!」
バッと弾かれたようにお互い距離を取り、甲板を踏む音がする。
「私は勝さんの護衛だ。勝さんを暗殺しに来たのか?…..考え直してくれ」
「そうはいかん。今の日本を知っとるじゃろう?異国の言う通りなんでもほいほい引き受けてしまうがや。苦労するのは民草じゃき。民草のために、わしらは戦うんじゃ!」
放たれる拳銃の弾を何とか弾く。
「勝さんに死んで貰ったら困る….だが、私は坂本を斬りたくない!剣を収めてくれないか」
「っ…..じゃあ、どうするがよ!おまんにはわかるんかの?!日本のために何をしたらえいが!!」
面を狙おうとする剣を防いで、坂本の胴に打撃を与える。どうにか話を聞いて貰える体制をとって欲しいものだ、が、坂本は剣の腕が立つようだ。面を防いだことで手首がビリビリと痺れる。
「わからない….分からないが、坂本に殺しは似合わない!」
「おまんはわしの何を知っちゅうが?!」
「なんにも知らん!上辺だけしか知らん!だから知りたいのだ、ここでお前を斬ったらそれもできん!」
木刀と真剣の戦い。圧倒的に不利な私は、息切れをしながらも坂本の問に答える。坂本も息を切らしている。向こうも不安なのだ。この先の日本に、
「異人を斬ってどうするが?!罪もない人を殺すなんちゃあ、幕府のやっちゅうこととなんも変わらんき!そんでも….そんでもわからんがよ。何をどうしたら、日本は良くなるんじゃ?!松陰先生のような犠牲は、どうしたら無くなるんじゃ?!」
坂本の真剣を下から弾く。だが、その問いに私は….。
「…..分からない…..」
「まず、外国と貿易し、黒船を手に入れる。外国のいい所を日本に取り入れる。その後、内側から幕府を変える。民草もお前さんらも、自由に意見を言える政をする。それが日本を正しい方向に導く方法だと俺は思うがね」
甲板を優雅に歩いて自分の考えを述べるのは….
「勝さん、出てきちゃ困ります、」
忠告をすれど、勝さんは右手を顔の横で上げただけだ。黙っていろということか….。
「…..勝、海舟じゃな」
「その通り。….お前さん、随分と悩んでるようじゃねぇか。吉田松陰の名前が出たってことはあれか?お前さん、長州の奴らと一緒にいたのか。さすがに、俺も井伊のやり方には反対だよ。日本人を斬って何が日本のためだよ」
「……..」
坂本は警戒こそあれど、勝さんに向かって剣を振らない。様子見と言ったところか。
「しっかし、随分と利口なこった。馬鹿にゃあ人を斬れば良いという考えしかねぇ。それに比べたら、お前さんは立派だよ。長州のやり方も過激なんだよな。….お前さん、人殺しが嫌ならこっちに来ねぇか?こっちは外国のことも知れるし、そっちより穏やかだぜ」
勝さんは刀も抜かず、坂本に右手を差し出した。
「…..。一理、あるき」
どうやら落ち着いたらしい。
「坂本、私はまだ日本のあり方について知らない事ばかりだ。坂本の方が、日本のことを考えているかもしれん。…..だから、私に教えてくれないか。坂本が考えていることを、剣ではなく、その声で。….私も口下手だが、自分のことを沢山伝えよう」
「……おんし…..」
バラバラバラ、とまとまった花火が夜空を照らした。
「見てみろ。外国からの火薬を使ったら、あれよりもっと盛大な花火が打ち上がる。血の花火より火の花火の方が美しいってもんだ」
勝さんは空を見ているが、さらに遠くを見ているようだ。坂本も、きっと同じく。….私は、遠くを見えているだろうか…。
「ほう、じゃのう」
坂本は落ち着いたようで、刀を収めた。勝さんも花火を満喫したようで、帰りはお偉方と飲んで来るという。私は、帰る場所に困るであろう坂本を私の長屋に連れていくため帰路に着いた。花火は終わり、火薬の香りと静かな月が私たちを見下ろしている。
月に照らされた砂利道は、私と坂本の影を被っている。
「おまんは、勝さんの部下じゃったか….」
「あぁ。….本当は、会った時伝えたかったが、勝さんが狙われているという噂があったから、詳しくは言えなくてな。….騙していたつもりはないんだが…..」
「いや、えいき。….ん?おんし、その右の痣、もしかして当たってしもうたか?」
右の痣?
