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電話が鳴っていて、朝の光が瞼に当たって透けるような感覚もわかる。
目を閉じたままばんばんとベッドの上を叩き、受話器に当たって外れた。
「姉貴!大変ですーーこ、今夜マトリが強制捜査に店にーー」
「お前」名前はシーツの中から顔を出した。「は…」「わたしが夜職のアフターで70近いおやじの精液浴びて朝の5時に帰宅してんの…わかって今電話してきてんのか……」
殺すぞ。
その声に下っぱは縮みあがる。「す、すみませ…でっ、でもボスが名前にすぐに知らせろと……!」
「5分に1度勃起してるようなやつの言うことを聞くようじゃ」名前はシーツをばさりとはいだ。
「お前はてっぺんの器じゃねぇな、今夜は出勤するーーママはなんて?」
寝不足で頭痛がする。眉間の皺を押さえて、名前は裸のまま冷蔵庫へ向かう。
「それがーーママも同じことを…!」
名前はミルクを注ぐ手を止めた。
「あっ、あん、あっ…」
室内に女性の声と、肉がぶつかるセックスの音がする。
ドアの前に立つ2人はたまに咳払いして、そわそわとしていた。
目の前のエレベーターが到着した音がして、用心棒の二人はぎくっとする。
見たこのないほどの碧の髪ーー瞳ーー出勤前なのか、きれいなカールを描き、大きく開いた胸元のドレスからは、豊かなそれが零れ落ちんばかり。2人は人知れず顔を少し赤くする。股間にも響いた。
「姉貴」ひとりがドアの前に立つと、名前は顎をくいっと外に向けた。素直にひとりが退く。
「今ボスは、その…」
「死にたくなければどけ」
向けられた銃口に、「ボスーー!」ドアが蹴られたのは同時だった。
デスクには足を開いた女と、尻を出した男…
「あん…?なんだってーー名前!」
「野暮用中に悪いわね」
「よせ!」男はナニをしまいながら、周りの男たちに言う。「名前に銃を向けるな!早く!」
「ですがボスーー」
「いいわよ、そのままで」
きゃー!という女の悲鳴が響き渡る間中、銃声は鳴り止まない。
「お、お前…」ずるっ、とベルトを締めていないズボンがずり落ちると、最後の薬莢が転がった音がした。
まわりを囲んでいた男たちが全員床に転がると、名前は銃口を用心棒に向けた。
2人は手を上げる。「あ、姉貴…」パン、と容赦なく名前は発砲する。壁に一筋、赤が引かれて落ちていく。
「姉貴!!これはいったいーー」
「気安くわたしを呼ぶな」名前は地鳴りのような声を出した。ごくり、という唾を飲む音が誰からも聞こえそうな静寂が訪れる。
「サツの犬はそいつと、お前だろ?」
背筋に氷が走るような声だった。
「な、なにを根拠にーー!ボス!なんとか言って止めてくださいーー!」
「名前、どういうことだ!」
「あんたもただの棒じゃなけりゃ、早く気づいてもよかったんじゃないの」
この2人だけ、警官を殺してない。
「そんなのはーー」
「たまたまじゃない!」名前はグリップを握り直す。
「用心棒ってのはね、昔からどんな映画でも決まってるのよーー腕利き、ってね…だからいいわね。真っ先になにかたれば」肩越しにこの組のトップを見る。「ボスを連れてトンズラしても、なんの不思議もないから」
「だ、だからといってそれだけじゃーー!やめてくれーー」
また乾いた音がして、男は床に転がった。
ずるっ、といやな音がして消える。
カチカチと女の奥歯が鳴る音がした。名前は振り向く。びくっとしたボスに、名前は銃口を向けた。
「今夜のマトリの捜査、誰から聞いた?」
「あ、あいつらだ。たしかにあいつらから聞いたーー」用心棒を指差す。「信用する相手は選んだ方がいいわ」
店に出勤するな、となると…名前はふと震える女を見下す。
「店をダシに使うつもりか」
「は…」
「わからないの!」名前はきん、とした声を出してみせる。「店に恐らく、取引した大量の麻薬を集めさせたわ。一気に摘発するつもりよ」
女の腕を名前は掴み、引きずる。「きゃあ!何するつもりよーー」「来い!死にてえのか、今!」
女は黙って、ただ泣くだけだった。
店にこのままマトリが突っ込めば…ママがーー…
そこまで考えて、入り口で口から血を流すスーツの男の胸元を掴み上げる。
「聞いてるんでしょ。サツの野郎。どっかに盗聴器、必ずあるわよね」ずるずると引きずり、名前はデスクの後ろにある窓を開け、女の首を掴む。
「や、やめて!おねがーーたすけて!誰かぁ!!」
「あんたたちの潜入捜査で、一般人が死ぬ」
名前はなんのためらいもなく、手を離した。悲鳴はやがて遠ざかり、ぐしゃっ、という音がする。ボスが腰を抜かす。
「いいかサツーーよく聞けよ…」
開店と同時に迎え打ってやる。首をよく洗っとけーー
ぶつっと耳障りな音と共に、女の声はしなくなり、捜査本部はざわめくこともなく、しん。と静まり返った。
目の前には見えない映像と、雑音がしていたが、それもやがて消えた。
「なんて女なの…」佐藤が掠れるような声を出す。「佐藤刑事…」高木にはわかっていた。
怒りで震えている。握りしめた拳が、行き場に困っていると。
「あの女についての報告は?」白鳥刑事が立ち上がった。「受けています!」他の刑事がパソコンを叩く。