「ほれ、ここじゃ」
坂本は左手で私の右の顬をなぞった。痛みはないが、痕が残ってしまったか?
「あぁ….これは、坂本のせいじゃない。そもそも、今日の物でもないんだ。気にしないでくれ」
「そう、かえ?….ほいたらえいが…..」
私の肌に触れる坂本の手は、大きく温かいものだった。しかし、痣になっているのは気になる。晴れの日、川に移った自分の顔でも見てみよう。それよりも、坂本をこのまま連れ帰っていいのだろうか。坂本に、勝さんを暗殺するよう計画した者がいるはずだ。
「…..坂本、このまま帰って大丈夫なのか?」
「うん…構わんがよ。なんなら、持って帰ってくれた方がありがたいき。長州のやつじゃあ、今顔を合わせづらくてのう」
坂本がそういうならいいか。
「仲間は、長州のやつなのか。坂本の出身は土佐じゃなかったか?」
「ほうじゃけんど、脱藩したきのう。こいつがどこ出身だからとか関係なく、わしは仲ようしたいち思っとる。もちろん、おまんともな」
「そうか。坂本らしいな。….そうだ、今度紹介してくれないか?長州といえば、倒幕を謳っている有名な藩だ。彼らの話も聞いてみたい」
坂本は驚いたようで、砂利を踏む音が大きくなった。
「そりゃあ構わんが、おんし、度胸あるきのう。刀を向けられるかもしれんがよ?」
「うん….まぁ、その時はその時だ。刀の腕には自信がある」
「ほうか….うん….。おんし、刀以外に好きなことはあるんか?」
好きなことか….。生まれてこの方、剣を握って鍛錬鍛錬だったしな。相手は師や片割れだったが….他に….。
「あぁ、絵を描くのは好きだ」
「ほう」
「建物とか、人とか、生き物とか…..。待ち時間に描いていた。絵が描けると、暗殺相手を伝えるのにも役立つんだ」
「う、うぅん….。しかし、絵か。いつか見てみたいもんじゃのう」
坂本は暗殺相手、という言葉に躓いたようだが、私の趣味を肯定してくれた。
「そうか?そう言ってくれるのは嬉しいんだが….今、紙も筆も墨も硯もないんだ。だから、描けるのはもう少し後かもしれないな」
「なに?紙もないじゃと?」
そうだなぁ….坂本はこれからも長い付き合いになりそうだし。
「うん。黒州が奇襲にあって、私は役人に囚われて江戸に来たんだ。その後勝さんの部下になっているから、強請ればくれるかもしれない。….けど、いっぱいお世話になっているから、そういう物は自分で買いたいんだ」
「ほ、ほうか….もし良ければわしが買うたるがよ?」
「うーん….気持ちはありがたいが、坂本も浪人の身だろう?金はとっておいたほうがいい」
「ほうかえ?なんでも言うてえいきね?」
「ありがとう」
そんなことを話していたら、私の長屋に着いた。狐色の可愛らしい犬が出迎えてくれた。犬はどこからか着いてきてしまったらしい。私は勝手に “ こんぴら ” と呼んでいる。
「どうぞ。大した場所じゃないが、上がってくれ。茶くらいなら出せる」
「すまんのう。お邪魔するぜよ」
長屋の戸を開けて、草履を脱いで畳に上がる。気にしていなかったが、坂本は西洋の革靴を履いていたようだ。部屋の行灯の東西にひとつずつ火を灯した。そして囲炉裏にも。
「坂本、湯浴みするか?湯浴み….というか、ぬるま湯で濡らした手拭いしか出せないんだが」
「おっ!….あー….うーん…..」
なんだ。歯切れが悪いな。畳に胡座をかいた坂本は首を捻っている。
「無理したことは無いが?」
「…….わかったき。ほうじゃけんど、向こうを向いちょってくれんかえ?」
「もちろん」
私はぬるま湯が入った桶に手拭いを入れた物を坂本に渡して、私は坂本の布団を敷き出した。あ、そうだ。私も身体拭いておきたいな。
「坂本、拭き終わったら私にも寄越してくれ。慌ててない」
「ん?おん」
坂本の布団を、土間から見て囲炉裏の奥に敷く。北枕がどうとか気にしちゃいないが、東から西に向かって敷いてやった。意外と長屋は広くて、坂本の布団と囲炉裏を挟んで、もうひとつ布団が敷けるくらいだ。まぁ….私の分は今日は敷かないが。
それでも、庭の植物の匂いがするので、慶喜様は呼べないな。….なんというか、育ちが。夏場は縁側に風鈴を置いたら涼しげかもしれない。今縁側にあるのは猫用の座布団だけだしな。
「先にすまんのう」
坂本が桶を渡して来たので受け取った。
「そうだ、坂本。悪いんだが、背中を拭いてくれないか?」
「な、なんじゃと?!お、おまん、そ、それは良くないちゃ、」
「なんでだ?私の長屋じゃないか」
私は紺色の着物を脱いで胡座をかき、坂本に背中を向ける。晒しももちろん外した。肩まである結んだ髪は、邪魔にならないだろう。
「片割れがいた時はいいが、一人じゃやりにくいんだ。頼む」
「う、うぅむ…..ほ、ほいじゃ、始めるからの….?痛かったらいいとうせ?」
「あぁ」
坂本は右手に手拭いを、左手はそのまま私の背中に触れる。温かくて大きい手。なんだか、片割れを思い出す。….あいつは、今どこで何をしているんだ。
「…..おまん、ちっくとわしに気を許しすぎじゃぞ?私が後ろからズバーっとやったらどうするがよ」
「坂本はそんなことしないし、するとしたら歩いている時にしているだろう?」
「うぅん…..。ほい、終わったぜよ」
坂本の声が遠のいて、着物が畳に擦れる音がした。多分、私に気を遣っているのだろう。
「ありがとう。あぁ、坂本も背中を拭いて欲しかったら言っていいんだぞ?」
「え、あ、いや、わしは平気じゃきに!」
そうか?と返しながら着物を着て立ち上がる。
「坂本、その布団使っていいぞ」
「そりゃあありがたい….が、おまんはどこで寝るがじゃ?」
「私はこれでいい。….癖でな。落ち着くんだ」
私は土間に一番近い西の壁に背中を預け、左膝を立てて、右膝を寝かせる。木刀は足の間から壁にかけて斜めに持つ。癖というのは、もちろん嘘だ。だが、坂本に信頼を置いているように演じたい。昨日はもちろんその布団の中で寝たが、警戒している自分がいる。片割れと研師以外でこんなにも近くで眠るなんてことしてこなかった。
「ほうかえ?ほいたら….おやすみ」
坂本は素直に布団に身体を横たわらせた。坂本のいい所は、柔軟で素直なところだ。
「あぁ、おやすみ」
東西の行灯の火を消して、部屋が月の明かりのみで照らされる。長かった夜が終われば、直に朝が来る。
次の日。日光の明るさで目が覚めた。坂本はまだ眠っている。昨日、坂本は私に気を許しすぎだと言ったが、人のことを言えないと思う。坂本だって、床の間の坂本の刀を奪って刺すかもしれないとか考えないのだろうか。⋯まぁいい。水瓶の水を桶に出して顔を洗う。今日は、勝さんに坂本を部下にしてもらうよう伝えて、坂本の長州の友人とやらにも会ってみたい。
「ん⋯んん⋯、」
坂本は日光をさけるように寝返りをうった。そろそろ起きてほしいんだが。黒猫が縁側から登ってきて、坂本の顔に額を寄せる。
「わかった⋯うん…..」
坂本は寝呆けながら身を起こした。黒猫
は縁側の座布団へ丸まる。どうやら私の変わりに坂本を起こしてくれたらしい。
「⋯お乱早いのう⋯」
目を擦りながら土間に降りて来た坂本の、肋まで伸びた髪は無造作に広がっている。白色の肌着は乱れていて、胸元の筋肉と毛が見えている。毛がある男を嫌う女衆もいると噂で聞くが、片割れのこともあり、
私は毛があった方が好きだ。男らしいと思う。
「ああ。お早う」
「お早う⋯」
水を張った桶を差し出すと、坂本は犬のように顔を洗った。