画面が出た。
「名字名前、20歳!イギリス、マンチェスター生まれ、アメリカの永住権取得後、日本へ!両親はおらず、天涯孤独で現在はアメリカと日本の二重国籍ーー特に犯罪歴はありません!真下組のボスの女のひとりということくらいしか…」
ぱっ、と画面が亡くなった刑事がつけていた盗撮器に切り替わる。
「不思議な髪と目の色…1度見たら忘れられないわーー」
「からだもね」白鳥が呟くと、高木は顔をさっと赤くしたが、暗くてよかったと思う。
「彼女はルーツに東欧、北欧、北米、日本もあるようで、とにかく混血の血のようです。でなければ、見た目はあのようになりません。だからこそアメリカに移住したのだと。移民の国ですからね、不自然には見えません」
「見た目以外に何かないのかね?」目暮が声を上げる。「まるで手際がプロだぞ…」
ようやくここで室内はざわめきだした。
「組が殺し屋を雇うのはよくある手口だが、潜入した捜査官たちだって優秀だったはずだろう?気づかないなんてあるのか?それに関しては…」
「本日の摘発は中止してくださいーー」佐藤刑事が立ち上がる。
「いや、でも…亡くなった捜査官たちが店の地下に大量の麻薬を隠したとの連絡なんだ。それを…無駄にするわけにはいかんだろう…」「警部!」「佐藤刑事」白鳥が首を振る。
「例えもう…処分されて何もなくてもな…」
「あるわ」佐藤のきっぱりした言い方に、皆が目を丸くする。
「そ、そんなわけないですよ!」ようやくここで高木は口を出した。「警察が来るとわかっていて、組がねじろにしている捜索範囲なんて限られるーーあの彼女も、隠し場所くらいわかっているはずでしょう!」
「わかるの」佐藤刑事は同じ声音で、画面に写る女を見ていた。
受けて立つわーー美人さん……でも、首を洗うのはあなたのほうーー
目が眩むような装飾とともに、花屋が出ていった。今夜は胡蝶蘭か。
「ママ」
「あらあ【はに】ちゃん」ママは胡蝶蘭の裏から子供みたいに笑う。
「きれいなお花よねぇ、でも胡蝶蘭て育てるの難しくて」うーん。と口をとがらせるので、名前は微笑んだ。
「いつも枯らしていますもんね」
「やーだっ。はにちゃんまでそうやってわたしをいじめる!あら、あなた」
名前は後ろに下がった。誰が見てもわかる冷や汗をかいている。
「やだ、あなた。真っ青よ。どうしたのよ?」ハンカチを着物から取り出し、拭う。
当たり前だ。あんなことがあったばかりで。それにしてもーー、ときっとボスを睨み付ける。
「あ、あぁ。ちょっとな。風邪気味なんだ…」
ちら、と名前を見るので名前は首を小さく振った。
例えあのバカ野郎でもーーママには愛する夫なのだから。
「あらいやだ。誰かー?薬持ってないー?」
「お前」ボスがママの手を握る。「どうしたの?」ママはいつもの茶目っ気たっぷりな笑みを見せた。そして少し、嬉しそうに。
「こ、今夜はお前にそばにいてほしいんだ…具合も悪いし…」
「いけまへん」ママの声音が変わる。
「聞きました。今夜マトリの捜査が入ると。はにちゃん、あんさんも知ってはるのやろ?」
名前は目をそらす。彼女がやることはだいたいわかる。
「店に来ない女の子が多いさかい。そりゃそうやわ」
誰も死にとうない。
ママはふっと笑い、ボスの頬に手をやる。
「でもわたしはーーわたしは…あんさんの妻どす。夫のケツは、わたしだって拭くさかい…」
「違うんだーーお前ーー」
「わたしは店のママどす」ママはふんとして見せた。
「ここが、わたしの居場所でなければ、他の女の子を迎えられないんや、そうやろ?」
名前を見て笑う。
あんさん、美人やな。うちで働かんか?お給料、弾みまっせ、ふふっ…
「ボス…そろそろ……」取り巻きがぼそりと告げる。
「お前ーー…」
「さぁ、開店どすえ」ママは振り向いて扇子を広げた。
「どんなお客様も、お客様やで!忘れたらあかんさかい!いいかい!」
はぁーい、となにも知らない女子たちが間延びした返事をする。
「はにちゃん、おおきに」
「えっ?」
「とぼけてもあかんで」ふふっ、とママは肩をすくめた。「あの人が来れば、わたしが行くとおもたんやろ?でもな、うちの店にブツを隠したということはやで」
わかるやろ?てママは目を細めたそれが、名前には悲しそうに見えた。
切り捨てようとした…ということだ。
「くそっ…!」
「あきまへん」ママは扇子で口元を覆った。「そんな汚い言葉遣いは、歴史ある京都の女は使いまへん」
「…今だけよ…ママ…許して」
ママは笑った。いつも笑みだったが、裏に、悲しみを隠しているのはわかる。
どうしようもない男を愛した責任を、自分で取ろうとしているのだと。
ぞろぞろと女子たちが集まってきた。胡蝶蘭の下も、大量の花束のように。
からん、と店のベルが鳴ると、武装した警官が入ってきて、膝をついてこちらに銃口を向けた。静かだった。
「捜索礼状です」
裁判所の印が押されている。名前はため息をついた。ぞろぞろと入ってくる警官は、全員拳銃を携帯しているか、向けている。
「押さないで」ざわめきだした女子に名前は言った。