「勝さんに会って、部下にして貰うよう紹介したいんだが、良いか?」
「あぁ構わんがよ」
驚いた。意外にもあっさりしている。
「勝さんの考え方に、わしも賛成じゃ。今すぐにでも行こう」
その格好では困るな。
「そうか良かった。じゃあ着替えてくれ」
「おぉ!そうじゃった」
坂本は思い立ったらすぐ行動する派らしい。あぁ、そうだ。坂本に聞きたいことがあったんだ。
「坂本はいくつだ?」
「二十四ぜよ」
身仕度を整えながら、坂本は答えてくれた。
「二十四?私と四つしか違わないのか」
体を拭く時向こうを向いていてくれと言わ
れたので、私は坂本に背を向けて土間の方
見て言った。
「そいじゃおまんは二十か。随分可愛らしいのう」
年相応に見られないことはよくある。
「童顔なもんでな」
「待たせたの。終わったき」
振り返って見た坂本はすっかり昨日の着物姿だった。
「ん。それじゃあ行くか」
長屋の前にいた馬にまたがり、坂本に後ろに乗るよう促す。坂本の体温が背中に伝わる。手綱を握る手は、大きくも骨張っていて男らしい。太陽の方向に馬を進めて、勝さんの屋敷へ。馬の蹄の音と風を切る音がする。屋敷の前に馬を止め、ひらりと降りる。朝方だから、もしかしたら勝さんがいないかもしれないという不安があるが、その時は中で待たせてもらおう。
「お早うございます」
門を潜って建物に入ると、勝さんは胡座をかいて読んでいた書物から顔を上げる。
「おう。お前さんかい。っと、昨日の」
西洋の履き物を片足で立ったまま脱ぐ坂本に目を向けた勝さん。
「昨日は申し訳なかったですき。勝さん、わしを弟子にしてつかあさい!」
坂本は勝さんよりも頭ひとつ分背が高かったが、頭を下げて礼儀正しくしてしていた。昨日の今日だ。勝さん簡単に納得はしないだろう。
「あぁ、ええよ」
良いんですか?!⋯この二人のあっさりした感じは似た物があるな⋯。
「ほんとですか?」
「おう。仲良くやって行こうぜ。そいで、早速頼みたいのは、人集めだ。今の幕府にゃあ金も人も資材も足りてねぇ。手ェ貸してくれそうなやつを書いといたから、俺に協力してくれねぇか声掛けてくれ」
「わかりました」
「そいで、お前さんだ」
勝さんは坂本に紙を渡したあと、私を見た。
「薩摩の姫さんと交流があったのは知っ
てる。長州の奴らにも、意見が言えるようになっといちゃくれねえかい」
元よりそのつもりだが、勝さんが直接行くと暗殺されかねないしな。
「はい。坂本を連れて行っても良いですか?」
「ああ。俺はここにいるからよ、何かあったら声掛けてくれ」
「はい。失礼します。行こう、坂本」
「おん。ほいたら」
「ああ」
勝さんの屋敷を出て、坂本に尋ねる。
「長州の方々は、今どこに居るんだ?」
「おん。昨日の奇襲を計画しとった時は、そのまま長州藩邸に行ったら周りにバレるき、遊郭に集合ち話になっちょった」
遊郭か。遊郭は色んな情報が飛び交うから潜入としてもってこいな場所ではあったが、正面から行くのは気持ち的に躊躇うな。女性を恋愛的な目で見る予定もないし….いや、しかしそこに彼らがいるのなら仕方がない。
「行くか….遊郭」
町を歩いてしばらく。町人たちが出て来て商売を始め、町がにぎわいだした。
「お二人さん、見ていかないかい?」
声を掛けてきたのは反物の店の女性店主。店の中には綺麗な色の反物が並んでいる。
「私は服装にこだわりがないから、坂本。恋人に合う物でも見ていけば良い。質が良さそうだ」
布の質など知らん。店主の機嫌を取るために適当に言った。坂本が買う時値引きしてくれるかもしれない。
「こ、恋人なんちゃおらんき、おんしはええのかえ?似合いそうじゃぞ?」
坂本が私に差し出したのは.
鶯色の着物。私は縁が似合うのだろろうか。
「私は勝さんに着物を貰っ….」
いや違う。あの着物は返されば。次お会いした時に洗って干した紺色の着物を渡そう。
「私は大丈夫だ。ではな、店主」
「またのお越しを」
店主は人当たりが良い笑みを浮かべていた。再び遊郭に向けて砂利道を歩く。目の前の前の橋の欄干には寿司屋やうなぎ屋などの食べ物の店があり、様々な食材の香りが漂う。
「あぁ、そうだ坂本。お前朝食まだだったろう?良ければれば見て来ていいぞ」
「お、そうじゃな。おんしはもう う
済ませたんかえ?」
「いや⋯あー⋯うん」
私は食事を兵糧で済ませているし、そう腹も空かんのだ。
「ほうか。ほいたらいたら〜⋯」
坂本は食べ物屋を興味深く見つめている。
「いらっしゃい。あんた、面白い服着てるじゃないか」
「これかこえいじゃろう。西洋の物を取り入れたんじゃ。この靴もな、ブーツ
うがよ」
ほう。それはブーツと言うのか。店主と
楽しそうに話す坂本の親しみやすさにはは恐れ入る。
「そうなのかい。おっ、そっちは妹かい?」
「いや、こいつは親友じゃ」
何?私はいつ坂本の親友になった?!⋯坂本は知り合い・友人・親友の間の壁が随分と薄いらしい。
「そうかい。お前さんもどうでい?寿司は嫌いか?絶品だぜ?」
坂本は、ほいじゃ穴子と鮪をひとつずつ、と私と店主に割って入った。
「まいど」
店主は丁寧な手際で寿司をとり、笹の葉に乗せて坂本に渡した。坂本は銭を渡す。橋を渡る間に、坂本は寿司をたいらげる。
「良いのか?少ないんじゃないか?」
「おん。桂さんたちは遊郭で飯を食べとろう。すぐに朝食にありつけるき。心配いらん」
坂本は嬉しそうに言う。得な性格だ。愛嬌がどこでも通じるとは思っていないだろうが、色んなところで可愛がられることだろう。…..坂本には、刀を握って欲しくない。片割れとは刀を分けたが、坂本には渡したくない。….似合わないのだ。お前に。ふと目に入った赤い壁。遊郭を取り囲む物だろう。
「こっちじゃ」
坂本は迷わず遊郭の入口を目指した。すれ違う町人は、なんだか金持ちに見える。遊郭から聞こえる女性の声が耳に入った。縁側の柵から我々を見る女性たち。柵の前の男たちは女性を見定めるような目をしている。坂本に案内されて遊郭に入る。遊郭はの床は木でできており、私の足の裏を冷やす。女性たちの高い声や男たちの笑い声、そして香や化粧品の匂いが鼻を突いた。
階段を上がって奥へ。坂本の後ろに続いて私も階段を登る。
「はっはっは〜!飲んでるかい、君たちぃ?!」
奥の部屋から聞こえるのは、楽しそうな男の声と三味線の音。こんな昼間から飲んでいるのはろくでもないやつだろう。しかし、坂本はその声のする方へと歩いていく。おいおいおい、長州の友人はそんなにろくでもない奴らなのか?!
「みんな、すまんのう」
坂本は私の数歩先を行き部屋に入った。
開いていた襖の奥には、お禅に乗った料理が三つ。芸者が三人。そして男性が三人。部屋の広さは七間ほど。もし斬り合いになっても十分立ち回れる広さだ。部屋の隅には座布団や布団、屏風があり、営みに来た様子では無い。食べ物と酒の匂い、布が擦れる音と、三味線の音。何より、緑の着物を着て真っ赤な顔で踊っている….まぁ、着物は腰まで落ちているから半裸なのだが、その男性に坂本は話しかけた。
「桂さん、謝らんといかんことがあるきに、」
「坂本くぅん?どういうつもりだぃい?」
あれが桂、らしい。
「約束を破ったことはすまんかった!けんど、勝さんは斬っちゃあいかん!この国におる人間に、斬って良い人間なんちゃあおらんのじゃ」
「ふぅ〜ん….」
べろべろになった桂と目が合う。
「なんだい?君はぁ」
桂さんは坂本の左肩に左手を乗せ、少し力を入れる。そして坂本を退けると、私に千鳥足で向かって来た。
「私はゆうという。勝さんの護衛をしている。長州の皆さんの話を聞きたくて参った」
「話ぃ?」
廊下から襖の敷居を跨いで部屋に入ると、桂さんが右手を襖に着いて、私を覗き込むように見てくる。桂さんは私と頭一つ分以上背が高く、身体付きも剣術をする筋肉がある。
「なんの話をしに来たのかなぁ、幕府の子が….いいよ?庭に出なさい….話を、してあげようね…..!」