ママはすっと歩いていく。「ママーー危ないから…」「動かないで!」女性の刑事が言う。女たちはしばらく睨み合った。
「えぇ。ここの家主はわたしどす。好きなだけ、どうぞ」
「麻薬取締局だーー!」「動かないで!部屋のすべてを押収するーー」「あなたたちはソファに座ってーー!」
ソファに座ってどれくらい経ったか、ひとりの女が言った。「ねぇ、トイレ」「あ、あたしも」「わたしも行きたい」
「仕方ない。佐藤くん、高木くんと連れていってく」
「警部。わたしはここに残ります。白鳥くん、お願い」
ぞろぞろと女たちがいなくなると、名前はママ越しにドアを見た。ドアにはひとりずつしか警官がいない…
すると視線を感じて、目だけ向ければ、あの睨み合った女性刑事が立っている。
目をつけられた。まぁいい…時計を見た。
「いい時計ね」言われ、名前は刑事を睨みつけたが、ひくりと笑みを見せた。
刑事は微妙な顔をする。
「警部!」
刑事たちは耳打ちした。「なに?なにもないだと?ちゃんと探したのか?」「はい…やはり……」と視線が名前に集まる。
「うぇぇっーー」
ママが倒れたボーイを見て悲鳴をあげた。泡を吹いて倒れ、びくびくと陸にあがった魚のように痙攣しだした。
「まずいーー昏睡してる…!」
「救急車をーー」「ぐあっ」「おぇえっ…」バタバタと倒れていくボーイ。
「いったいなにが…」
混乱する店内で、バァン、とわかりやすい爆発音がした。
「なんだねいったい!?」
「警部!!」刑事が飛んできた。「原因不明の爆発事故で、道が大渋滞ーー救急車が通れません!」
「なんだって!?」
「今すぐ病院に連れて行かないとーー」
名前は立ち上がる。誰も銃口を向ける余裕はないようだとわかり、笑いをこらえられない。
「潜入捜査官を殉職させたあげく、こんなに人を殺すの。どっちがヤクザかわからないわね」
「あなた…まさか……」女の刑事はそこで口ごもった。名前はどっしりとソファへ腰を降ろす。
「うちのやつらを使えば?車も。裏口からなら車、通れる道出られるかもよ?警察の車と、うちの車とうちの動けるやつら。使ってこいつら、運び出せば?っていうか…」
それしか人名を救う手はないんだけどね…
「よし…」
「警部!そんなことしたら…」「捕まえられる幹部も逃げられてしまいます!」「だが実際、ひっくり返っている人間をみすみす…」
「殺すわけにいかないよね。サツが人名より麻薬取締優先したなんて、ねぇ」
名前はにたりとした。「は、はにちゃん…あんさん…」
「い、急げ!急いで運び出して病院へ行くんだ!」
「は、はい!」
「女性陣はこちらへ!押さないで!」
店内は騒然としていて、ママを引っ張り出すのは簡単だった。
「はにちゃん、まさか…あんさんが?」
「なんのことですか」名前は非常口を閉める。雨が降っていた。
「ママ、今のうちに逃げて。もう2度とここへは戻らないで、いえ。戻れないわ」
「はにちゃん!」ママはがしっと名前の肩をつかんだ。「あんさんがやったのやろ!?なんやようわからんけどーーわたしを逃がすために……!」
ふらぁ、と口の端に白いものがある男がこっちに向かっているのは気づいていた。
「ママ、話はあとよーー今は…」
ガチッ、と向けられた銃口に「危ないママーー!」押し退けようとした一瞬で、名前はママに抱き締められていた。
「は、はにちゃん…」
男はふらふらと笑って壁を伝っていく。急に力の抜けたママの背中をさわると、ぬるりと手が赤く染まった。
「ママぁぁあーー!」
名前は叫ぶ。ただ叫ぶ。あの日と同じように。ただそれだけだ。
だがすぐに走り出して、気づいたときには胸元から取り出した剃刀で男の頸動脈を切っていた。
落ちていた拳銃で、球がなくなるまで。男を撃ち抜いた。
雨が降る。血の雨と涙の。
倒れているママのまわりが、赤くなっていく。
わかっていた。この出血では間に合わないと。
「ママ、ママーーしっかりしてーー今、いますぐ病院に連れていってあげるから…」
レディ。大丈夫よ、お母さんがついてるからね……ほら…
「ママーー!レディがついてるから!マ…」
「は、はにちゃん…あんた…レディって言うんやな…」
名前ははっとする。だが視界は雨と涙でぐちゃぐちゃだ。
「あ…いいのそんなこと…!しゃべらないで!しゃべったら殺すわ!」
胸元で力なくママが笑う。「これ…汚い言葉遣いは…あかんて言うたやろーー」
「ママ…?」
ああーーいやだ、いやだいやだいやだいやだーー「ママ…返事して…」雨の音しか、いくら待っても聞こえない。
「なんで…なんでだよぉぉおおおお」
「動くなーー!」
刑事が2人出て来たが、後ろの男と、泣き叫ぶ名前を見て状況を理解する。
「高木くん」
「は、はいっ」男がこちらに向かってくる。名前はもう、決めていた。
「さあ、きみ…」高木は女の腕をあげた。瞬間、目の前に拳がやってきて激痛とともに、「女…こちらへ来い」うずくまるとぼたぼたと血が垂れる。おそらく鼻が折れた。そして、拳銃が自分のこめかみにあるーー。
「高木くん!」
「高木刑事!」「高木!!」
「こちらへ来い!!女ァア!」
まるで突風に吹かれたように全員が後ろに下がってバランスをとった。なんだ?声に圧倒された?
佐藤は立ち上がる。「よせ佐藤くん!」「あの女、なにか特別な訓練を受けていますーー!」「関係ないわ!わたしが人質になるわ、高木くんを離してーー」
「わたしに命令するなぁぁあ!!」
キン!と佐藤のこめかみを銃弾が掠め、高木の肩を銃弾が通る。
「うあぁぁぁあ!」
「高木!!」「よしてくれ!言われた通りにする!!」
「さ、佐藤くん」気を付けろ、必ず救出に向かう…という耳打ちと共に、彼女は高木を足で蹴りあげた。転がってくる高木に、すかさず白鳥が駆け寄る。
手を伸ばす名前。その手をとる佐藤…。
「利き手はどちらだ?」
「え?」
一瞬で捻りあげられ、佐藤は悲鳴をあげた。「佐藤刑事!」「日本のサツは有能と聞いたがな…利き手で握手するバカがあるか」からんからん、と拳銃が落ちる。
佐藤にはわかった。拳銃ではなく、刃物が首に当てられたのを。
拳銃は当てられ方と場所によっては撃てなくすることができるのに…
そして、この力の込め方…と彼女の香りがわかるほど近くで思う。
まるでからだの中心を捉えられたようだーー動こうとするのに、まったく力が入らないーー。
彼女はいったい何者なの……どんな力技を使ってる……?
「高木くん、病院に…」
「佐藤刑事を放せ!」
「高木!」
「放せえぇっ!」
高木くんーー来ちゃだめーー…
「ママを…」「え?」「ママを必ず弔え。約束しろーー必ず」ぐっ、とさらに力が入ったのがわかる。
「必ず…暖かい場所で……寝かせてくれ……」
頼む…という声に、悪意は感じられず、ただ死者を愛していた者なのは、佐藤にもわかった。
「わかった。必ず、必ずきちんと弔うわ。だからお願い。高木くんだけでも病院に行かせて」
「佐藤さん!」高木は咳き込みながら叫ぶ。佐藤は頷いた。「あっ!」瞬間、佐藤は目の前に吹っ飛ぶ。だがすぐにわかった。これは、刃物で切られた痛みーー「佐藤さん!」「だ、大丈夫…」
「大丈夫なもんか!手首を切られてる!ええい救急車など待ってられるかーー!白鳥!」消えた彼女を追おうとする白鳥に、目暮は首を振った。
「ひとりで敵う相手ではない!まるでひとり軍隊だな」
「佐藤刑事止血にこのハンカチをーー」
「警部」佐藤は手首を見せた。血の流れ方でわかる。「動脈が避けられてますから…大丈夫です…」
「ぼ、僕も出血は大丈夫です」
佐藤ははっとした。だから手を出させたのか?まさか。それに捻りあげられたときには後ろでなにをしていたかは見えない…
まさかーー医療の知識もあるのーー…?