桂さんは私の右腕に左腕を回して逃げられないようにした。
「ちょ、桂さん、」
「止めてやるな坂本」
三味線を持っていない三人目の男性が、胡座をかいたまま坂本に話しかける。彼は長い前髪を左右に流し、ふわふわとした髪が輪郭をなぞっていた。整った顔立ちだが、だから尚更気が強く見える。首に二巻した紐はお洒落だろうか。行灯の火に照らされて、橙色にキラリと光る。
「こうなるとわかっていて連れて来たんだろう」
「そうだぜ、坂本さん。あんたの剣を捌いたんだ。腕は立つんだろう?死にはしないさ」
三味線を持った男性は、髪を短くしている。坂本やお洒落をした男性のように髪をひとつで束ねていない。桂さんは短髪の上に髷があったし、桂さんの短髪よりは長く、サラサラしている。もっと二人を観察していたかったが、桂さんに連れて行かれちゃあ仕方ない。
遊郭の中庭に着くと、頬を切るような、だがどこか生暖かい風がどこからか吹き付ける。風に乗って鼻をかすめる。…..多分、この人だいぶ酒飲んだんだろうな。
「さて….はじめようじゃないかぁ….!」
私が木刀を構えると、ザッと砂を蹴る音がして、桂さんが左から右へ、右から左へと真剣を振る。酔っ払っているから、と安心はできない。受け流す度に次の太刀はどこからかと推測しながら戦う。ガッ ガン と真剣と木刀が交わる音が響く。受け流した時、桂さんが体制を崩すことがあった。急所に木刀を叩き込むが、コロンと寝返って交わされることもあった。
「なかなか….うぃ…やるじゃないか….」
真剣を受け流すと、右足の蹴りが飛んで来た。咄嗟に右手で当たらないように弾くと、右腕をパシリと握まれた。
「!、、しまっ、」
気付いた時には遅かった。足がふわりと浮いて、地面が近づく。ズダンと背中
が地面に打ちつけられる。
「どうしたぁ!隙だらけだぞぉ⋯?」
投げられた⋯。体制を整えて桂さんを見る。ゆらゆらと動いていて、本気じゃないことは分かっている。それでも強い。剣りの腕もそうだが、蹴りも背負い投げもそうだが、技が多い。野盗から奪った弓を使っても良いが、怪我をさせてしまうだろう。どうにか動きを止めて、大人しくしたい物だ。鈞縄を使って隙を作って急所を狙うか⋯。
「おっろろろ、」
桂さんは急に吐きだした。⋯酒癖が悪いんだろう。可哀想に。嘔吐した桂さんの顔色は赤いのか青いのか分らない。体調が悪いなら寝た方が良いんじゃ⋯。桂さんは攻めの姿勢を崩さない。右に左に振られる真剣
を受け流し、なんとか背骨に 柄頭を振り降ろす。ゴッと鈍い音。
「うっ!」
桂さんは膝を着いて真剣の先を土に刺した。桂さんは立ち上がるも、よろけて背中を桜の木にぶつけ、ズルズルと下がって、そして地面に尻を着いた。近づくと、座ったまま霞の構えをする。目は虚ろだがしっかりと私を捉えている。私は” まだやるか “ と木刀を構える。時間がどれくらい続いただろうか。私の鼓動が何度高鳴ったろう。風や客と芸妓の声よりも、桂さんの呼吸よりも、心臓の音の方がはるかに五月縄い。今まで何人も人を殺めてきたが、強者を相手に生かしたままにするというのはかなり難しいことなのだと実感する。しかも、坂本とは違い、倒幕を考える指導者、そして初めての顔合わせだ。桂さんは私を見つめ、そして、目を閉じた。
「幕府の回し者だというのが惜しいな⋯」
右腕の力が抜けて、桜の木の根元に真
剣がガランと落ちた。私は安堵し、木刀を収めた。
「話を聞きたいだけだ。⋯が、明日にしよう。立てますか?」
膝を着い近づくと、
「ぐぅ….ん…ぐぅ…..」
桂さんは寝てしまった。なんだか気が抜ける。
「あぁ⋯」
緊張感のある戦いからか、ため息が漏れる。
「大丈夫かえ?!」
木の床を強く踏む音がして、坂本が様子を見に来たらしい。
「あぁ。だが….眠ってしまっての運ぶことも難しい。来てくれて助かった」
「ほりゃあよかったが⋯、」
坂本は桂さんの頬をぺしぺしと叩いて、
「ほら桂さん。起きい。帰るぜよ」
「う、うぅん….?坂本くぅん?やぁやぁ….ちょっと野暮用でね…..」
目が覚めた桂さんは千鳥足のまま、坂本の肩を借りて建物の中へ戻って行った。