高木くんの出血の少なさも、と佐藤は白鳥に運ばれていくママを見た。
安らかそうに見えた。あくまでも、佐藤には。
銀座は知り尽くしたはずだったが、起こした事故のせいで交差点は大騒ぎだった。
やり方は同じだった。
「だから、なんだか滑ったんですよ!タイヤが滑ってーー」
「そうだよ!ブレーキが効かなくてスリップしちまったんだって!何度も同じこと聞くなって…」
「そしたらボンネットから火が…」「タイヤだろ?」「俺もタイヤだと…」
雨はだいぶミストのようになっていた。
あぁ、寒い…震えているのが自分でわかる。
壁に寄りかかり、肩を抱いた。さっきママがわたしを離さなかった腕をさする。
守れなかったーー…結局、兵器は兵器なのか。誰も守れないのか。
守るための兵器があると信じたわたしはバカだったのか。
「くそ…くそっ…くっそぉあああぁ」
血が滲んだってよかった。
生きていれば、傷は癒えるのどす。
「あぁぁああーー!」天を仰ぎ泣きわめけば、雨の降る心地悪いベールしかかかってこない。「わぁぁあん……あぁぁあーーん…」名前は泣いた。子供が、はぐれた母親を探して疲れ果てたように。
もう会えないのだと盛大に絶望する子供と、同じように。
コンクリートを叩き割る勢いで叩いていた。割れたらいいと思った。世界ごと。
ひびが入っていた。だから、あと一発でーー「よせ」ぱしっ、と頭上で手が誰かに握られた。「血が出ている」男の声だった。
さぁっ、と雨のベールがかかる。「そんな格好で…風邪も引く」名前はぼろぼろと泣いていた。誰かもわからない、この男の胸で、泣き濡れてしまいたかった。
だが、所詮は兵器だ。胸元にある血のついた剃刀を谷間に感じてから、名前は振り向く。
傘をさしたスーツの、背の高い男だった。顔がよく見えない。
「誰…?」
「きみをーー」男は急にしゃがみこみ、目を合わせてきたので名前はぎょっとし、とっさに胸元に手を入れていた。
だが男には、違う意味に捉えられたらしい。「あーー」と胸元を見ると、ふっ、と目をそらし、上着を脱ぎ、「そういう意味では」と名前にかけた。
なんだ…こいつ……?
名前の頭はクエスチョンだらけだ。男は立ち上がり、かけていた眼鏡をあげる。
「わたしは公安の刑事だ。風見という」
「はあ?」名前はそう言うしかない。
なんで公安が出てきた?マトリと所轄は合同捜査があるが…ヤクザのなんちゃらで公安の動くような…
名前ははっとし、一気に表情を変えた。「どこまで知ってる?」
風見はただ言った。それだけだった。
「それはこれから会う人に聞いてもらえますか」
車の中は快適だった。ただのバンだが。ただのーー窓に黒塗りした。
「これを」手を手当てしてくれたあと、どれくらいか車は走り、止まると布が出された。名前は顔をしかめる。
「あぁ、そういうのが好きなの」すっ、と背筋を正すと、胸元の剃刀がより感覚を取り戻していた。布が目元に巻かれる。
そのまま背中を押されたので、とっさに腕を掴んでごり、とやってしまう。
「あっ、ごめ…」
「いや。こちらが悪かった」唸る男を差し置き、風見の声がする。「彼女の後ろに立つな。気を付けろ」
「はずしただけだから…折れてないから…」あわあわとするわたしの正面に風見が立つ。匂いでわかる。
だいたいこの位置だと、胸元か腰に拳銃があれば…とすぐに計算してしまう。
「手を取っても?」
かなり上から声がするな、と思う。
「えぇ…逮捕するの?」と笑って両手を出す。すると左手がーー名前の右手を掴んだ。ちっ、と心では思った。
さっきコンクリートを叩いていたとき…右手を振り上げているところを見られていた、と。まぁ、両利きなんだけどね。
やはりな。と思う。拳銃は携帯しているだろう。
「これで」と名前は右手を風見の腕に置かれた。「あら。随分丁重な歓迎なのね…」
いったいなにをさせる気ーー?
「エレベーターに乗ります。君たちはゼロと合流を…」
名前は最初、自分に言っているのかと思った。だが。
ゼローー?それが相手の呼び名だと知ってから、連絡をとっているとわかった。
がこん、とわりと大きな揺れがして、エレベーターは下へ下へ動いていく。
地下4階くらいだろうか。長い時間に感じた。
「タマがスースーしないの?」
風見は無視したようだった。再びエレベーターが止まると、風見が歩き出すのでそれに続いた。
「目隠しをとって構わない」
しゅるり、と布をとる。眩しくて瞬きをしていたが、やがて慣れる。
「お連れしました、古谷さん」耳を押さえ、風見は上を見た。
カメラがある。名前も上を見たーー
「ワァーオ…」ザザ、と雑音と共にスピーカーから声がした。
「これはこれは…予想以上だな……」半分楽しそうな声に、名前は少しずつ気分を悪くする。
「誰?あんたのボス?」カメラと風見を交互に見る。
「あぁ、自己紹介がまだでしたね。僕は降谷零といいます。以後、お見知りおきを…スミスーー」
名前はひっと息を吸い込み、びゅっと飛んで風見から距離を取る。あまりに速かったからか、風見は動きに目を丸くしていた。
壁に背をしたまま、カメラを睨みあげる。
「…そいつは死んだ女の名前だ」
風見はもっと驚いてカメラと名前を交互に見た。当然だ。声の出し方を変えた。
「なら…ニトロとでも呼ぼうか?」
「わたしを怒らせるといいことはないぞ…」ちら、と風見を見た。「あぁ…気に障ったなら謝ります。ですけど、今夜の銀座の交差点事故…」
あれには、ニトロが使われていたんでね…
降谷もだんだん声を低くする。
「マトリが掴んだ真下組の摘発…捜査官があと1歩のところで殺され、麻薬の行方はクラブの地下にあるはずだった…」
名前は部屋のなかを素早く見回す。ベッドが1台。入り口はエレベーターだけ…
「ところがどんなに探しても行方知らずのコカインはーー…下っ端たちの胃から。発見…溶けてもう押収できない分を含めれば、潜入捜査としては」
名前はにやりとして見せた。
「失敗よ」
勝利は完全なものではなければならない。だから、アメリカは原爆を落とした。
「祖国万歳」名前は風見ににっこりしてみせる。
「なんてねーーわたしみたいな混血には居場所なんかないわよ」
どこへ行っても、髪の色、目の色で差別を受ける。
差別は、白人が黒人にするものだけではない。
「交差点事故でパニックになった銀座は、もう暴れ牛だ。救急車も消防車も来れなくなる」
「ま、まさかそれを計算して胃に…」
「そうよ」名前はあっけらかんと頷いた。「それか勃起してるくらいしかないんだから、ちょうどいいでしょ」
どさっ、とベッドに腰かけて足を組むと、スリットが入ったドレスはパンツの紐辺りまで見える。
風見が目をそらした。わかりやすいな、こいつ。
「ママが死んだのは、誤算だったか」
名前は思い切りベッドの頭を掴んだ。ばり、とひびが入り、風見は下がる。
「気安くママと呼ぶな!!」
言い終わると、風見は「うっ…」素直に威圧した空気に奥歯を噛んだ。
「そうだ…あのままママはヘリでボスのところまで送るはずだったーーあんなやつでもママは愛していたからな…それなのにーーあの男はぁ!!」
「…店の地下に麻薬を隠して…知らぬ存ぜぬを通そうとした、か」
「あと…あと1秒…早ければ……」
撃たれたのは、わたしだったのに……
ぶるっ、と震えて、名前は肩を抱く。「レディ・スミス、はーー」降谷は少し間を置く。「アメリカで極秘に行われたスパイプロジェクトを受け、FBI襲撃事件を幼少期で起こし、その後、司法取引で無罪放免。世論も利用するとは…子供だからと鷹はくくれないね。そして、きみは日本に無事亡命」
「そこまでわかって、わたしになんの用だ?というか、わたしの罪状は…」
「要注意人物なんだよ、スミス。君は」
はぁ、とため息が聞こえる。
「罪状は消されても、入国時にその身柄は、公安に引き渡されたと言っても過言ではないんだよーーその時点で、こちらだって勘づく」
名前はあの笑みを見せた。
「わたしをテロリストだと?」
「そうは言ってないがーーきみはある意味」
何者にも、なるんでね…
それが1番、恐ろしいのさ。と降谷はまた楽しそうになった。
「FBI…」ぎっ、と奥歯を噛む。「やはり殺しておくべきだったーー1匹……残らず…」
「自己紹介はこれくらいにしよう。きみに、僕の協力者になってほしい。これはお願いだ」
「っふ、降谷さん…!危険すぎます…!」風見がぎょっとした。「そ、そんな経歴があるやつを…」足をくんで座る名前を見る目が、憤慨したものに変わっていた。
「だがな風見ーーこんなところまで連れてきておいて」
「はいさようなら。には、できないわね」
なんか国が知ってるんだか知らないんだかわからない組織みたいだし。
名前は考えた。公安部、もたしか…検察、警視庁、あとなんだっけ?いろいろあったはずで…なんだか知らないけど、「いいわ」名前は笑う。風見に2度見された。
「でも条件があるわ」
「何かな?」
「ーー抱いてもくれない優しくない男には、顔も見せない男には。協力しないわ」
風見だけが動揺して動き回っているのは、降谷にはシュールでしかない。
「…いいだろう」
「っふ、降谷さん!」
「ただ、こちらも条件がある」
名前はカメラを睨みあげた。「なによ?」
「きみは……恵まれた容姿だよね」
男は誰でも目を奪われるーー
「だから?」そんなのは自分でもわかっているし利用してきた。そして風見に目をやり、ピンとくる。
わたしの使い道なんぞ、だいたい決まってる。頭がよくなければーーもて余すだけ。
ふらっと立ち上がり、「な…」風見に近付き、口付けた。「っ…!?」「…口を開けて……」「うぅうんむっ…!」
無理だ。わたしが相手で拒める相手はいない。
「5分」スピーカーから声がして、名前はそのまま風見をベッドに殴るように落とした。「いえーー」どさっ、と風見が落ちると、名前は風見に股がり、ワンピースのジッパーを一気に下ろした。「2分で足りる」
「よ、よせっ…」
「ねぇ。でも此処」風見のそこは盛り上がっていた。助けを求めるようにカメラを見るが、なにも返事はない。
「いいのよ、今なら払いのけられるの。わたしの姿を見てよーーどこにも、ほら…なんにもないわ」
驚くほどの曲線だった。見たことがないほど、その曲線美に風見は目がそらせない。
「あ…あぁ…」
無理もない。日本人のからだではないのだ。見たこともない光景のはず。
風見はぶるりと鳥肌をたてた。
できないーー快楽を前に、なにも…。
「っ!」苦しそうに首をのけぞらす。
「大きいわね、全部入るかな」
胸元に挟み込み、最初はただ上下にさせてみるが、呼吸が荒くなるだけだ。
(ならこれは?)左右の胸を交互に擦り付けるようにすると、「んぁっ…!」風見は口を塞ぐ。「こっちね」はいはい。と名前はそれを続ける。「あ、あぁ、も、やめ…っ」ちゅっ、ちゅっ、と液体の音がしてくる。もうすぐだ。
「いいのよ、今撃ち殺して…」
「うあぁっ…」
カメラを見て、名前は目を細めた。
高みの見物ってわけ。
ぐぐ、とペニスが硬くなるのが胸の中でわかる。
(おわりーー)名前はカメラを見た。ガクガク腰を震わす風見のそこから、勢いよく飛び出してきた精液に、名前は「あ」目に入りそうになり片目を閉じる。
そのまま時計を見た。「1分34秒、2分あれば…十分だったわね。ボス」
「すごいな」スピーカーから拍手が聞こえる。
「あとで謝った方がいいわよ」
ベッドで丸まり、顔を覆う風見は耳まで真っ赤だ。「そうしよう」
名前はすぐさま、下乳から剃刀を取り出し風見に馬乗りになった。「く…っ」顔を見られたくないのか、抵抗したが名前は顎を掴んで向けさせた。
「…情けない顔」名前は首をかしげる。どうして男は、射精するとこんなに生気がなくなる?
風見はぱんと手を叩いた。まだ息が荒い。だがまた持ち直す。
「ボス?あんたの部下ーーふにゃちん出したまま死ぬわよ」剃刀を首に当てる。
「早くあんたが、姿を現さないと…」
がこん、とエレベーターの音がしてはっとした。
すぐ風見の腰にある拳銃を引き抜く。エレベーターに向け、それが止まるのを待った。
「はじめまして」
コツ、と一歩暗闇が動いた瞬間、「手をあげろ!!」名前はまたあの声を出す。
素直に、降谷と呼ばれた男は両手をあげた。
「お願いがあるーー!」
名前はびっくりした。自分と同じ声の出し方だったからだ。くっ、とグリップを握り直す。
あの声は鼓膜というか、脳に直接響く。本能が危険だというのだ。
「服を着てくれないかな?」降谷は後ろを向いた。「僕も…男なんでね」名前ははっとした。「ふにゃちん!」「は、」風見は自分の呼ばれ方に唖然としたようだ。
「背中あげて!早く!!」
「あっ、あぁ…」
「あと僕の知り合いにもそれをしまうように…」
ジッ!と怒りのあげ方だった。自分のも、名前のも。「わかっていますよ!」
「あぁ、久しぶりにいいものを見せてもらったよ…風見、すまなかったな。いきなり僕が出ていくわけに…」
風見はふんと違うほうを向いて、ネクタイを締めなおしていた。
名前はまた驚く。随分と若く見える。風見よりも若いのか?
それにーー「居場所などどこにもない」「え?」降谷の髪の色と肌の色から、安易に想像できた。
「その気持ちも、よくわかるのさ」ところで、と降谷。「きみはもう、僕の心臓の一部だ」そう言って自らの胸元をつかむ。
「そのようね…」
名前はすぐさま、またぎょっとした。カツカツと近づいてくるから身構えると、そのまま抱き締められた。
「な、なにを」
「…君には強いる。国のために、この国に住んでいるすべての人間のために」
名前の大嫌いな台詞だった。国に従えば…答えはもう出ている。「えぇ…」名前の瞳は、蛍光灯を受けてきらりとした。名前も降谷を抱く。
この男が、わたしを切り捨てるときは……。
「僕が君を守ろう。レディ・スミス」
「知らない?わたしはーー」
レディは胸に肘をついて笑った。
わたしは、ニトロよーー安寧と苦痛をもたらすーー…
「困ったな…協力者というのに、怖すぎるよ。心臓に悪い」
いろいろとね。古谷は心中で呟いた。
「降谷さん」低い声に2人は存在を思いだし、「あ」と声を揃える。
「彼女のやったことは、犯罪です。それを帳消しにしてまで協力者にす」
「あなたには一般人じゃない。一般人にイカされて何がもんだ…」
「それが問題なんだ!」風見は唾がかかる近さで言う。「わ、わたしは襲われたんだぞ!」「えぇ。か弱い女にね」「~~っ!!」
「あぁ、わかった。風見。本当に悪かったよ、だが」
彼女の罪は一切問われないようにする。
使い道は多そうだが、と風見とまだ言い合うスミスを見る。
思ったよりも、兵器に近いーー…人間的ではないのが気になる。
スパイプロジェクトでは子供らはきちんと交流する時間があったはずだが、エドワード・グリーンがなにをどう教えたか?生きる術として。
こういうのはやり過ぎる傾向にある。そもそもエドワード・グリーンもそうだ。中止になったのだから、レディ・スミスも殺したらよかったのだ。
だが生かした。そして、10年の間…
「ねぇ、ゼロ」
降谷は息を吸い込んだ。「それは…」「なによ?名前、零、っていうんでしょう。ゼロ、じゃない」
「あぁ…たしかに」一瞬ダーツの真ん中に矢が刺さった気がした。
彼女が言うから余計恐ろしくなってしまい、笑いを堪える。
「ゼロ、わたし家に帰れないんだけど」
あそこは真下組の敷地だし、と言う。それもそうだが、と古谷。「それもそうだが、君は協力者なんだ。時間による報告、公安の目の届く範囲の移動…」
「わかった。なら、ゼロ。あんたの家に置いて」
「制限が…ええ?」ふっ、と風見が笑う。あいつーー「それがいいですね。何かあってもすぐ報告と連絡ができますし、なにより、自らの違法捜査は自らで責任をとるのが我々の仕事ですからね」
「なら決まり」
2人はエレベーターへ歩いていく。
「ちょ」
「早く連れてってよ!このーー」がん、と風見の溝尾に肘を当てる。「ぐっ…」
「風見の精液が目に入りそうだし乾いてきて、髪の毛がパリパリする!あとあんた」スミスは風見の足をひっかける。「うわあっ!」どさっ、と風見は尻餅をついた。スミスの顔が歪んでいく。
「あんた、よく公安の刑事が勤まるわね…」
「こ、このおん…ぶっーー」スミスは前屈みになり、胸を押し付けた。というより、乗せた?が正しいかもしれない。古谷はようやく咳払いする。
まぁいいーーいずれ。
エレベーターに乗り込むと、まだ2人はわちゃわちゃしていた。
こんなのは久しぶりだ。こんなのは…
「で?」スミスは風に当たったまま言う。「え?」古谷は運転していたため、ミラー越しに後部座席を見た。
本当に整っているな……流れる髪で顔がよく見える。眉と瞼の境がほとんどない、彫りが深くて、夜に見れば目元の位置がよくわからないくらいだ。
ミラー越しのスミスと目が合う。
「誰を殺れば?誰と寝れば?」
「待ってください、常にあなたに頼めそうな仕事があるわけではないんですよ」
「ならその間はどうしろっての」
きっ、と目付きが変わり、降谷も考えた。たしかにそうだ。行き先はあとで風見に用意してもらうとしても、その間は……
「あぁ。そういうこと」
「は?」何も言わないのにスミスは呆れたように腕を組んだ。
「あなたの家に入れるのは、わたしを監視するのに都合がいいから。でも、もっと都合がいいことよね」
「いや…それは……」信号で止まる。エンジン音がからだに響く。
「たしかにあなたがいいのなら、その方が不自然さはないですけど」
「家事はしないわよ」
古谷はおかしくて笑った。青になっても、しばらくクスクスとしてしまう。アクセルを踏み、「それは…」たしかに、あなたの仕事ではない。と。
「喫茶店?」スミスはシャワーを浴びながら、髪を振り、振り向く。
降谷はもうあまり考えないようにした。
たしかに、彼氏彼女なら一緒にシャワーを浴びてもおかしくはないのだから…。
「えぇ」降谷はぴったりとからだを密着させられ、久しぶりに感じる女の柔らかさに、からだの底が熱くなるのを感じて、誤魔化すようにシャンプーをかぶる。
「あなたも知っているでしょうーー眠りの小五郎」
「あぁ、あの…名探偵の…っていうか、眠ってる間になんて本気?」交霊術でもしてるんじゃないのーーとスミスは呆れたように髪を左右に揺すった。
長いから、びしゃびしゃと水滴が古谷にかかってくる。
「まぁ、そうとも言える」ひとりの男子が浮かび、古谷は頭を流した。
彼が関わるのは間違いないが…。目を開けて思わずびくっと首を後ろにそらした。
スミスがこちらを向いて、正面から見ていたからだ。
それだけなのにーーと。なぜこの女がこんなに恐ろしいのか?
「…その眠りの、」と古谷は流れるシャワーを受けながら続ける。目がそらせない。1番見たら忘れられないーー
「彼の探偵事務所の1階に、ポアロという喫茶店があるんだよ。僕はそこで、安室透という名で勤めながら様子を見ているんだ」
「様子?」スミスが説明しろ、と言いたいのはわかったが、これ以上はもう。
組織の潜入捜査も、この女には知れるのは時間の問題だ。
だが、協力者は協力者だ。辿り着いたとしても……いや。と思った。
まさかな…と。
「以上だよ。のぼせる」
シャワールームは煙でいっぱいだった。もやになり、互いが見えなくなっていく。
「ねぇ、ミルクを切らさないで」
「その前に、何度も言わないとわからないのかい?」
服を着てくれないか。と古谷。自分のコップもとん、とカウンターに置く。
スミスはまるで不服、といわんばかりに冷蔵庫をばんと閉めた。
「ミルクがない」
「わかったわかった。明日買っておくから」両手をあげる前に、バスタオルを投げた。
これじゃまるでーー猫を飼っているようじゃないか。
スミスはまだ不機嫌だったが、巻き始めたので続ける。「喫茶店のマスターにはもう連絡してある。君は明日からそこで」
「待ってよ。わたし日本の履歴書を書いたことはないし面接のやり方も知らないわよーー」
「気にしなくていい」古谷は自ら水道を捻って水を注いだ。「君はおそらく、一発合格だからな…」